ぼくを彩る世界

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 ヒロムは生まれたときから目が見えなかった。しかし、それを不便だと思ったことは一度もない。幸い点字という目の不自由な人の心強い味方のおかげで、ヒロムは年相応か、それ以上にいろんな言葉を知っていた。  それでも、ヒロムが色という概念を理解したのはつい最近のことで、普通の子どもたち――いわゆる健常者――に比べたらずっと遅い。ヒロムくらいの歳の時分には、たいていの子どもは色とりどりのクレヨンを片手に、お絵描きをしたことが一度や二度はあるだろう。 「ねえ、お母さん、あかいろって何?」  読みふけっていた点字の本に〝あかいろのやねのおうち〟と書かれていたことがきっかけだった。屋根とお家はわかる。が、あかいろって何だろう? ヒロムは興味を惹かれ、母の袖を引いて訊ねた。母は何でも知っていて、ヒロムがわかるまで丁寧に教えてくれる。  母の答えには一瞬だけ間があった。 「ヒロム、あのね。ヒロムには見えないけど、ヒロムの周りにはたくさんの色があるの。赤色っていうのは、たくさんある色の中のひとつなんだよ」 「たくさんって、どれくらい? 百個くらい?」 「もっと、数え切れないくらい、たくさん! この世界に、ひとつとして同じ色はないわ」  数え切れないくらいと聞いて、ヒロムは少し不安になった。数えるのは得意だ。りんごが一個、二個、三個……数えられるものは、手で触れられる。しかし、ヒロムの目が見える見えないにかかわらず、数えられるものと数えられないもの、世界のすべてはあまねくこの二つに分類されることを賢いヒロムはよく理解していた。……この世の中に数えられるものしかなかったら、ヒロムにとってどんなにか生きやすいだろう。 「大丈夫よ、目が見えなくたって、ヒロムは色がわかるようになる」  母はささやくようにそう言って、ヒロムの手を優しく包み込む。 「寒くなってきたから、冷えちゃったね。指先が冷たい。今から温まろうね」  点字の本をその場に残し、方向転換して母に導かれるままに移動する。パチパチと爆ぜる音がだんだん近くなるにつれ、空気の温度も少しずつ上昇しているのを感じる。肩を下へと押されて座るよう促されたヒロムは、自分が今、暖炉の真正面を独り占めしていることを理解した。普段なら暖炉に近づくのは危ない、と叱られるはずの行為だ。  パチパチ、パチパチ。不規則で(いびつ)なメロディが、凍えた指先にも沁みわたるようだ。 「しもやけになってない? 温かいね。……暖炉はね、薪がくべてあって、火が燃えているから温かいんだよ。火が消えちゃったら、お母さんもヒロムも、寒い、寒ぅい思いをすることになっちゃうの。火はめらめら、ゆらゆら燃えて、中心のほうは少し薄い色をしているんだけど、外側は鮮やかな赤い色」  ヒロムの頭の中を閃くものがあった。  そうか、あかいろって、温かい色なんだ!  ヒロムの背後から母が抱きしめる。母の腕にすっぽりと収まって、母のにおいに包まれて。  火が与えてくれる温もりとはちがうけれど、母がくれる温もりもまた、穏やかで心地よい。 「赤色はね、愛情をあらわすハートマークにもよく使われる色なの。心臓を(かたど)ったかたちのマーク。だから、赤色は愛情を伝える色」  ヒロムは母の顔に手を伸ばす。母はどんなタイミングでヒロムが触れてこようと、一度も嫌がったことはない。ヒロムは母の顔をなぞる……額、眉とたどって鼻……唇……顎。母の顔を見たことはないけれど、ヒロムは母の顔をよく知っている。ヒロムの大好きな顔だ。 「ヒロム、生まれてきてくれてありがとう。わたしのもとに、生まれてきてくれて、ありがとう」  母の息遣いを手のひらに感じる。どうやら笑ったようだ。見たこともない、母の笑顔。 「ヒロム、のぼせちゃった? 顔が真っ赤っ赤だね」  そういえば、さっきから身体が熱くて少し汗ばんでいる。ヒロムは素直にうなずいて、暖炉から離れた。暖炉より、母のそばで感じる温もりのほうが、ヒロムにはうんと大事だから。
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