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「橋口さん?」
「え?なんで妻の旧姓を?」
違った。いや、違っていないけどちょっとまずかった。靖成は渋い顔をしたが、これで男性の身元がわかる。木内雅史は賀奈枝の姉のだんならしい。靖成はなんとなく誤魔化し、本題に入る。
「えー。木内?さん?」
はい、と雅史が返事をした。靖成になんとなく上司感があるのだろうか、初対面のコスプレ男性相手に素直な返事である。
「営業成績があがらず……とか、営業先でトラブル続きで、上司に責められ、とか、とにかくちょっと嫌になった感じですよね」
はい、と雅史が懺悔をしにきた憐れな子羊のようにうなだれている。
「僕……結婚したばかりで、新婚だしもっと早く帰ってイチャイチャしたいのに、成績上がらないから空気読むとそんなこと無理だし、営業だから取引先が帰っちゃうとやることないし」
「そりゃそうだ」
うん、と靖成は頷く。
「なんか辛くなっちゃって……」
「うん……わかるよ……」
その場だけサラリーマン人生相談になっている。やきもきしたユキが叫んだ。
「靖成!それよりさっさと祓えよ!」
「えー、待ってよユキちゃん……」
靖成は困って斜め上に顔を向けたが、ユキの姿はやっぱり雅史には見えない。しかし靖成には、黒い影が雅史を先ほどから突き落としたくてうずうずしてるのが見えている。
「ユキちゃん?」
「あ、いやこちらの話で……」
そういうと、靖成はやっと懐から紙を取り出した。人型の、紙。それをふわりと空に放ち、呪文を唱えて印を結ぶ。人型から何やら光がするっと出るやいなや、それは異形のものに姿を変えた。白鳥より少し大きい、鳥のようだ。
「お願いします……」
ユキが静かに声をかけると、鳥は羽ばたき黒い影を包むように襲う。しばしの攻防ははっきりと見えないが、局地的に風が渦巻く夜空に、たまに鳥の形や静電気のようなものが走る。雅史は子供みたいなわくわくした顔をしていた。思ったより元気らしい。
「映画みたい……陰陽師が出てくるやつ。最近ネット配信で見た」
「ネットは便利でいいですねえ……若い世代にも説明いらずで楽です」
意外と早くかたがつき、影は霧散する。雅史は当然のことながら靖成に詳細を聞くべく詰め寄り、靖成は思わず烏帽子を深めにかぶり直した。身バレは会社員として致命的である。
「えーと……今日のこれは、本部の知り合いの知り合いからです。パワハラで自殺騒ぎになったらヤバいから、どうにかしてくれ、と。まあ仕事の形態をまず見直そうと思わないあたりが、どうなんだと思わないでもないですが……そして怨念には細かいニュアンスは伝わらない。自殺防止より、問題の根本的抹消……つまりあなたの自殺遂行を後押ししようとしてた訳です、多分」
本部とは、靖成が所属する陰陽師の元締めである。
「……じゃあ、誰か社内のやつが、仕事を妨害していたと?」
「いや~、違うな。あなたは単に営業職に向いてないと思うんですよねえ……」
え?と、ユキが振り向くと、そこに見えたのは、靖成の悲しそうな顔だ。
「奥さんですよ」
「……麻理恵?」
こくりと靖成が頷く。だが、麻理恵が雅史を殺そうとしたわけではない、と言う。
「奥さんは、あなたが辛そうにしてるのを見て、楽になって欲しかったんです。楽に、というのは勿論、転職して、という意味だけど、そこに社内の悪い空気とあなたの罪悪感がマッチしてしまった」
雅史は、その場に座り込んで静かに聞いている。靖成も、しゃがんで雅史と目線を同じくした。
「楽になって、いいんですよ。家族と社会に責任を持つのは大人として大事なことだ。でも、義務感だけで生きる必要はない」
雅史が、躊躇いながらゆっくり頷くと、靖成は笑った。
「余計なことに惑わされず、自分と、大事な人の声をきちんと聞いてあげてくださいね」
それは、陰陽師というよりは、人の良い上司の表情だった。
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