第1話 その1

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第1話 その1

闇の中、その人の手が、衣から覗く。 両の手がゆっくりと印を結び、ひらりと舞い落ちる人型の紙をつい、と押さえると、それを合図に閃光が辺りを覆った。 烏帽子を被った狩衣姿の男性の顔が、光に照らされ一瞬浮かび上がる。 その足元に落ちた人型からは式神が現れ、いま上空で建物の屋根を抱き込むようにしている悪霊を退治してくれる…… はずだった。 「……あれ?」 ぱたり、と、紙が地面に落ちた。 「あれれ?」 何も起きない。 男性は、しゃがんで紙をつまみあげる。下を向いた拍子に、烏帽子が落ちた。 「あれー……」 その無防備な背中に悪霊の爪が伸び、狩衣を引き裂かんとしたその時、どこからかふわりと人影が舞い降り、鋭い爪と男性の間に割り込んだ。 「はい、そこまでー!」 人影は、少年だ。しかし頭には大きな二本の角、着物と羽織は曇天のような浅葱鼠色に梅と雪の模様が描かれており、梅雨のこの時期に合うような合わないよう柄だが、明らかに人ではないので季節感は気にする必要はないのだろう。 悪霊の手のひらは、その少年の背丈ほどもある。当然爪は、少年の華奢な腕と同じくらいの太さ、長さだ。それを少年は抱えると、下駄をはいた足を踏ん張り勢いよく捻った。 途端に夜空を切り裂くような悲鳴があがり、悪霊の体は竜巻のようによじれる。黒い霧となった悪霊が手を自ら切り離して屋根まで飛び上がると、そこにいたのは小さな生き物だった。 細い尾が、怯えたようにうねっている。 「……やだなあ、ネズミだよ。俺ネズミ好きじゃないんだよね…」 少年は嫌そうな顔をしてネズミを見上げると、懐から白い和紙を出した。素早くそこに指先で何かを描くと、ピリッと触れたところから紙が裂けて形が浮き上がる。 猫だ。 「お願いします……」 そう言ってふうっと息を吹き掛けると、和紙と同じように白い、1匹の猫が現れてしなやかに屋根へ上る。そこからはあっという間だった。天敵に押さえつけられたネズミはそのまま霧散し、猫が咥えてきたものを少年が手に取り見ると、それは木札であった。 「えー、なになに。株式会社サクライ社長、サクライ様……」 神社の正月祈祷などでよく見るサイズの木札に、筆ペンで書かれているのは、この建物の家主であるサクライの名前だ。 「呪いの札にしては丁寧だな。様付けかよ」 少年、もとい式神が呆れたように言った。 「おじさん!もう大丈夫だから出てきてよ。これ誰の字?」 呼ばれて建物から出てきたのは、五十歳くらいの小太りの男性だ。この、瓦をふんだんに使った古くて広い家屋の主人、サクライである。 「ああ……わからん」 がくっ、と、少年はこける真似をした。 「平安時代にもそんなギャグはあったんだねえ」  狩衣の男性が感心したように言い、少年が真面目に返答した。 「いや、三十年位前に、お前の親が見ていたテレビで覚えた」 そんなやり取りをし、式神から目の前に木札を差し出されたサクライは、んー、と、首を傾げたが、やはりわからん、と手のひらでうっとおしそうに木札を押し返す。その横柄な態度に、式神は苛立ちを隠さない。 「おじさんさあ、自分の部下の筆跡わかんないの?苦楽をともにした仲間でしょ?」 「会社を大きくして、給料払ってやってるのは俺だ。あいつはただの従業員だ」 そっぽを向いたサクライに式神は怒りでつかみかかろうとしたが、それを制したのは、陰陽師だ。いや、烏帽子は外れ、黒い髪が見えている。耳のあたりで髪をきっちり撫で付け、人がよさそうに目を細める風貌は、陰陽師というよりは会社でひたすらクレーム対応で頭をさげまくっているような、うだつのあがらないサラリーマンだった。 「まあまあ」 サクライが見ると、陰陽師は目を細めて柔和に笑う。 「あいつ、って。わかってるんですねえ、流石です」 う、とサクライが呻く。式神がなにやらまじないを唱えると、触れているところから炎があがる。否、上がったように見えた。式神の手には火傷はおろかすり傷ひとつ付いてない。 そして、炎がゆらめき、それをスクリーンのようにして1つの映像が浮かび上がった。収賄のシーンである。もちろん主役は、サクライだ。 「これ、うちで処分しちゃっていいですかね?処分料は、この筆跡の人……あなたの会社の従業員に払う、退職金で良いですよ」 陰陽師はにっこりと笑い、少年はサクライをじろりとにらむ。 「ああ。今後そいつに変なことしようとしたら」 少年は、そう言いながら木札の真ん中を親指と人差し指、中指とで持つ。そして下にした親指を支点に、上二本の指先に力をいれ、二つに折った。あー、という陰陽師の声がしたが、顔面蒼白なサクライの耳には入っていないだろう。 木札は、そこで霧散した。同時に式神の姿もサクライの視界から消える。 これで、今日「陰陽師」に依頼された悪霊退治は、無事完了となったのだ。
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