春の日

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春の日

『前略、先生。  お元気ですか。今日は何本、煙草を吸いましたか。そろそろ身体のために禁煙を考えてみませんか。なんて言うと、「のっけから説教か」と舌打ちをされてしまいそうですね。  さて、今頃なんだと笑っているでしょうが、この度は手紙を書こうと筆を取った次第です。何を書こうか正直とても悩んだのですが、私が書きたいことを書こうと思います。どうぞ、お付き合いください。  先生、憶えていますか? 私とあなたが出会ったのは、高校三年に進級したばかりの春でした。  図体ばかり大きな私は、まだまだ尻の青いガキで(もちろん比喩ですよ)、ただ向かい風を耐え忍ぶことが正義だと信じていました。自分一人の犠牲で大切な人が穏やかに過ごせるならと、勘違いも甚だしい勇者気取りだったように思います。  そんな私を、あなたは真っ向から切り捨てましたね。そして酷く面倒くさそうにしながらも、なんの掛け値もなく受け入れ、認めてくれました。  愛想笑いのひとつもせず、無口な上に言葉も荒々しく、わかりやすい優しさをくれない。そんなあなたは見目の麗しさに似合わず、いつも仄かに煙草の匂いをまとっていましたね。  ずぶ濡れになっていた私は、己の持つ湿度に煙草の匂いが混ざり、染みこんで取れなくなりそうだ、と不安だったことを思い出します――――』  いくら五月も間近だとはいえ、風のある日に被った真水は冷たい。額を隠す前髪から伝った雫は、顎先から喉元、シャツの中へと勢いよく落ちていく。肌は突然の傍若無人な侵入者に驚き、自覚するほどわかりやすく鶏の皮を真似た。  ときは放課後、掃除の時間。校庭横の水場周りで掃除に勤しんでいた五十里谷俊介は、握っているホウキと共にビショビショになってしまった。  何すんねん。掃除にならへんわ。ボンヤリ考えている文句は飛び出さない。  水道の蛇口に親指を押し当て、躊躇なく五十里谷へ水をかけた犯人は大声で笑っている。目がくりんと大きく、まだ幼い顔立ちが下劣に歪む様を見るのは、もう何度目だろう。 「悪い、そんなとこにいると思わなかったからさあ」 「ああ……」 「でもちょっと綺麗になったんじゃない? 何が、とは言わないけど」  彼は横井といい、五十里谷がこの高校へ編入してきた二年時から同じクラスの男子生徒だった。彼の周辺には去年と顔ぶれの違う取り巻きが数名いて、リーダーに倣ってニヤニヤと笑っている。  同じ班の女子生徒たちは、目の前で起きたいじめをただ見守り、息を潜めていた。  五十里谷は重ためで切れ長な目を伏せ、形のいい唇をきゅっと引き結ぶ。元いた地域の訛りを残した快活な悪態が、よく通る低い声で紡がれることはない。  反論も仕返しも、やる気が起きない。それは既に横井の嫌がらせに慣れきっているからでもあるし、穴の開いた袋へ荷物を次々放り入れるかのような虚無感に襲われているからでもある。加担する人数より傍観の割合が増えた時点で、取るに足らない、と思っているのも事実だ。  ただ、この場に五十里谷がいればいるほど掃除は終わらないだろう。 「最後までできんでゴメンな。先帰るわ」  一番近くの女子生徒へ声をかけ、嫌味たらしい笑い声を無視して掃除場を離れる。用具倉庫へホウキを返し、足を迷わせた末に校庭から最も遠い北校舎の裏へ向かった。  高校の裏手は溜め池になっており、張り巡らされたフェンスの向こうには当然、民家もなければ通行人もいない。溜め池のまた向こうは片側二車線の道路を車が走っているものの、車内から高校の裏手で佇む学生など誰一人気にしないだろう。  五十里谷は陽が当たらず影になった辺りで立ち止まり、校舎の壁を背に濡れたブレザーを脱いだ。  分厚い生地を捻って絞るが、思ったように水気が落ちてこない。ぐっしょりと水分を含んだそれをもう一度着る気にはなれないが、中のカッターシャツは柄物の半袖Tシャツが透けるほど濡れている。帰りの電車に乗るくらいは問題なさそうだが、さすがにこの状態では人の目が気になってしまう。  困り果てていると、尻ポケットで携帯がブルブルと二度震える。やる気なさげに確認すると案の定、保護者である叔母からのメッセージが入っていた。  遅くなるから先に夕飯食べておいてね、と綴られた文末には、汗マークの絵文字が動いている。了解の意を示すスタンプを返せば、ほぼ二日に一度は交わされるテンプレートのやり取りは終わった。絵文字はこんなに跳ねているのに、スタンプは気の抜けるキャラクターが可愛くウインクしているのに、彼女と五十里谷の間には測り方のわからない距離だけが存在している。  何はともあれ、尻ポケットに携帯を入れていてよかった。腰かブレザーのポケットだったなら、非防水の携帯は少ない思い出ごと天国へ旅立っていたはずだ。綺麗に真正面から水をかけてきた横井にも、一応の感謝を示すべきだろうか。  携帯をしまって重いブレザーを振っていると、右斜め後ろでガラリと窓の開く音がする。 「あ?」 「え?」  振り返った先には、全面禁煙なはずの校舎内で、火の点いた煙草を銜えた白衣姿の男がいた。まさかピンポイントで傍の窓が開くとは思っていなかったが、反射的に会釈する。 「どうも……」  無反応の男も、開けてすぐ横に生徒がいるのは予想外だったのだろう。窓に手をかけたまま完全に固まっている。  彼は確か一年生を主に担当している社会科教師で、名は樋口雪夜だったはずだ。近くで見たのは初めてだが、五十里谷は内心、なるほどなあ、と呟く。  まだ理不尽ないじめが始まる前、友人らから樋口の噂は聞いていた。いわく、「教師にしておくにはもったいない美形」かつ「無口な上に目が死んでるボッチ」らしい。酷い言い草だったが確かに顔立ちは整っているし、形の綺麗な目には生気がない。  不衛生な印象は受けないが、雀の尻尾のように結った黒髪も異端たらしい。しかし二重、涙袋、泣き黒子という特徴的で儚げな目元と、青白い肌にはそれが妙に似合っていた。温度のない視線と下がった口角さえ改善すれば、禁断の愛を夢見る女子生徒の憧れの的になるだろう。  観察している間に硬直の解けた樋口は、五十里谷の頭から足先まで目を滑らせ、煙草を銜えたまま煙を吐き出す。モヤがかった白濁が晴れると、面倒そうに眉を寄せていた。 「いじめか」  水浸しの生徒へ教師がかける第一声にしては、ストレートすぎではないだろうか。  見た目のイメージ通り淡々と話すが、声は煙草のせいか出だしがゴロついている。デリケートな一言をオブラートに包んでくれない配慮のなさは、儚い印象を裏切り、無神経なほどでほんの少し苛ついた。まだかろうじて、図星を指されて反発する程度の自尊心は残っていたらしい。 「超局地的な雨が降ってっただけやし」  むっすりと唇を尖らせるも、男は気にせず親指で室内を示す。咄嗟に反応できないでいると、彼は「入れ」とだけ言い、まだ長い煙草をしぶしぶ消して背を向けてしまった。 「あ、ちょ……」  男の黒髪を束ねる、いやにキラついたポニーカフスに意識をとられている間に、くたびれた白衣は見えなくなってしまう。  五十里谷は一瞬迷ったものの、冷えてクシャミが出たため彼の厚意を素直に受け取ることにした。 「ほな……お邪魔します」  ブレザーを肩にかけ、窓の桟へ乗り上げる。靴を脱いでから部屋の中へ下りると、「窓閉めろ」と指示が飛んできてすぐに閉めた。  すると樋口はどこから出したのか、カラカラに乾いて畳んだ面がくっついたタオルを放り投げてくる。 「ないよりマシだろ」 「まあ」  使用前か後かが気にはなったが、彼の言う通り濡れたままよりはマシだ。  五十里谷はタオルの出どころと状態を考えないことにし、ペリペリと広げて頭へ乗せた。かさついて固いくらいのタオルは、髪の水分を驚くほどよく吸う。肌触りに目をつむれば流行りのマイクロファイバーよりずっと安上がりで庶民的だと考えながら、部屋の中を見まわした。  侵入経路となった窓の傍には、男のものらしきデスクがある。部屋の中央には脚の短い長テーブル、年季の入った三人掛けの合皮ソファ。壁際にはみっちりと本の詰まった大きな棚が、横並びに二つ設置されていた。  ただ、そこかしこに物が多すぎて座る場所に困るほど雑然としている。整理整頓という言葉を知らないのだろうか。 「ここ、社会科準備室やんな?」  社会科教師が使用するなら間違いないだろうが、彼は何故か白衣を着ているような男だ。一概には言えない。  しかし、つまらなそうに鼻を鳴らした樋口は、無遠慮なまでに五十里谷を馬鹿にしていた。 「見りゃわかんだろ」 「部屋汚すぎやねんもん。倉庫にしか見えへん」 「うるせえしばくぞ。お前、名前は」 「五十里谷俊介。漢数字の五十に里と谷って書いて、いかりや、やで」 「あっそ。人間臭いのと煙草臭いの、どっちがいい」  五十里谷は大量の疑問符を製造しつつ、湿ったタオルを肩にかけて「人間臭いほうがマシちゃうんやろか」と呟く。  すると男は白衣を脱ぎ、窓辺のデスクへ置いた。そして春だというのに冬物丸出しな白のセーターまで脱ぎ始める。唐突にストリップが始まったのかと、五十里谷は呆然とその行動を見守るしかない。  やがて樋口はセーターの中に着ていたカットソーも脱ぎ、それを手に近づいてきた。 「ないよりマシだろ」  既視感の強すぎる台詞を吐き、男がカットソーをずいと面前へ差し出してくる。  顔の青白さと大差ない肌色が近づくから、目がチカチカした。大人の男にしては線も細く頼りない。寒がりなのか、みるみる内に広がっていく鳥肌を目で追いながら服を受け取った。 「貸してくれんの?」 「いらねえなら返せ」 「いる。今日体育なかったし助かるわ。ありがとう」  くるりと向けられた背骨の浮いた身体が遠ざかり、あっという間にセーターを着こんで白衣を羽織る。  五十里谷も濡れた服を脱ぎ、樋口のカットソーへ袖を通した。普段着ているものよりワンサイズ小さいが、着れなくはない。少なくとも濡れネズミよりはずっといい。だが選択したはずの人間臭さはそれほどなく、独特の焦げ臭さがツンと鼻腔を刺激した。 「……煙草の匂いしかせえへんで」 「五分もすりゃ鼻もマヒる」 「はあ」 「なんか飲むか」 「オレンジジュース」 「あるわけねえだろボケかお前。珈琲だ」  では何故選択肢があることを匂わせたのか、言い返そうとしてやめる。十倍、いや百倍になって悪態が返ってきそうな予感がしたからだ。  ソファの座面を陣取る地球儀や古地図を、ローテーブルへ移動させて腰かける。  樋口はデスク横に置いてある段ボール箱から缶珈琲を二本取り出して、片方を五十里谷へ投げた。 「ほらよ」 「ありがとう……」  甘党な五十里谷は無糖珈琲なんて飲めたもんじゃないと常々思っているが、ここで我儘を言うほど常識知らずではない。第一声には苛立ったが、樋口はタオルも服も貸してくれた恩人だ。プルタブを開けて苦み走った液体を一口飲み、必死で顔をしかめないよう努めた。  樋口はデスクの回転椅子へかけ、五十里谷に背を向ける。そしてのんびりと珈琲を飲み始めるが、その後何分経っても口を開こうとはしなかった。  待つのに飽きた五十里谷は自ら口火を切る。 「なんでいじめられとん、とか、訊いとかなアカンのちゃうん」  教師とはおそらく、そういうもののはずだ。不道徳な状況を知っていて見逃せば、後に露呈したとき各方面から叩かれる羽目になる。解決する気の有無にかかわらず、一旦は生徒の声に耳を傾ける、それが五十里谷の知る教師の生態だった。  しかし、樋口は振り返ることすらしない。 「別に。言いたきゃ言え。言いたくねえことは言うな。俺が無理やり訊いたみたいになんだろ」  薄情なほど、彼は五十里谷に興味がない。親身になれとは言わないが、教師とは思えないドライさだ。  けれど今の五十里谷にとってはありがたかった。水浸しになり、一人ひっそりと服を絞っていたことも、そういう状況になっていることも、惨めで仕方なかったからだ。必要以上に見られたくないから、人目を避けるように校舎裏へ逃げこんだというのに、根掘り葉掘り事情を訊かれるだなんて精神的な拷問でしかない。 「わかった」  返事をしたきり、お互い顔すら合わせないまま黙って珈琲を飲む。時間をかけて苦いだけの汁を飲み干した五十里谷は、荷物を手にソファを立った。 「また来てもええ?」  男はまだ振り返らない。 「授業がねえときなら、ここにいる」  いいとも、悪いとも言わない。受け入れるほど優しくはなく、突き放すほど冷たくない。適度な無関心に覚えたのは安堵だった。 「ほな、また来るな」  日当たりが悪く物静かな部屋は、決して居心地よくはないが特別悪くもない。けれど学校のどこにも居場所がない五十里谷にとって、自分を嫌い、拒絶しない空間と人はとても貴重だった。  その日から社会科準備室を訪ねること、数度目の放課後。  ようやっと樋口が在室しているタイミングに鉢合わせることができた五十里谷は、扉を開けて動揺していた。デスクに向かって、仕事をする猫背にオドオドと声をかける。 「あ……、と、せんせ、仕事中?」 「見りゃわかんだろ」 「あーうん、うん……そやんな」  邪魔になるのではないか、という懸念に妨害され、室内へ足を踏み出せない。しかしながら何度も肩透かしをくらった今日までを思えば、「また今度」という正しい言葉がどうしても口から出てこなかった。  すると手を止めた樋口が、迷いに迷って棒立ちの五十里谷へ振り向き、おもむろに壁半分を占める本棚を指差す。 「下に落ちてるやつ、手前の本棚にしまっとけ」 「え?」 「タイトルで五十音順な」  指示を飛ばし終えると、男は再びデスクへ向かう。採点をしているのか、ペンが紙をリズミカルに滑る音がした。 「お邪魔……します」  静かに入室し、後ろ手に扉を閉める。  入っていいのか、駄目なのか。話しかけていいのか、駄目なのか。気まずさは居座る理由を与えられたおかげで薄れ、意気揚々と片づけに取りかかる。  だがそのやる気も、全て終えた頃にはクタクタに萎れきっていた。床へと雑多に積まれた本や資料の数も多かったが、問題は本棚のほうで、まずそちらに収まっている分を並べ替えるところから始める必要があったのだ。  見ていたわけでもないのに、空いているスペースへ無作為に詰めこんでいる樋口が脳裏に浮かぶ。綺麗好きで几帳面な五十里谷には理解しがたい行動だ。 「せんせ、終わったで……」  すっかり日が落ちて外は暗い。下校時間はもちろん過ぎており、達成感より疲労を色濃く宿した溜め息がこぼれ落ちた。  樋口は振り返ると、腕時計を確認して「遅い」と不満そうに眉を寄せる。その手には文庫本が携えられており、五十里谷は堪らず口元を引きつらせた。 「さ、採点しとったんちゃうん」 「んなもんとっくに終わってる」 「ほな手伝ってえな……」 「めんどくせえ」  信じられない一言を躊躇なく吐き捨てた男は、欠伸を殺しながら立ち上がって両腕を上へと伸ばす。反ると骨が鳴った腰を叩き、デスク横の箱から缶珈琲を取り出した。 「なんか飲むか」  珈琲を握っておいて、何故訊くのだろう。五十里谷はそれが彼の茶目っ気なのかどうか悩んだが、一切手伝ってくれなかった男を非難する代わりに我儘を言った。 「オレンジ」 「しつけえ」  ひょいと放り投げられ、うら若き人生二本目の缶珈琲を受け取った。あの日の苦行を思い出し、けれどまあそれも悪くはない、と今度は顔をしかめて飲む。  こき使われた後の、苦い珈琲――それが五十里谷と樋口の定番となるのに、それほど時間はかからなかった。  その日も帰りのHRを終え、荷物を手に真っ直ぐ社会科準備室へ向かう。今日の樋口は六時限目の授業が入っていないはずだ。職員室を「居心地わりい」と言ってのける彼は、準備室に仕事を持ちこんで引きこもっているだろう。  一度、「他の教師は準備室を使用しないのか」と訊ねたことがあったのだが、彼いわく「たまに教材取りに来る」だけらしい。もしかすると他の社会科教師にとって、樋口のアジトみたいな準備室は「居心地わりい」なのかもしれない。  問うた日の眠そうな横顔を思い出しつつ、目前まで迫った扉へ手をかけたときだった。 「五十里谷くーん」  聞き慣れた声がして、反射的に動きを止める。  そっと今来た方向へ顔を向けると、ポケットに手を入れた横井が面白いものでも見つけたような表情で歩いてくる。ほぼ特別教室しかない北校舎に用などあるはずもなく、後をつけてきたのは明白だった。  ニタニタと笑う男が一歩近づいてくる毎に、僅かずつ体温が下がって背筋が凍りつくような錯覚に襲われる。 「知らなかったなあ、今度は樋口とデキてんの? あんなことがあったのに凝りてないんだ……すげえ厚かましいね」  用事頼まれただけ、変な想像せんとって。  動かしたつもりの口からは、無意味な息が漏れただけだった。  すぐ傍にまで迫った横井が、狼狽する様を余裕の表情で見上げている。百八十をゆうに超えた長身の五十里谷からすれば、大抵の人間が自分より小さいのに、この、悪意で輝く瞳の前では己がノミにでもなった気がしてしまう。いいや、実際にそうなのだろう。  嫌がらせに慣れきっていても、忘れることはない。横井の放つ毒気が侵すのは自分だけに留まらないのだ。情という人質を取られている五十里谷にできる抵抗といえば、彼の悪意に叩かれる対象を己一人に絞ることだけだった。 「別に……」  そんなんちゃう――。  言いかけたとき、手を添えたままだった扉が向こう側からスライドされる。五十里谷と横井は室内へ顔を向け、そこで欠伸をこぼす男の呑気な溜め息を見送った。 「あ? んだよ、今日は人手が二人か」  樋口は気怠そうに横井を流し見て、親指をくいと室内へ向けて動かす。 「ちょうどいいわ。整理がてら本棚ひっくり返そうと思ってたから」 「いえ、僕は」 「遠慮すんなって、珈琲くらいやるから。ちょっと手伝ってけ」  動揺と困惑で黙ったままの五十里谷を押し退け、横井が準備室を覗きこむ。何度片づけても散らかしの才能を持った樋口によって荒らされる室内は、ひっくり返すまでもなく雑然としていた。プラス本棚の整理となれば、相当骨の折れる作業だろう。 「……今日は塾なんで、すみません」  惨状を見て顔を引きつらせた横井は、そそくさと逃げていく。準備室前の廊下には、呆然とする五十里谷がポツンと残された。 「……せんせ」 「真ん前に突っ立つのやめろ。お前でけえんだよ」  五十里谷の肩を拳で軽く叩いた樋口は、踵を返してデスクへ戻っていく。追って入室するも、彼は普段通りに仕事を始めてしまった。  あのタイミングで扉が開いて、偶然だと勘違いするほどおめでたい馬鹿にはなれない。防音機能皆無の扉越しで、横井の発言を聞いた樋口は何を思っただろう。 「せんせ……」  頭の中がグチャグチャだった。横井に見つかってしまった。樋口を巻きこんでしまったかもしれない。謂れのない噂話を流されたらどうしよう。彼が苦しむかもしれない。五十里谷の平穏で幸せな日々が壊れた、昨年九月のあの日と同じように。  謝って、言わなければいけないのは「今までありがとう」だ。けれど未熟な精神が己の保身にばかり関心を向けている。  だって、困るのだ。樋口にまで放り出されたら――また独りになってしまう。 「せんせ、あんな……俺な」 「それは言いてえことか?」  回転椅子を軋ませ、立ち尽くす生徒を振り返った樋口は珍しく真剣な顔をしていた。すらりと長い脚を組み、五十里谷を探るように首を傾げる。後れ毛が白い首筋へ散る艶めかしさよりも、対峙する者を丸裸にするような黒々とした瞳の強さに驚いた。 「俺に聞いてほしいことか?」  言いたくないことは言うなと、初対面の日に軽く払われたことを思い出す。  できることなら、口にしたくはない。だが抵抗する意地や矜持を殴って黙らせてでも、五十里谷は今、樋口の良心につけこみたかった。  ここを追い出されたら、拒まれたら、自分が路頭に迷うことを知っている。心地よさを思い出してから孤独の殻を被るのは、身を切るような痛みを伴うことも。 「俺な、去年こっちに越してきてん」  頷く代わりに話し出した五十里谷を、樋口はもう止めない。瞬きひとつでいつもと変わり映えのしない無気力な顔つきに戻ったまま、腕を組んで耳を傾けている。 「……そんで?」 「さっきの話聞いてたやんな。……俺、ゲイやねん。でもずっと認めれんかった。せやけど、こっちで一番最初に仲良なったやつに告白されたとき、飛び上がるほど嬉しかった。そいつの気持ちに応えたかったし、嬉しいって思た自分認めたったら、めちゃくちゃ自由になれた気いした」  忘れもしない、一学期の終業式の日だ。喧しい蝉の声も、流れる汗の気持ち悪い感触もまとめて記憶に焼きついている。  五十里谷はまだ一年と経っていない日を思い出し、小さな声で「大事にしょうって思た」と呟く。懐古するのは、探り探り恋をしていた、ささやかながら幸せな、夏休みという短い時間だ。 「……でも、夏休み中に一回だけ外でキスしたんを、さっきの……横井に見られてから、おかしなってん。あいつ、親が市議会議員やなんやいうて、結構取り巻きみたいなんがおってな、夏休み明けにはクラス全員が俺らのこと知っとった。吊るし上げられたみたいな気分やった」  悪意と善意、それから無関心を装った好奇心の目に晒され、五十里谷と恋人はコミュニティから弾き飛ばされた。思い出すだけでも、震えが走りそうになる。 「俺の……元カレな、母子家庭やねん。いっつも親の心配しとって、苦労かけさんとこって家のこと率先してやるような優しい奴やった。そいつが青褪めとんのん見たら、親子揃って打たれ弱いの、思い出して」 「お前、矢面に立ったな?」 「……俺が無理やり襲たんや言うて、すぐ別れた。庇おうとしてくれとったツレも、そのせいで離れてった」 「馬鹿野郎だな」 「俺もそう思う。もっとええ方法あったんちゃうかって。でもこれは自分で決めたことやから、いじめられんのは別に、もうええねん。でもな……でもな、寂しいのは、一人は、まだ慣れへん」  ある日突然、友人も恋人も失い、挨拶すら誰とも交わすことなく年度末を迎えた。そして最高学年となった今、昨年より減ったが横井は嫌がらせをやめようとしない。誰も巻きこみたくないから、誰にも関われない五十里谷は、感じている孤独がはち切れそうなことに気がついていた。 「好きになっただけやのに、何がアカンねやろ。好きだけじゃアカンのやろか。俺の好きって、そんな異常なんやろか。俺は人好きになったらアカンのやろか。って、ずっと考えとるのに全然わからん」  そんなことまで言わなくていいと、頭ではわかっているのに止まらない。今まで誰にも言えず、言わずにいた心の内が堰を切ったように溢れ、樋口へ向かってただ投げつける。  これほどたくさん話すのは久しぶりなせいか、若干肩を上下させる五十里谷は、大きく息をついた。 「せやから、ここに逃げてきてん。でも横井に見つかって、やっと、せんせ巻きこむことになるんちゃうかって気いついた」  樋口はまだ何も言わない。酷くゆっくり瞬きを繰り返すのみで、五十里谷を視線で煽る。  だからなんだ、と言われているような気がして、何故か笑みが浮かんだ。 「せんせ、でもな、俺……ここしか、せんせしか、居場所ない」  自分可愛さに同情を買おうとする子どもを、樋口は何を思って見つめているのか、知る由もない。打算的な自分が情けなく、あまりにみっともなく、それでもどうか拒まないでほしかった。もう来るな、と言われないで済むように、祈り、縋った。  樋口はやがて目を伏せ、何かを考えこむ。  肯定か、慰めか、はたまた拒否か――身構えて唾をのんだとき、男は再び五十里谷の顔を真っ直ぐ見返した。 「なんか飲むか」 「オレンジ。……え?」  反射的に言ってから、話題も空気もぶった切られたことを悟る。唖然としていると、男は何故かソファを指差した。 「下」  見ろ、と言いたいのだろう。戸惑いながらソファへ近づき、床に膝をついてソファ下のスペースを覗く。そこには先日までなかった段ボールが三箱、横向きに並べられていた。その上、側面に書かれている「オレンジ」の文字に驚愕する。 「これ……」  勢いよく樋口を仰ぎ見る。すると彼はふいと顔を背け、吐き捨てるように言った。 「アホがいつまで経ってもオレンジオレンジうっせえから」 「買うてくれたん? こんなようさん?」 「手違いで三箱届いた。俺は甘いもん好きじゃねえんだよ。お前が責任もって全部飲め」  鼻を鳴らし、席を立った樋口が窓を開ける。そしてこちらに背を向けたまま煙草に火を点け、吸い始めた。  五十里谷は段ボールを軽く引き出し、中から缶ジュースを一本取り出す。開けるとぷしゅっと爽やかな音がして、飲んでみると予想より甘酸っぱくて、どうしてか涙が出た。 「め、っちゃ、甘い」 「塩辛いよりはいいんじゃねえの」  いじめを見て見ぬふりする担任の優しげな「大丈夫?」よりも、定期的に配られるいじめ相談室の胡散くさい万人向け謳い文句よりも、わかりにくいが五十里谷にだけ差し向けられた樋口の優しさが温かい。味気ない外の景色と白衣姿のコントラストは、真夏に太陽を見上げているかのように眩しく、細めた目尻からまた涙がこぼれた。 「せんせ」  呼ぶと、濁った煙を吐いて樋口が窓枠へ肩を預ける。チラリと振り向いた横顔のどこにも、五十里谷への拒絶はなかった。 「お前の言う通り、好きだけじゃ駄目だ。なんもできねえ」 「……ん」 「だけどな、好きがねえと、なんも始まらねえんだよ。異常もクソもねえし、性別がどうのも関係ねえ。まあ、不用心だったとこは自己責任だと思うけどな……こんなクソ狭い社会ん中で躓いたからって、そう悲観することねえよ。もっと広い世に出たら、案外お前がゲイなんて誰も気にしてなくて拍子抜けしたりするもんだ」  甘酸っぱさの残る咥内に、塩辛さが混じる。  五十里谷は握りしめた缶を膝へ下ろし、片腕で目元を覆った。 「アホやって、思う? 上手に恋愛できんかったん、ダサいって思う?」 「別に。男同士だろうが女同士だろうが、男女の恋愛と大差ねえだろ。うまくいくときゃいくし、駄目なときは簡単に壊れる」 「せんせ、経験豊富っぽい」 「だったらお前を、すげえな、なんて思ってねえだろうよ」  腕を下ろすと、相変わらず生気のないガラス玉みたいな瞳が五十里谷を見つめていた。なんにも映っていないように見えて、なんでも吸収しそうな純粋さを感じる。彼が一体何を思い出しているのかは知らないが、懐かしげな眼差しは五十里谷に誰かを重ねているように思えた。 「ちゃんと始められて、自分の思うように終わらせたお前はすげえよ。十分健闘してる。よくやった」  その日、五十里谷は居場所を失ってから初めて、声を上げて泣いた。わんわんと、膝を擦りむくだけで泣くことを許された子どもの頃のように。  その内「うるせえ」と言って樋口が引き出しの中のポケットティッシュを何個も投げてくるから、おかしくて、気づけば腹を抱えて笑っていた。
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