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秋の後悔
『記録的な猛暑が過ぎ去って、気温が下がるにつれ、あなたは水を得た魚のように少しずつ元気になっていきましたね。私はそれを、現金な人だなあ、と思い眺めていました。
蒸し暑かった準備室には心地よい風が吹き抜けるようになって、ああそうです、積んだ書類が飛ばされる度、先生は怒っていましたね。だから重りを乗せて、と言ったら、いつも「うるせえ」と叱られました。今思い返しても理不尽です。
秋頃は、本当に色んなことが変化した季節でした。進路のこと、すっかりなくなった嫌がらせのこと、クラスメイトと交流できるようになっていったこと……あなたとの距離感も、そうですね。
これでも、まだ言わずにいようと決めていたんですよ。あなたを困らせることは、したくなかったから。ですが……やはり無理でした。あなたがくれた想いだから。あなたに渡すのが筋だと、私はそう思ったから――――』
体育祭も終えて十月中旬を過ぎれば、校内には文化祭ムードが漂い始める。受験準備でそれどころでない三年生はともかく、一、二年生の力の入れようは見ていて暑苦しいくらいで、昨年満足に参加できなかった五十里谷も釣られてワクワクしている。とはいえクラスの出し物は手抜きの素人写真展だ。圧倒的に空と猫の写真を撮ってくる生徒が多かったため、つい先日「そういうコンセプトでいこう」とテーマが後づけで決まった。
「へえ、じゃあ俊介も写真提出したんだ。何撮ったの」
「室外機の上で寝る猫」
「マジで猫ばっかじゃん。犬の市民権どこ?」
「俺猫派やもん」
ときは昼休み。五十里谷は河野と二人、普段よりずっと生徒の少ない河野の教室でダラダラと食後を過ごしている。鳩山と水川は部活の出店準備を手伝うとかで、食後にそれぞれすっ飛んでいった。
河野の前の席を借り、椅子へ横向きに座って眠気と戦っていた五十里谷は、ぼんやりと瞬く。
「平和やな……」
「そういえばこの間、横井が静かだって言ってたけど、その後は?」
「もう全然。通りすがりに舌打ちされることはあるけど……全く絡んでこんから、教室でクラスメイトによく話しかけられるようになった」
「あーね。結局は横井が怖いんだよ。俺もその気持ちわかるから、悪くは言えないや……」
気にせんでええのに、終わったことやのに。そう言ってやりたいが、そんな慰めじゃ真面目な河野は楽な道へなびかない。五十里谷は彼の肩を叩き、なんてことないような顔で欠伸をして見せた。
「誰も恨んどらんよ。俺そういう疲れるやつ無理」
「……大らかだよなあ、俊介は」
「怒りんぼみたいな音の苗字やけどな」
河野は「子どもか」とキレの悪いツッコミをして、机へしなだれ笑っている。それから、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ、進路希望出した?」
夏休み明け最初の実力テストが終わった後、配られたペラペラの紙を思い出す。同時に、埋めることができた空欄は名前の部分だけだということも。
「まだやねん、決めきれんくて。お前は?」
「俺はN大」
「なんでなん? やりたいことあるん?」
「俺の学力と、通いやすさと、後は就職率の高さかな。やりたいことは特にないけど、手堅いところで学歴は作っておきたいじゃん。もしかしたら行きたい企業とか、就きたい職が見つかるかもしれないし」
ポヤンとした河野も、きちんと将来を見据えて進路を考えているようだ。五十里谷は迷うことなく就職一択だと考えていた自分が、いかに浅慮が実感していた。
「それ、樋口せんせにも言われたわ……」
「あの先生、そんな話もするんだ」
「まあ。せやけど適当に書くんも納得いかんし、希望って作るもんでもないし……」
難しく考えすぎなのかもしれないが、今後の人生に深く影響をもたらす選択だ。就職ではなく進学を選ぶのならと、いくつかの大学をピックアップしてはいるが、どこも決定打に欠ける。やはりそこに「ここがいい」という熱意が不足しているからだろう。
腕を組んで唸る五十里谷の肩を、河野が気安く叩く。顔を向けると頬に指が刺さり、歯が頬の内側に当たって地味に痛かった。
「なん?」
「真面目なとこが俊介らしいよ」
「あったり前やん、真面目の権化やで俺」
「元気そうで安心した。なんか悔しいよなー、そんなに先生が好きかあ」
「まあな」
ごく自然に言うから、つい頷き返す。一瞬だけハッとしたが、河野に知られてマズい話でもない。彼は口が堅いし、信頼できる。
けれど意地悪げな笑みをニンマリと浮かべているのだけは、少しいただけない。
「やあっぱりね。あの日、手引かれて戻って来たの見たときピンときたんだ。俊介って誰が相手でも世話焼くし頼り甲斐あるけど、好きな奴にはちょっと甘えるじゃん」
「……そうやっけ?」
「そうだよ。俺が言うんだから間違いないの。まあ、あの日の俊介は対俺の比じゃないくらい、先生に頼り切ってた気がするけど」
河野は恋人として過ごした一カ月半を思い返しているのか、ほんのりと寂しそうな顔をする。けれどそれも束の間で、彼は机に肘をついて身を乗り出すように五十里谷を上目に見つめた。
「ってかさ、ハードル高すぎない? 先生ノンケだろ?」
「おう。今んとこ望みない」
口に出すのは情けないしつらいが、事実だ。樋口は女性と家庭を持っていたノンケだし、男を見る視線に一切の疚しさはなく両刀の線もない。
しかし全く可能性がないとも思えないのだ。そうあってほしい、という希望でしかないかもしれないが、校内で一番樋口に近いのは自分だという自負が、五十里谷の新たな恋を支えていた。
「けど、望みないから諦めるかっていうたらちゃうやん。じっくり落としにかかろと思う」
吹けないくせに、河野は口笛を吹いて間抜けな空気音を鳴らしている。グダグダな応援演奏だが、素晴らしく元気が出た五十里谷は吹き出して「あんがと」と笑った。
ある日の放課後も準備室へ向かった五十里谷は、珍しく不在だった樋口を探して校内を散歩していた。文化祭準備で騒々しいのは昨日と変わらないが、職員室のある南校舎二階はどことなくソワついている。すれ違う教師の表情が、妙に引き締まっている気がするのだ。
不思議に思いつつ物静かな職員室を覗くが、樋口の姿はない。あの動きたくない症罹病患者が、放課後どこに行くというのだろう。思いつく当てもなく、今日は会えないかもしれないと落ちこんだとき、背後から素っとん狂な声がかけられた。
「お前何してんだ、こんなとこで」
「ん? うお、おった」
振り返ると、袋を提げた手に軍手をはめ、脚立を肩へ引っかけた樋口が呆れ顔で五十里谷を見ている。会えた喜びでテンションは上がるが、次いで軍手と脚立の似合わなさに沸々と笑いが込み上げた。
「せんせこそ何しとん。用務員さんの真似?」
「ちょっとな。……ここじゃアレだから、まあこれ持ってついてこい」
言われている途中に手を差し出すと、細い肩に支えられていた脚立をずいと渡される。五十里谷はそれを抱え、足早に校舎端の階段へ向かう樋口の後を追った。
「なんかあったん?」
男が歩を緩めたのは、踊り場までやってきてからだ。彼は曲がり角に身を隠して職員室を覗き、「ほらあれ」と小声で指差す。
「ニアミスするとこだった……セーフだな」
「うん? ……お? 誰?」
職員室の隣に位置する校長室から、二人の男が出てくる。一人は校長で、もう一人は見たことがない。遠目にもわかる高そうなスーツを身にまとう男は、上品な笑みを浮かべるロマンスグレーだった。
すると教頭をはじめ、職員室に残っていた教師陣が続々と廊下に出揃う。皆にこやかに男へ頭を下げ、廊下が茶番くさい社交場へと成り果てた。
五十里谷の背中にピッタリと張りつき、その様子を覗き見る樋口はげんなりとしている。
「あれ、市議会議員の横井」
「え、横井ってあの横井?」
「おう、お前にネチネチ嫌がらせしてたあいつの父親。教育委員会にも顔利く上に随分な気分屋らしくてな……俺みたいな愛想なしは目つけられやすいから電球でも変えてこいって、教頭が」
「教頭せんせのファンになりそうやわ俺」
樋口の拳が背中の真ん中へぶつかり、軽く息を詰める。しかし彼が離れていったおかげで、漸くスムーズに呼吸ができた。好きな人が背中にくっついていて平然とできるほど、五十里谷は恋愛経験豊富ではない。
「それで脚立かあ……あ?」
大人たちの嘘くさい笑顔の中に、横井が同じような笑顔で現れた。教室で見る横井とは別人かと目を疑うほど、顔面に大人ぶった愛想を貼りつけている。漏れ聞こえる敬語はよそよそしく、父親に対し丁寧に頭を下げる様は、横井のことをよく知りもしないのに無理をしているように見えた。
「何してんだ、行くぞ」
「あ、うん」
呼ばれ、上階へ向かう樋口を慌てて追いかける。危なっかしい手つきの電球交換を代わらせてもらえず、ハラハラと脚立を支え続けるという苦行を終え、準備室に二人して戻る頃には教材の片づけより疲れていた。よって昨日綺麗にしたはずの部屋がまた散らかっていても、今日は整理する元気がない。
「おっかしいわ……昨日綺麗にしたはずやのに」
ソファへ腰かけた五十里谷は、デスクチェアに座ってそっぽを向く樋口をじっとり眺める。その程度で申し訳なく思うような男ではないから、予想通り平然としていた。
「別に生ゴミ散らかしてるわけじゃねえんだから、毎回片づけなくていいだろ。虫は湧いてねえ」
「そういう問題ちゃう」
「まあゆっくりしとけ。せからしいんだよ、母親かお前は」
河野たちにも時折される母扱いは納得いかないが、用のない在室を許されていることが嬉しくて文句は浮かばない。こういったさりげない特別扱いを実感できるから、余計に諦める気にならないのだ。ほんの小さな可能性を探して、彼の足元を這いつくばってしまう。
「せんせ、文化祭の一日目って何しとるん? 暇な時間ある?」
期待を隠さぬ問いで、樋口が口角を下げる。大体何を言われるかは察しているのだろう、誘うより先に首を横に振られてしまった。
「無理だぞ。俺の自由時間はここにこもって焼きそば食うためにあんだ」
「えー、じゃあ俺はその横でたこ焼き食って昼寝するわな」
「なんでだよ高校生。青春謳歌してこい、枯れた爺さんか」
「ピッチピチの十八歳やで」
ソファへ俯せて肘かけに顎を置く。いつぞやと同じように可愛さアピールで上目遣いに樋口を見つめると、防御力の低い男はまたも、うっと眉を寄せていた。
「なんだそのあざとい顔……」
「俺、去年の文化祭は参加せんかってん。でな、今年最後やん。せやからな、せんせと一緒にまわりたいねん」
「よく考えろよ、こんなおっさんと校内歩いたところで」
「お願いせんせ。そんなに嫌や?」
ついに樋口は黙りこむ。駄目なのかと訊けばあらゆる言い訳を並べ立てられそうだが、嫌かと訊けば頷かないと見越しての問いだ。多少ズルい自覚はあるが、使える手は使っていかないと、卒業という問答無用の別れは近い。
「ずっとこさ連れまわしたりせんから。ちょっと一緒におれるだけでもええから」
「………………はあ」
長い沈黙の末、樋口は溜め息を吐いた。実質の了承を得て内心ガッツポーズを作っていると、彼は遠い目で「買い出しだけなら付き合ってやる」と嫌そうに呟いた。
「大体、人込み苦手なんだよ。ぜってえぶつかってくる奴いんだろ。当たり屋かっての」
当日の約束を取りつけて舞い上がっている五十里谷は、その文句すら愛らしく思え、顔の締まりがなくなっていく。
「せんせ、よう喋ってくれるようになったよなあ」
「はあ? そりゃお前だろ。最近うるせえ」
「びっちり心の扉閉めててん」
「自分で言うかそれ」
ふ、と笑われ、追加でもらえた貴重な笑顔にテンションはうなぎ上りだ。今なら魚類なんか目じゃないほど天高く昇っていける。
「俺、元々よう喋る子やったからな」
「ああ……想像つく」
「せんせは昔から無口で人見知りで口悪かったん?」
「最後のは余計だ、失礼なガキめ」
やる気なさげに五十里谷を睨むも、樋口はぼんやりと視線を宙にさ迷わせ、「口が悪いのは昔っからだな」と付け足す。そこに何を見ているのかを、知りたい、と恋心が甘えていた。
今でこそ五十里谷と当たり前に言葉を交わす樋口だが、元は生徒に「無口な上に目が死んでるボッチ」と散々な言われようだった、はぐれ教師だ。別段、人との会話が苦手なわけでもなさそうなのだから、生徒はおろか同僚たちとも距離を置き、夏は暑くて冬は寒い準備室に引きこもっている理由があるのだろう。
「じゃあいつから無口キャラになったん」
しかしその問いに、樋口は答えなかった。立ち上がり、缶珈琲を手にソファへやってくる。五十里谷も無理に聞き出そうとはせず、寝そべっていた身体を起こして樋口が座れるようスペースを開けた。
「どうぞ、座面はあっためといたで」
「どこの秀吉だお前。褒美はジュースでいいな」
「あざっす」
座ってソファ下を漁った樋口からオレンジジュースを受け取る。そういえばと、先日二箱目の段ボールを潰したことを思い出した。
「後どんくらいあるん?」
「ざっと見て十本ちょっとってとこか」
「意外ともったなあ……なくなったら新しいの買うてな。次リンゴ」
「遠慮しやがれ。って言いたいとこだけどオレンジ買ってやるよ」
してやったり顔にキュンとして、五十里谷は笑いながら「しゃあなし飲むわ」と言う。
本当はなんでもよかった。彼が自分のために用意してくれるならば、例え無糖珈琲であったとしても美味しく飲み干せる。それが恋であり、無敵の魔法だ。
しつこくニヤニヤと鼻の下を伸ばす五十里谷に気づいた樋口は、「ジュース好きすぎだろガキかよ」と見当違いな引き方をしている。誤解を適当に否定する五十里谷は、いつかこの気持ちを伝えられたらいい、と考えていた。
展示のみとはいえ、集客数の調査や取ってつけたようなアンケートの実施もあり、二日間に渡って行われる文化祭は、交代でクラスに受付係を置くことになった。五十里谷は受付係選抜ジャンケンを即勝ち抜けしたため、晴れて自由の身だ。とはいえその分、他の雑用は受付係以外の面々で手分けして片づけることになっている。
文化祭初日を明日に控えた金曜の夜、五十里谷はクラスメイトが不注意で大量に水没させた、展示写真に添えるポップを数枚作り直していた。細かい作業は嫌いじゃないが、字はあまり綺麗ではない。どうにか元のポップに字を似せようと奮闘している内に、時刻は夜の十一時を少し過ぎていた。
「うわ、もうこんな時間やん……あかりさん遅いな」
微妙な出来だが五十里谷の最高傑作であるポップをファイルへ挟み、立ち上がって伸びをする。このままベッドへダイブしたい気持ちは山々だが、飲み会からあかりが帰宅するまでは起きていたい。水を飲ませて最低限メイクを落とさせるという使命があるのだ。
一度連絡を入れるかどうか考えていると、インターフォンの音が聞こえてくる。同時に玄関の開く音もして、五十里谷はすぐ自室から顔を出した。
「あかりさん、お帰……ん? こんばんは」
てっきりあかり一人だと思っていたが、ほろ酔いな彼女の隣には女性がいて、五十里谷に向かって頭を下げた。
「こんばんは、お邪魔します」
「ただいま。彼女ね、私の部下の京子ちゃんよ。飲み直したくて連れこんじゃった」
「あかりさん酔うとるやろ。とりあえず……京子さん? 俊介です。どうぞ中に」
上機嫌にふらついているあかりを先頭に、京子をリビングへ促す。飲み直すという名目ではあるようだが、京子はこっそりと俊介に「こんな時間にごめんなさい、すぐお暇しますから」と言って笑った。派手さのない笑顔がチャーミングで、ひとつにまとめた長く豊かな髪が女性らしい人だ。謙虚さも、嫌味のなさも、あかりが可愛がりそうなタイプだと感じる。
何はともあれ、あかりにこれ以上酒を飲ませたくない五十里谷は、京子という助っ人と共に酔っ払いを丸めこんで寝室へ向かわせることができた。
「すいませんでした。絡まれて大変やったでしょ」
「いえ、とんでもない」
「もし時間大丈夫やったら、お茶飲んでってください」
電車の時間が、という常套句で断ることができるよう問いかける。すると京子は意外にも頷いて、「喉が渇いて困ってたんです」と照れくさそうに椅子へ腰かけた。
彼女のリクエストで麦茶を出し、向かいの席に五十里谷も座る。喉を潤した京子はホッとしたように溜め息を吐いた。
「本当、こんな遅くにごめんなさい。確か……高校三年生、でしたよね」
「そうです。あかりさんから?」
「ええ。いつも話してくれるんです。自慢の息子なのって」
あかりの知人とこうして差し向かいで話すことなど今までなかったため、照れくさすぎて口を引き結ぶ。ニヤけているのを隠せていない五十里谷を見ていた京子は、微笑ましそうにクスクスと笑っていた。
「ふふ、本当に素直なんですね。五十里谷さんが自慢するのもわかります」
「あのお、あんま褒められると、どないしたらええかわからへんので……」
「ごめんなさい、つい。俊介君は……元は関西にいたの?」
「そうです」
「私も夏くらいに、関西からこっちに戻ってきたんです。あっちの言葉、マスターできませんでしたけど」
そういえば夏頃、新しい部下が入ってきたのだとあかりが言っていたことを思い出す。あれは京子のことだったようだ。
「チラッとあかりさんから聞いてます。やっぱこっちのほうが住み心地よかったんですか?」
「いえ……主人が、事故で亡くなってしまって。彼の慣れ親しんだ土地だから、一緒に帰ってきたんです」
「あ……すいません、余計なこと訊いてもて」
予想外の事情に息を詰め、軽々しく訊ねたことを悔やむ。しかし頭を下げる五十里谷へ、彼女は少しも嫌な顔をしなかった。
「大丈夫ですよ。五十里谷さんも知ってるから、私によく目をかけてくださるんです。皆さん温かくて、毎日笑って過ごせています」
「そう……ですか。ほんなら、よかった」
「ふふ。あ……それじゃあ、私はそろそろ」
「大通りまで送らしてください」
「駄目ですよ、高校生がこんな時間にお外へ出ちゃ。お気持ちだけもらっておきますね」
麦茶を飲み干した京子が席を立ち、苦笑した五十里谷も見送るため共に玄関へ向かう。彼女は靴を履いて振り返り、穏やかな目元を細めた。
「ごちそうさまでした、俊介君。おやすみなさい」
「おやすみなさい。よかったら、またどうぞ」
嬉しそうに笑んだ京子を手を振って見送り、ふうと息をつく。気が緩むと再来するあかりの自慢話が、五十里谷を誰もいない玄関でニヤつかせた。
今日はいい日だ。そしてきっと、明日もいい日だ。
翌日、五十里谷は文化祭がスタートしてすぐに樋口を捕獲した。土壇場になって人混みへの突入を渋り出す引きこもりをうまく褒めて乗せ、食べ物の出し物が多い一年生の階へ向かう。
「お。めっちゃ並んどる。せんせ、何から買う?」
「なあ、やっぱ戻ったほうがいいって。死ぬって、俺仕事あるし」
「死なんし、午前中は暇なんやろ。今日は一般客入らんから、全然マシやん、大丈夫やって」
丸一日、遊園地で家族サービスをし終えた大黒柱のように、樋口は美しい横顔に疲労感を漂わせている。文化祭が始まってまだ二十分と経っていないはずなのだが。
「ほら行こ、せんせ」
まるでデートをしている気分になり、楽しくて堪らない。
そこへ二人組の女生徒が、樋口を見つけて駆け寄ってきた。
「樋口せんせー!」
「うちらのクラス来てくださいよ、めっちゃたくさんクッキー焼いたから」
彼女たちの目には、図体のデカい五十里谷すら入っていないらしい。完全に蚊帳の外だが、樋口と女子生徒という両極端な存在がどう交流するのか気になって息を潜める。
樋口はわらわらと話しかけてくる生徒たちへ困り顔を見せ、痴漢の冤罪を訴えるサラリーマンのように両手を上げた。
「アホか甘いの嫌いだっつってんだろ。俺は今から焼きそば食うんだよ焼きそば」
「うちらの手作りクッキー食べたくないの?」
「毒入りはちょっと」
「ひっど! まあいいや、オヤツ欲しくなったら一番に来てね」
「はいはい」
彼女らはそれほど押し売りをする気もなかったのか、あっさりと教室へ戻っていく。少し絡んで満足、といったところか。
「五十里谷、さっさと行くぞ」
心なしか周囲を警戒する樋口は、高身長な五十里谷を盾にするつもりらしく背中へ隠れてしまう。本当は隣を歩いてまわりたいが、これはこれで悪くない。彼が望むなら日除けにも風除けにも、人除けにだってなれる。
「了解。焼きそばな」
五十里谷は背後霊のような樋口を連れ、彼の希望通り昼食を買いこんで混み合う階を脱出した。
その後は準備室へ、と考えていたものの、進路を操作した樋口に連れて来られたのは屋上階だった。我が物顔でドアノブに鍵を刺す男の傍には、でかでかと「屋上立ち入り禁止」と手書きの張り紙がしてある。
「ここ、入ったらアカンやん……」
階下の賑わいに負けそうな小声で注意を促すも、男は自信ありげな笑みを浮かべるばかりだ。
「俺は教師だぞ。文句言うな」
「せんせ職権乱用って知っとる?」
「聞こえねえ」
準備室を私物化するわ、敷地内で煙草は吸うわ、屋上の鍵を我が物顔で持ってきては立ち入り禁止を無視するわ、なんという教師だ。しかし通ったことのない道を探検するような高揚感には逆らえず、五十里谷も開け放された扉をくぐる。
季節はすっかり冬の支度をしているが、今日は風も雲もなく温かな陽差しが降り注いでいる、いわば絶好の文化祭日和だ。最も陽の当たる位置で壁を背に座り、二人して戦利品を並べるとなんだか秘密基地でパーティーをしているようだった。
「さっきめっちゃ絡まれとったな。俺、せんせは教師受けも生徒受けも悪いって聞いたことあんねんけど……あ、そういやこの前は教頭せんせが助け舟出してくれたんやっけ」
頬張ったぬるいたこ焼きを嚥下し、もそもそと焼きそばを食べる樋口へ問いかける。男は口の中をそばが占めている間ずっと五十里谷を睨んでいたが、頬が膨らんでいるため全く怖くない。ハムスターやリスなどといった頬袋のある小動物が人気な理由を、少し理解できた気がする。言えば睨まれるだけでは済まなそうだ。
男は五十里谷がそんなことを考えているなんて露知らず、ゴクンと喉を動かし目を逸らす。
「お前が」
「おん?」
「馬鹿みたいに話しかけてくるから、人と話すことに免疫ついた。したら、なんか……こうなってただけだ」
若干照れくさそうに言う様が堪らない。眉を寄せて不機嫌そうなのもまた、五十里谷の胸を甘くくすぐった。
樋口は元より見目の麗しい男だ。レスポンスの不愛想さが無表情と生気のない瞳を「冷たい人」「怖い人」に仕立てていたのだろうが、それを改善して雰囲気が柔らかくなったとあれば、それはもう女子高生の餌食だろう。加えて口の悪さに反した面倒見のよさなどは、俗にいう「ギャップ萌え」に違いない。
「そうかあ……せんせモテ期かあ……」
「おっさん相手に何言ってんだ」
「おっさんに見えへんやん。せんせ何歳?」
「三十。お前より一まわりも上だぞ敬え」
「ははー」
ノリノリで頭を下げてから、ふと満足げな男を見上げる。
「……女子高生にムラッとくる?」
「きたら高校教師なんてやってねえ」
「真面目よな口悪いけど」
すかさず飛んできた手のひらが背中を叩き、小気味よい音が鳴る。痛くない辺りが本当に優しいのだ、樋口は。女子高生に性的興奮を覚えないと言われて安堵する気持ちと、学生は対象外だと示唆されて落胆する気持ちがない交ぜになって、もどかしいけれど。
「まあええか……」
「何が」
「いんや。今やないしな、と思て」
「ふうん」
生返事で焼きそばの駆逐に乗り出す樋口を盗み見て、清々しい秋晴れの空を見上げる。屋上にいるおかげで視界に入る建物はなく、まさにスカイブルー一色だ。こんな日に好きな男と二人、隠れるように行事を楽しめるなら、あの日水をかけてきた横井に感謝すらしたくなる。
「俺もな、先生のおかげで色んなこと、前に進めるようになったで。あんとき、水浸しやのに、煙草消してまで中入れてくれて、ありがとうな」
改まった礼は否応なしに気恥ずかしい。どうにも右隣を見れないでいると、ビニール袋のガサガサと色気のない音が聞こえた。
「別に、お前のためじゃねえよ」
袋の中に空のトレーを入れて口を括った樋口は、腹が膨れたのかダラリと壁へ背を預ける。五十里谷も同じように足を投げ出し、硬いコンクリート壁へ寄りかかった。
「じゃあなんのためやったん? 世間体?」
「それもある。でも……結局は俺のためだったな」
その一言には懺悔じみた響きを感じる。意味がわからない、と目で示せば、男は淡々と話し始めた。
「俺はお前に自己投影して、自分を救いたかっただけなんだよ。だから、礼なんて言われる資格ねえの」
最後に滲んだ苦笑が切なくて、口から「そんなことない」が飛び出しかけた。けれどどうにか飲みこみ、別の切り口を探す。樋口は五十里谷が何を言っても感謝に胡坐をかかないだろうし、樋口がいくら否定しようと五十里谷は彼に感謝している。交わらない意見をぶつけ続けることほど無意味なことはない。考え方が違うから、惹かれることだってあるのだ。
「じゃあ……昔のせんせは、俺に似てるん?」
「んなわけねえよ。お前とは比べものになんねえくらい、クズだったからな」
「想像つかんわ。どんな?」
樋口はチラと五十里谷に目線だけを向け、悩んでいるようだった。しかし黙って待ち続ける内に、細く長い溜め息を吐き出す。
「うちは……両親共に生徒が自宅まで悩み相談にくるような、熱意のある教師だったんだよ。いいことはいい、悪いことは悪いって臆せず言う親に俺は憧れてたし、そんな教師になるって結構小せえ頃から決めてた」
「へえ……」
「けどまあ、俺の性格は子どもんときから変わっちゃいねえわけだ。口は悪いし言うことはキツいしで、子ども社会ん中ではかなり嫌われてたな。おかげで友だちは少なかったけど、間違ったこと言うような人間にはなるもんかって、そればっか」
薄く笑みの浮かんだ横顔は、当時を懐かしく思い返している。小さな樋口がポツンと孤立し、それでも意思を曲げないなんて可哀想で可愛い。「俺がおったら真っ先に友だちになんのに」と思ったが、言えばガキくささを笑われてしまいそうだ。
「なんかわかるわ。せんせ頑固やもんな」
「だろ。けど俺にも、中学で初めて親友ができた。笑いながら嘘言うより、ずっと信頼できるって俺の馬鹿正直な言葉全部受け止めてくれるような奴だったよ。高校も大学もずっと一緒にいたな」
「うん」
「大学に入ったら、もう一人親友が増えた。俺の毒みたいな正義を真正面から肯定してくれた女だった。三人でつるむのが楽しくて……多分、あれが俺の短い青春」
楽しそうに話すから、五十里谷もつられて笑っていた。
しかしふと樋口の横顔がかげる。たった二人しかいない思い出の登場人物と、何かがあったのだと推測するのは容易かった。
「一人暮らし始めても、俺はなんもできねえ男だったから。その子がいっつも助けてくれてた。家事とか、それこそ人付き合いも。あいつがいなかったら、ゴミ屋敷で感染症にかかって死ぬか、餓死するか、孤独死するかのどれかだっただろうな」
「えげつな……」
「ま、要は……付き合い始めたのはわりと、自然なことだったんだよ」
「それって」
「ああ。俺の元嫁」
予想通りの展開に眉が寄る。段々と貼りつけたような薄ら笑いになっていく様を、五十里谷はただ見守ることしかできなかった。
「勤務校が決まったときに籍入れた。幸せにしてやんねえとって、必死に仕事したよ。夫になったんだから、あいつに負担かけねえように、人付き合いも自分のことも、なんでも一人でできるようになろうと努力しまくった」
思わず額に手を当て、項垂れてしまった。
樋口はそんな五十里谷の背を、慰めるように適当に叩く。
「でも足りなかったんだろうな。駄目だった。ある日家に帰ったら嫁が消えてた」
「そんな、急に」
「ああ。金も荷物も全部置いて、置手紙の代わりに離婚届だ。混乱して、親友に電話かけた。……繋がらなかった」
笑い交じりに「ピンときた。二人でいなくなったんだって」と続けるから、乾ききった土をゴリゴリと削るような耳障りな音が胸中に響き渡った。
そんな酷い話があっていいのだろうか。何故、妻のために必死だった樋口が捨てられなければならなかったのか。内情をよく知りもしないのに、樋口贔屓な五十里谷の中にはもどかしさと怒りが募る。
「あいつは自分だけ持って行ったんだ。俺が一番置いてってほしかったもんだけ持って、出て行った」
「……探さんかったん」
「俺みたいな人間と何年も付き合えるような馬鹿で優しい奴らなんだ。そんな奴らが逃げるなんて相当悩んでるし、苦しんでる。追いかけんのは酷だろ」
「でもせんせは、納得できんやん……」
「そうだな。親友も嫁もいなくなって、自暴自棄になって……もう、人付き合いなんかするもんか、とは思った。あんな思いするくらいなら、人間との交流は必要最低限でいいって真面目に思ってた」
それは先日問うた、彼が非社交的になった経緯だった。何にも動じないような立ち振る舞いをしながらも、本当は失うことが怖くてビクついている、臆病な樋口を作り上げた過去だ。
「まだ……奥さんのこと、好きなん?」
樋口は五十里谷の頭を、少し強く撫でて上下させる。反発するようにぐぐと頭を起こせば、思いのほか平然とした真顔に迎えられた。
「嫌いにはなんねえよ。未練がましく、こんなんつけてはいたけど……」
言いながら髪を結うポニーカフスへ触れる。夏の頃に彼は誤魔化したけれど、やはり消えた妻の残した品だったようだ。五十里谷は嫉妬で唇を噛むも、樋口は気づかない。
「そういえば、ヨリ戻してえとか、そんなんはなくなったな。どっかのアホが、じゃあ別れんでええやん、とかアホ面で言うから」
「……アホでよかった」
「んだそれ」
再び頭を撫でにやってきた手へ、悟られないよう懐く。五十里谷の存在が彼の中の未練を少しでも溶かすことができていたなら、これ以上ないほどに嬉しい。
「お前を部屋に入れたのは、ただの同情と義務感だ。一応、教師だからな。それでも、あのときは……」
頭から離れた樋口の手が拳を作り、彼の膝へ戻っていく。その手を包んで引き寄せたい衝動に駆られた。だけどできない。まだ、彼の言葉は続くからだ。
「……お前も独りかって思ったら、放っておけなくなった。自分が一番つらいとき、してほしかったことをした。言ってほしかった言葉をかけた。お前だけでも独りじゃなくなりゃ、自分も救われる気がしたんだよ」
ああそういうことかと、知らぬ間に踏み抜いていた樋口の柔らかな場所を知る。
五十里谷は居場所と同情を求め、樋口は五十里谷に自分を重ね救い上げようとした。お互いに利用価値を見出した、酷く打算的な関係はあまり褒められたものではないかもしれない。
だが始まりはなんであれ、結果オーライでいいんじゃないだろうか。五十里谷は諦め続けることをやめ、新しい恋ができた。樋口は他人と関わるようになった。何ひとつ、罪悪感を覚える理由が見当たらない。
「別に、ええやん。俺やってせんせの同情心につけこんだんやから」
「ガキはそれでいいんだよ。言っただろうが、大した迷惑でもねえって。けど俺はこれでも教師なんだ。自分の事情抜きで、お前に向き合うべきだった。……悪いな、身勝手なクズ教師で」
壁にもたれていた背を起こし、どこまでも真面目な樋口に向き直って男の手首を掴む。
生徒だから。ガキだから。五十里谷はどう足掻いても追い越せない歳の差に苛立っていた。自分が子どもでなければ、彼は己を身勝手だと称することはなかっただろう。対等な立場であれば、感謝も受け取ってくれただろう。
どうすれば少しでも近づけるのか。いわば校庭から、屋上にいる樋口を見上げているような気分だ。階段も梯子もないまま、会いに行きたくて地団駄を踏んでいる。――できることと言えば、大声で彼を呼ぶことだけだ。
「俺もう独りちゃうで。せんせは、ちょっとでも救われたん?」
関心を誘う話題など思いつかず、振り払われないのをいいことに樋口を捕まえたまま声を絞り出す。手首は容易く指が一周してしまうのに、五十里谷のほうがずっと逞しいのに、彼に助けられてばかりなことが悔しかった。
「せんせの話聞けて嬉しい。身勝手やとかクズやとか思たことないし、これから先も思わん。俺はせんせに会えてよかった。せやから、せんせが自分のこと救えるんやったら、俺なんか好きなだけ使うてよ」
稚拙で無様な主張に耳を傾けていた樋口が、掴まれていない手で五十里谷の頬を乱雑に撫でた。それはまるで大きな犬を撫でるような気軽さで、嬉しいのに物足りなくて唇を尖らせる。すると男は柔らかい笑みをこぼし、手首を掴む子どもの甲を叩いた。
「もう十分、お前にはいい時間もらった。余所見もしねえで懐いてくるから、遠ざけようとか、一線引いとかねえととか、考える暇もなかったわ」
「……役に立てた?」
「癪だけど、消えた二人が、どっかで幸せになっててくれたらいい思えたのはお前のおかげだろうな。なんで教師になりたかったのか、どんな教師になりたかったのか、思い出せたのも。……なのに礼言われちまったら、俺の立場がねえっての」
爽やかな秋空を背景に、クシャリとした笑みが強烈な勢いで五十里谷の思考をジャックした。心拍数が急激に上がって息ができない。そのくせ鼓動音は馬鹿でかく、耳元にまでズドンズドンと騒音を響かせた。
「ほな」
頭で何かを考えるより早く、卒倒した理性の代わりに、怖いものなしな衝動が掴んだ手首を引いていた。無防備な身体が腕の中へ飛びこんでくる。
「っ、な」
雀の尻尾みたいな後ろ髪に指を差し入れて――細い首ごと支えてキスをしていた。唇に、薄いそれの感触がはっきりと伝わる。一瞬で離したものの、瞼すら閉じることを忘れている五十里谷は異常に興奮していた。
「じゃあ、代わりに好きやでって言うてもええ?」
目を見開いて驚く樋口の表情が、網膜に焼きついた。半開きで淡い吐息を漏らす唇にもう一度触れたくなったが、先に言わなければいけないことがある。
瞬きひとつせず言葉を失う樋口を怖々と抱き寄せ、腕の中にある体温を感じて、今更押し寄せてきた緊張ごと息を吐いた。
「俺はせんせ、置いて行かん。ずっと傍におりたい」
樋口が身体を強張らせた。何かを言おうとして、結局言わなかったことを詰まる息で察する。そして、がちがちに強張っていた男の肩からふっと力が抜けていった。
「なんで、そんなこと言うんだよ」
「……ごめん。まだ言うつもりなかってん。でも今、言いたいって思た。せんせがどう思てても俺は感謝しとるし、それだけじゃ済まんくて……ホンマにめっちゃ、好きやねん」
公園へ迎えに来てくれた夜、肩に顔を埋めたことを思い出す。あの日と同じ煙草の香りが、五十里谷を酷く幸せな心地にさせた。抵抗されないことが嬉しくて、やはり彼は自分を拒絶しないのだ、なんて。
「傍におんの、俺でええやん。俺にしときいよ」
今はまだ妥協でも構わない。きっと、彼と自分ならいい方向へ転がっていけるはずだ。出会った四月から、今日までのように、穏やかに。
しかし五十里谷の肩に顎を乗せたまま黙りこんでいた樋口は、震える声で言った。
「ふざけんな。……クソガキ、後先、考えろ」
一体どんな顔で、五十里谷を糾弾しているのか。照れて赤いのか、呆れているか、もしくは。ほんの少しの怖さと大きな期待を胸に身体を離した五十里谷は、男の表情を見て冷水を浴びたような心地を味わった。
「せんせ」
想像していた中に、こんな樋口はいない。
まるで宝物が目の前で壊れてしまった瞬間のような絶望感を、顔面いっぱいに散りばめた男は、形容しがたい嘲笑を浮かべる。つい数分前に笑いかけてくれた瞳は五十里谷から逸らされたまま、味気ない色の汚れたコンクリートを熱心に見つめていた。
「駄目な理由なら見つかんのに。いい理由がひとつもねえじゃねえか」
「せ、……せんせ、あんな」
「マジでふざけんなよ。俺にお前を拒ませんな」
「……ッ」
ひゅ、と息をのむ。五十里谷の性対象も悩みも、葛藤も過去も、樋口は一度だって拒絶しなかった。だがこれは、確かな拒否だ。それだけで呼吸を忘れそうなほど胸が痛いのに、最も衝撃だったのは、樋口が「拒むしかない」のだと理解できたことだった。
浮かれきって、大事なことを見逃していた。少し考えればわかることだ。
「あ……俺、ごめん、せんせ」
教師と生徒。大人と子ども。樋口の言う駄目な理由はあまりに重く、首がまわらない。それらを抱えるのは五十里谷ではなく、大人の樋口だ。彼の肩に圧しかかるモラルと責任がどれほどのものか、今になってようやっと実感する。
だが、彼の拒絶を占める理由は世間体や性別ではない。五十里谷を大切に思うからこそ、この気持ちを突っぱねているのが、痛いほど理解できてしまった。
「あんな、俺」
「今すぐ嘘だって、そういう好きじゃねえって言え。聞かなかったことにしてやる」
頭が真っ白になり、開きかけた唇が戦慄いた。グチャグチャに撹拌されたような脳ミソが、彼の優しさに甘えろ、なかったことにしてしまえ、さもないと……と五十里谷を誘惑している。己の浅はかさを呪う言葉が喉にまで競り上がった。詰まって狭まった気道に、早くこの状況を打開できる一言を通してやらなければならない。
しかし五十里谷は、もう、取り返しがつかないことを察していた。
「言……言われん、言いたない、せんせに嘘、つきたないもん……っ」
これだけは譲れなかった。例え嘘でも、馬鹿馬鹿しい意地だと笑われようと、一度表に出した想いを自ら否定したくない。
涙は出なかった。祈るように伸ばした手は、軽い仕草で払われる。再度、彼のどこかに触れようとする勇気は、もうなかった。
樋口は頭を抱え、苦しげに息をつく。
「知ってんだよ。お前が嘘にしねえって。そういうアホだって、俺は、ちゃんと」
「せんせ」
「ホント、クソだろ……お前のそういうアホなとこが可愛いって思ってんだぞ。だからこそ終わらせたくねえのに、でもお前、アホだから頷かねえんだよ、どんな悪循環だよクソ……ッ」
五十里谷のせいで結い目のズレた髪も気にせず、男は頭を掻き乱す。八方塞がりなのは樋口も同じだ。どうにかして今を壊さなくて済むよう考え、そして方法がないことに虚無感を抱いている。
「そやな。ごめんな。俺もな、せんせの……意外と真面目でめっちゃ優しいとこ、好きやねんで。やから、どうしても好きちゃうって言われへん……気持ち悪いって、言わんとってくれてありがとう」
「んなこと言うわけねえ、俺はただ…………馬鹿野郎……」
樋口は手を下ろして頭を上げる。必死に五十里谷から逸らしてコンクリートを見つめるのは、死んだ魚のような目だった。
「お前の居場所は、もう俺だけじゃなくなっただろ」
想いを告げた時点で、残った二人の末路は終わりだけだ。首を横に振る資格もなく、聞いていることしかできない。
「だから、もう会いに来るな。……ごめんな」
例えば乱れた髪を、許可なく指で梳けるような関係になりたかった。寂しいとき当たり前に傍にいるような、いて当然だと感じるような存在になりたかった。決して、何も悪くない彼に謝罪を言わせたかったわけじゃない。
樋口は五十里谷を見ずに立ち上がる。
この状況を招いたのだから引き留める術はないと知っているのに、黙って見送ることすらできない五十里谷は、間違いなく子どもだった。
「卒業してから告白したら、終わりにはならんかった?」
ゴミを手に扉へ数歩近づいた背中が、ピタリと立ち止まる。そしてゆっくり振り返り、切なげに苦笑した。
「たらればは好きじゃねえんだ」
悪足掻きを優しく切り捨てられ、去っていく白衣が見えなくなるまで眺めていた。
「ホンマ、クソガキやんけ」
迂闊にもほどがある。なまじ背が高いせいで見える景色に慣れ、自分が子どもでないと勘違いしていたのかもしれない。
痛いくらいに前髪を掴む拳の向こうは、三十分前と何も変わらぬ青い空が続いている。あれほど綺麗だと思ったのに、隣に樋口がいないだけで色褪せて見えた。
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