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冬の後ろ
『その日から私は自分の軽率さを呪い、後悔し続けました。告げてしまったことに、拒絶させてしまったことに、それでも恋を押し通したがる聞き分けの悪い自分に。
どんな顔で会えばいいのか。何を言えばいいのか。答えが出ないまま準備室の前へ行き、「もう来るな」と言われていたことを思い出しては帰る日々でした。
このまま、あなたとはただの教師と生徒の関係になり、全て忘れるのが一番いいのだと、心のどこかでは知っていたように思います。
ですが、駄目でした。私は聞き分けのいいフリをした馬鹿で、数多ある未来のためにあなたを忘れることよりも、狭苦しくとも足場が悪くとも、あなたと過ごせる未来だけが、どうしても欲しかったのです――――』
暦は師走へ突入し、朝晩の冷えこみと共に、早くも聖夜の浮かれ切ったムードが世間を襲っている。テレビをつければクリスマスソングを起用したCMが流れ、通りすがる女子高生の会話はクリスマスコスメについて、スーパーのチラシはとにかくチキン推しだ。
恋を遮断されてしまった五十里谷には、見渡す限り害悪でしかない。心が折れないようそれらが目と耳に入らないよう努めても、多勢の攻撃力は今日も柔い心を削りにきていた。
「クリスマスなあ……」
「なんだよ、そんな寂しそうに。最近会いに行ってないみたいだけど、先生誘わないの?」
放課後に社会科準備室へ通えなくなった五十里谷は、河野と帰路を共にすることが増えた。びゅんと切りつけるような冷たい風の中を、二人肩を竦めて歩く。温かそうな色のクリスマス用LEDを巻きつけられた駅前の街路樹は、昼間に見るとみずぼらしかった。
まあ、みずぼらしさで言えば今の俺に勝てるもんはない。
唇を尖らせた五十里谷は内心自虐しつつ、隣を歩く元恋人を流し見る。
「フラれた」
「へえ、そうな……え!? いつ、いや、え、告ったの!? ッあ」
大袈裟に驚く河野は注意力散漫になり、歩道の平坦なタイルの上で躓く。慣れたように彼の腕を掴んで支えた五十里谷は、「文化祭の日にな」と続け、ことのあらましを簡単に報告した。
「そんで、全く会えてないまんまやねん」
「えー……なんだよ、そんなことになってたのかよ……ってか、このままでいいの?」
「ええわけないやん」
だが、ここからどうすればいいのか、さっぱり見当もつかない。「他に好きな人がいる」だとか、「恋愛より仕事のほうが大事」だとかいう理由で断られたなら、五十里谷にも選択肢が生まれる。好きな人がいるなら五十里谷へその気持ちを向けてもらえるよう努力するし、仕事が大事ならその熱心さを邪魔しないで恋人になれるのだとアピールポイントをプレゼンすればいい。
もしくは「男は無理」だと言われたなら、潔く諦められただろう。性対象になれないのなら無理強いはできない。五十里谷が女性と恋愛できないのと同じだからだ。
「せんせが俺のこと大事にしてくれとるからって、調子に乗ってもた。でもな、大事にされとんわかるから、余計諦めきれん。可能性あるんちゃうかって思てまう」
「じゃあ若さで押し切っちゃえば?」
「できん。それこそ……見放されてまうわ」
樋口とは立場が違う。背負うものが違う。まだ保護者に小遣いをもらうような子どもには、彼の築き上げてきたものを脅かす権利も、そうしてまで自分を貫き通す資格もないのだ。
「せんせと同じ立場にならな、わからんことのほうが多いんやなあって猛省しとるとこ」
「そりゃ、先生だもんね……俊介が大人だったら、拒絶以外の反応くれたかな」
優しげな声で呟いて、河野は五十里谷の背を強めに叩く。
「大人になってから、もう一回口説くのはどう? 先生も待ってるかもしんないよ?」
「お前めっちゃ前向きになったよな」
「へへっ、俊介のおかげかも。その……実はこの間告られてさ、塾でたまに会う年下の奴なんだけど」
「!?」
突然の暴露に目を見張る。河野はマフラーで半分埋もれた頬に、寒さだけでない赤みを浮かばせていた。
「男なんだけど。その……受験あるから無理って、何回か断ったんだ。そしたら、同じ大学まで追いかけるんで、そのとき自分を好きか嫌いかで返事くださいって」
「お、おお、めっちゃ情熱的やん……」
「そうなんだよ、そんなん言われたらさあ、早く追いかけておいでって思うじゃん、な?」
恥ずかしそうにモコモコ手袋で顔を隠す河野は、まさに恋をしている。けれどハッと手を下ろし、「だから絶対受かって待ち受けとかないとって」と、鼻息荒く意気ごんだ。
「俊介もさ、本気なら先生を困らせない立場になってから、もう一度口説いてみたらいいんじゃないかな。まあ……俺は諦めるのも、悪いことじゃないと思ってるよ。やっぱりその間に心変わりする可能性がないわけじゃないし、先生だって」
「せやな。……でも俺は無理や。ずっと好きやもん」
河野の「言いきっちゃうんだ」という呆れに頷き返し、思わず笑う。
「やって、嫌いになる理由ないやん。好きな理由ばっかやん。ほんならずっと好きなんも普通やろ」
「そっかあ」
「はよ、大人にならなな。……ん。なんか頑張れそうな気いしてきた」
単に歳を重ねるのではなく、彼がこれまでしてくれたように、彼を思いやれる大人になりたい。手を引いてもらうばかりではなく、手を引いて歩けるような男に。
河野に相談したことで少し視界が開けた五十里谷は、まず自分の抱えている問題を解決していくことにした。くすぶって立ち止まっていては、年齢だけ重ねたって樋口に合わせる顔がない。
空欄を埋めた進路調査票を手に、自室からリビングへ続く扉を開ける。風呂上がりでビールを片手にテレビ鑑賞していたあかりが、物音に気づいて振り向いた。
「どうしたの、眠れない?」
「ちゃうちゃう。ちょっと話っていうか、頼みがあって」
「いいわよ、なあに?」
ソファの背もたれに沈んでいた身体を起こし、あかりが五十里谷を手招く。隣へかけ、ヘタな言い訳はすまいと、書いたばかりの紙を両手で差し出した。
あかりはそれを受け取り、すっかり半分ほどの長さになった眉を中央へ寄せる。じっと読んでいた視線が五十里谷を捉え、首を傾げた。
「……ん?」
「ずっと考えとってんけど、これで出したいねん」
軽く身を引き、膝の上に手を置いて深々と頭を下げる。
「バイトもするし、学費はどんだけ時間かかってもちゃんと返す。浪人も留年も絶対せえへんから、どうかこの大学行かしてください」
あかりの反応を待ち、頭を下げたままギュッと目をつむる。なんの保証もない口約束しかできない五十里谷には、ただ願うことしかできない。
すると、ポスン、と間抜けな音を立てて、何かが頭を叩いていった。
「馬鹿ねえ、どうして頭を下げるの」
攻撃を受けた頭を上げると、丸めた進路調査票を左右に振り、あかりがクスクスと笑っている。「何事かと思ったわ」と拍子抜けしている様子が、不思議でならなかった。
「え、ええの……?」
「当たり前でしょ。こういうのは俊の気持ちが大事だから黙ってたけど……就職するって言われたら、どう説得しようかと思ってたくらいなのに」
「でも、大学めっちゃ金かかる……」
「伊達に管理職やってないわよ。学びたいと思うなら存分に学びなさい。知識は裏切らないし、間違いなくあなたの力になるの。好きなところで、好きなだけ、好きなものを吸収するべきよ。まあ……ちょっと意外な進路だけど、いいんじゃないかしら? 将来が楽しみだわ」
学部名を見つめ、ふふ、と笑うあかりは嬉しそうだ。五十里谷は安堵し、もう一度頭を下げて「死ぬ気で勉強します」と宣言した。
二学期末の試験も無事に終え、クリスマスと冬休みはもう間近だ。
勉強漬けの日々を送る中、所用で外出していた五十里谷は世話になったレンタルDVDショップへ顔を出していた。平日の日中はそれほど混雑しておらず、レジカウンター内でレンタルコミックのフィルムを付け直していた恰幅のいい店長が、五十里谷に気づいて厳つい顔を綻ばせる。
「お? 久しぶりだなあ、五十里谷」
節電や温暖化対策を丸ごと無視した夏場の室温設定もさることながら、他の店と比べて店内の暖房温度は高い。そのせいか男の額や鼻は心なしか汗が滲んでいて、五十里谷は適温の大切さを今日も彼から学んでしまった。
「お久しぶりです。ちょっと近くまで来たんで寄らしてもらいました」
「いいぞう、冬休みもバイトしに来ないか?」
「気持ちだけもろときます……受験なんで」
時給は悪くないのだが、交通の便が悪いせいで人材に恵まれないと以前嘆いていた店長は、「そうか……」と残念そうだ。そんな顔をされるとついつい「たまになら」と言ってしまいそうになるが、ぐっと堪える。
「大学受かったらまたお願いしたいですけど」
「そんなら店潰さないようにしないとな。ああ、そうだこれをやろう。両手出してみろ」
豪快な笑い声と指示に促され両手を差し出す。すると店長はなんの遠慮もなく、五十里谷の手へ二、三十枚ほどのDVDを乗せた。
「ええ……いや、なんでやねん……」
「まあまあ、バイト代もちゃんとやるって。ほれ」
慣れたように左腕へDVDを積み直すと、その天辺へ男がアーモンドチョコレートの箱を置く。コンビニで買えば二百五十円前後のそれは、小腹が空いている五十里谷にとって納得のいくバイト代だった。
「ほな、買収されときます」
「おう、よろしくな」
約四カ月が経過しても、ラベルの指す棚とジャンルは案外しっかり頭に残っている。順調に手元のDVDをパッケージへ戻し歩き、いつかのように初めて見るタイトルの背面をチェックすることも忘れない。
「相変わらずえぐいな……」
店内の奥まった場所にある洋画ホラー棚へ差しかかり、今月のお勧めホラーと銘打ったポップを横目に読みながら作業を続ける。
そのとき、斜め後ろで足音が聞こえた。横井と遭遇したときと同じシチュエーションだと思ったら、頭で考えるより先に振り向いていた。
「え?」
「は?」
どんな三流映画なら、ここで同じ人物と出くわすという都合のいいシナリオを書いて当てるだろう。もし自分が脚本家ならば、絶対にそんなことはしない。五十里谷は他所事で気を紛らせつつ、アダルトコーナーから出てきて固まっている横井を見つめた。
そして、ふと彼の持っているDVDのタイトルに気づく。「え?」と先ほどと同じ疑問符がこぼれると、横井はものすごい速さでアダルトコーナー入口付近の棚へパッケージを置き、一目散に走り去っていった。
「どういう……え……?」
ポツンと佇む五十里谷の脳裏には、彼の絶望的な表情と、DVDのタイトルが焼きついている。アダルトコーナーから出てきたのだから、AVを手にしているのはわかっている。けれど引っかかるのは、それが確かにゲイビデオだったことだ。
そもそも横井は、何故執拗に五十里谷へ突っかかってきていたのだろう。ことあるごとに同性愛者であることを罵り、深い憎しみを湛えた視線で睨むほどの、原因は何か。
漠然と、横井はホモフォビアなのだろうと思っていた。しかし手にしていたのは、彼の嫌悪する同性愛ものだ。導き出された仮説に自らを置き換え、目元を手で覆う。ふとチラついたのは、いつだったか南校舎の二階廊下で見た、無理をしているような彼の笑顔だった。
「アホ……」
この仮説が真実だったなら、自分は一体どんな対応をすべきなのか。許すべきか、詰るべきか、また、自分はどうしたいのか。悩む五十里谷は、間違いなく彼の気持ちに同調していた。
勉強に加えて一晩横井のことを考えた翌日、HRが終わった瞬間席を立った。寝不足で威圧感の増した顔つきに驚く隣席の生徒は、椅子を引く音でビクっと肩を竦めている。
だが五十里谷はそれに気づかず、廊下側から二列目、前から三番目の席を目指す。昨夜弾き出された結論は「とりあえず横井を捕獲する」だった。
「横井、ちょっとええか」
「……っ」
横井は低く地を這う五十里谷の声で振り返り、即座に席を立つ。ざわつくクラスメイトの声も無視して教室を飛び出す彼は、昨日と同じく、何か恐ろしいものを前にしたような絶望を顔に宿していた。
「逃がすかい……!」
明日の終業式を終えれば、冬休みに入ってしまう。うやむやになる前に決着をつけたい五十里谷は、長い脚を大きく踏み出して横井を追った。
廊下を走り、すれ違う教師の叱咤に大声で謝り、階段を数段飛ばしで駆け下りる。横井は帰宅部で、五十里谷は元サッカー部だ。ブランクはあるが、フィールドを走りまわっていた脚力をなめてもらっては困る。
「待てって、言うとる、やろが……っ」
「う、わっ」
靴箱へと続く一直線の廊下で、横井の肩を掴んだ。そのまま二の腕へと手を滑らせ、壁へ押しつけて顔の傍に手をつく。荒い息を吐く横井は、今まで高圧的な笑みで見下していた五十里谷相手に怯え、目を合わせようとはしなかった。
「そない怖がらんでも、なんもせん。話あるから……ちょっとツラ貸し」
続々と生徒が一階へ下りてくる気配を察し、すぐ近くのトイレを顎で示す。すると横井はもう逃げ出す気力もないのか、大人しくコクンと頷いた。
来客用も兼ねた教職員用玄関に近いおかげか、他の階より小奇麗なトイレへ入ると、横井は五十里谷から距離を取るように奥へ向かう。窓辺で振り向いた彼の表情は、これから罰を言い渡される罪人のように諦観を漂わせていた。
「……もう気づいてるんだろ」
「ああ、そやな」
五十里谷の立てた仮説は真実で間違いなさそうだ。横井は引きつる口元を無理に笑みの形へ歪ませる。
「だったら、こんなところに連れこまなくても、クラスで笑いものにすれば?」
まるで自暴自棄のようにも思えるが、怯えを覆い隠そうとする虚勢には、せめて強気な態度だけは崩さんとする意地が見てとれた。自分は五十里谷とは違う。そう主張する横井は、己の握り拳が小さく震えていることを自覚していない。
「そんなことせん。お前……俺が羨ましかったんちゃうん?」
「……っ」
「ゲイなんやろ」
単刀直入に突いた図星が余程痛いのか、背けられた横顔が苦悶に歪む。震えていた拳が自らの胸元を掴み、力が入りすぎて白んでいた。
「だったら……何?」
「せやから俺が憎かったん?」
「……っだったらなんだって訊いてんだよ! ああそうだよ、散々お前をいじめてきた俺もホモだよ、それがなんだ!」
切羽詰まった唸り声は、怒りでも開き直りでもなく、恐怖に染まっていた。身体の小さな犬が呼吸も忘れて吠えたてる姿とよく似ている。一体、何が横井をここまで追い詰めているのだろう。
入口にほど近い場所から、ゆっくりと横井へと足を踏み出す。ビクッとあからさまに後ずさった男は壁に背中をぶつけ、肩にかけていた通学カバンを縋るように胸へ抱いた。
「なんだよ、っなんか言えよ、文句なら山ほどあるだろっ」
「まあ、そらあるけど。そない泣きそうな顔見たら、なんも言えんやんか」
「っ」
自分より低い位置にある頭へ、そっと手を乗せた。殴られるのかと身構えて目を閉じた横井は、ポフンポフンと撫でられて唖然としている。
「何……」
「横井さあ、そないなるまで溜めこむくらいやったら、ちょっと吐いてみ?」
「え……」
「俺を攻撃するより、そっちのが大分楽になれたんちゃうん」
彼に同調し、その場の雰囲気で五十里谷へ暴言を吐いていた生徒の大多数は面白がっていただけだ。けれど横井は違う。彼は五十里谷に投げつけた言葉が全て、ブーメランとなって自らを傷つけていたはずなのだ。
「昨日からずっと考えとってん。腹も立ったし、理不尽やと思た。でも俺、傷つけたくなる気持ちもちょっとだけわかる気いしたから」
「そうやって俺を懐柔しようって魂胆?」
「そんな面倒なことして何になるん。お前に取り入ったところで俺にメリットないんやけど」
逆に言えば嫌われたところで、もう今更だ。彼の言う通り邪まな下心が五十里谷にあるのなら、とっくに吹聴して横井をクラスのカースト最下位へと引きずり降ろしているだろう。
「自分がゲイやって認めるまで、俺は結構悪足掻きしたから。もしお前が今、自分の常識と世間の常識の噛み合わなさに苦しんどんねやったら、話聞くくらいできると思ただけ」
もちろん悩みなんてものはひとつだけではないだろう。性的嗜好以外にも、様々な要因が絡まっているものだ。五十里谷は己がゲイであることを認められない要因のひとつに、父の異常性があった。彼がこの世を去り、この学校で河野に出会わなければ未だに自分を偽っていた可能性だって十分にある。
助けになりたい、だなどと偽善者ぶる気はないが、できることがあるなら貸せる手はある。五十里谷はそうして居場所をくれた人を知っていた。
「まあ、いらんねやったら別に、それはそれでええし」
黙りこんだままの横井は口を開ける気配もない。今までいじめていた人物に、おいそれと相談できないのは当然だろうと五十里谷は背を向ける。
すると制服を掴んで引き留められ、踏み出しかけた足を戻した。
「なん?」
「お前……馬鹿じゃないの? 能天気にもほどがある」
「馬鹿よりアホのがええ」
制服から手が離れないから、横井に背を向けたまま待つ。暫くするとスンと鼻を吸う音が聞こえ、掴まれていた部分が解放された。
振り返ると、目を潤ませて唇を噛む男が俯いている。素直に涙をこぼせないのはプライドか、それとも抑圧だろうか。
「父さんが……言ってた」
不穏さを感じると共に思い出したのは、余所行きの笑顔を張りつけた教職員に囲まれ、機嫌をとられ、まるで小さな国の王者然とした彼の父親だった。
横井は言葉を選んでいるのか、何度か口を開閉する。そして複雑に顔を歪ませた。
「男しか好きになれない俺は、病気なんだって」
「アホ言うな」
間髪入れず否定する五十里谷を、横井は弾かれたように見上げる。クシャリと眉を垂れ下げる表情は、十八歳にしてはあどけなく、迷子になった幼子みたいだ。けれど能面のような笑みを貼りつけていたあの日より、ずっと人らしかった。
「父さんの言うことは絶対なんだ。病気は治さなきゃいけない。大体、男が男を好きになるなんて自然の摂理に反してる。そうやって……俺は何年も自分に言い聞かせてきたのに」
その先に続く恨み言は予想できるが、口を挟みはしなかった。身動きが取れないまでに自らを「父の望む子であること」に縛りつけている彼に、全て吐き出させてやらないといけない。
「お前らは男同士なのに、あんな幸せそうに一緒にいたんだ。病気なのに。そんなのおかしいのに。お……俺は、できないのに、お前らは……っ当たり前みたいな、顔で」
溜めこんでいた嫉妬と羨望の混ざった雫が、ついに下瞼を越えて頬を伝う。濁りのない、純粋な思いだ。どうしたって変えようのない酷く柔らかい部分を肉親に傷つけられ、傷ついたことすら口にできないまま五十里谷を傷つける苦しさは、想像するだけで痛い。
止めどなく流れる涙を、指先まで伸ばしたセーターで拭ってやる。横井は少し驚いたように目を見張り、それから五十里谷の手首を掴んで止めた。
「けど、どこかで俺もわかってた。病気じゃない。俺はおかしくない。変じゃないって……誰かに、言ってほしいんだって」
「知っとる。横井は普通やで。おかしない」
震える唇を噛む男は手で目元を押さえ、消え入りそうな声で「ごめん」と言った。
「八つ当たりしたって、誰も笑えないのに、止められなかった、ごめん、……許して」
一年以上も続いた加害者と被害者の確執を溶かすには、ささやかすぎる謝罪だった。けれどもう、五十里谷も彼を責める気にならない。
誰かを恨むのも、憎むのも、嫌い続けるのもエネルギーを酷く消耗する。未だに父の存在を毛嫌いしている五十里谷は、それをよく知っていた。見たくないものから目を逸らしたところで、自分の弱さがすぐ背後で嘲笑っていて逃げ場などない。
せめて横井とは、そんな関係になりたくなかった。だからもう一度、静かにしゃくり上げる男の頭に手を置いた。
「もうアホなことすんなよ。苦しなったら、言うといで。ほんで……」
「……何」
「風邪のひとつもひかんと毎日俺に嫌がらせできる健康体なお前が、病気なわけないやろ」
大きな身体じゃゴミ袋に入らないだろうと、屁理屈で五十里谷の項垂れた背中を正した人を真似た。最後にニカッと笑ってみると、上目遣いをする男が口をへの字に歪める。生意気で人を小馬鹿にするその見慣れた表情の中で、強がれていないのは赤い鼻先だけだ。
「え、らそーに……っむかつ、く」
「ヒックヒック言いながら文句言われても」
「うる、さ」
横井と友人になるには、相応の時間がかかるだろう。しかし残り短い学校生活で、彼の気持ちを理解できる存在にはなれるかもしれない。樋口が知れば「お人好し」と言って笑うかもしれないが、五十里谷は本気でそう思っていた。
やがて泣き止んだ横井を見送り、一人になると無性に樋口のことばかり思い出した。どうしても会いたくて仕方がなくて、何故か泣けてくる。
踵を返し、トイレを出た。靴箱を通り過ぎて渡り廊下から北校舎へ向かい、ヒンヤリとした廊下の中腹で立ち止まる。頻繁にここまで来ては、扉をノックする勇気がなくUターンするの繰り返しだった。でも、今は。
コツンと拳を扉に当てて、「せんせ、俺」と震えそうな声で呼んだ。
「おるやんな?」
「帰れ」
静かで、有無を言わせぬ固い声色が返ってくる。今までだって彼の話し方は淡々としていたし声は面倒くさげだったが、ここまで冷たくはなかった。その事実に胸は痛むけれど、久しぶりに樋口の言葉をもらえて安堵する。
縋ることしかできない、どうしようもない恋だ。
「せんせ、クリスマス暇やんな。会お」
返事はない。だが、なくて元々だ。ここまで来てしまった五十里谷に、諦めて口を噤むという選択肢はなかった。
「祭りんときの公園、憶えとる? イブの夜な、あっこで待っとるから、来てな」
彼は今どんな顔をしているだろう。困っているだろうか。今更なんだと怒っているだろうか。
ごめん、ごめんなせんせ、諦めたくない。
冷たい扉に額を預け、祈るように呟いた。
「絶対来てな」
そっと離れ、扉をスライドしたがる自分を振り切るように背を向ける。まだ言いたいことはあった。もっと別の言い方ができたかもしれない。出会ったばかりの頃、彼の同情を誘った手口で開けさせることだってできただろう。
だけどこれ以上卑怯なやり口で優しい彼を引き留めたところで、気持ちは手に入らないし、苦しめるだけだ。そんなことは絶対に、したくなかった。
終業式を終え、祝日を挟んでイブの夜がやってきた。ただでさえ浮かれていた世間のクリスマスムードはピークを迎え、公園から見える家々のベランダや植木をイルミネーションが賑やかしている。
樋口に時間の指定をし忘れた五十里谷は、それらの明かりが点灯し始めるより早く、夏の日と同じく明滅する外灯の下、ガタつくベンチに座って待ち人の到来を願っていた。メッセージを送れば済む問題かもしれないが、「行かない」と返ってきたときを考えるとアクションを起こせない。
「腹減った……」
寒い、と口にすると余計に凍えそうで、すっからかんになって久しい腹を撫でる。慌てて出てきたせいで手袋を忘れ、指先がかじかんでいるから携帯を触る気にもならない。メッセージアプリのトーク画面にはなんのサービスか雪が舞う仕様になっており、寒さも侘しさもひとしおだ。
「会いたいなあ」
囁けば、白い息が宙へ散った。ふーっと息を吐き出してみると、まるで煙草の煙を逃がしているようで面白い。樋口はいつも、こんな光景を見ているのだろうか。寂しくなって俯き、目を閉じる。こんな時期に進路を変更し、受験対策の課題が山ほどある中、自分は一体何をしているのだろう。問いかけに返ってきた強い声は、揺るぎない恋を見せつけていた。
「……そやな、好きやねんもんな」
他愛のない日常を、彼と重ねていたい。寂しい者同士が傷を舐め合うだけではなく、癒し合って、カサブタの剥がれた部分を剥き出しにして抱き合いたい。
ぶっきらぼうで厳しい物言いに隠れた、見えにくい思いやりごと傍で愛させてほしいのだ。救いたいだの救われたいだのは、どうでもよくて、五十里谷はただそれだけだった。
ジャリ、ジャリ、と足音が聞こえる。瞼を開けても視界には自分の下半身しか映らないが、音は徐々に近づき、左隣に誰かが座った。芯まで冷えていたはずの胸中に、ほうっと火が灯ったかのようだった。頭を上げ、黙ったままの人へ笑みを向ける。
「来てくれてありが……、ちょ、顔!」
未だかつて見たことがないほど、樋口の横顔はムッツリとしかめられている。歓喜で涙ぐみそうだった五十里谷は反射的に余計なツッコミを入れるが、男は追加で唇を尖らせ、シリアスな感動シーンに勢いよく水を差した。
「雨降ったら絶対行かねえって思ってたのに快晴だぞふざけんな」
「俺実は晴れ男やねん」
「あーお前はそういう顔してる。アホっぽい」
「よう言われる」
よく晴れた日中ならば上着なしで外に出られた文化祭の日から、今日まで一カ月と約半月。その間一切顔を見る機会もなかったのに、あの日に戻ったかのような錯覚を覚える。それでも一度沈黙すると、やはり二人の間には邪魔なぎこちなさが居座っていた。
どうやって茶化せばいいのか、面白い話は何か、考えてから止める。今日は樋口に話したいことが山ほどあるのだから、道化になっている場合ではない。
「あんな、俺、受験することにしたで」
「はあ? ……受験生がこの寒い中、外で待つなよアホか、勉強しやがれ」
「うんそれはマジでごめん」
怒られているのに、心配されているから嬉しい。脚をブランブランと揺らすと、靴のかかとが地面へ引っかかった。
「ほんでな、横井と多分、和解できた」
「へえ……許してやったのか」
「まあ、そんな感じ。あいつの気持ちも理解できたし、謝ってくれたからもうええかなって」
「お人好しが」
想像の中の樋口と同じことを言われ、つい笑みが浮かぶ。締まりのない顔を取り繕いもしない五十里谷は、調子よく口を動かした。
「そうそう、期末めっちゃ点数よかってんで。褒めて」
「おう、お疲れさん」
「明日な、叔母と一緒にケーキ買いに行くねん。プレゼントもこっそり買うてんで。生まれて初めて女の人向けのアクセサリーショップ入ったわ」
「勇気あんな」
「緊張しとったからな、恋人へのプレゼントですか~って言われて頷いてもてさあ、なんか一人で照れた。あ、そんでこれは、せんせに」
ポケットからクリスマス用の包装がなされた袋を出し、樋口の腕へそっと押しつける。
「クリスマスプレゼント。せんせ、湿布とか買うてくれた分のお金受け取ってくれんかったやん? そのお礼も兼ねてみました」
「アホか……無駄遣いすんじゃねえよ」
「無駄ちゃうし。俺にとっては……大事なことやし」
「……そうだな」
自らが稼いだ給料で準備することに、意味がある。その考え方自体が子どもだと言われればそれまでだが、ガキのささやかな自立心を彼はそれ以上馬鹿にしなかった。
袋を開けた樋口は、中身を取り出して目を丸くする。それから横目に五十里谷を睨み、もう一度「アホか」と言った。
「この髪ゴムは、元嫁に対抗してるやつか?」
「まあ、そうっす」
樋口の元妻のものよりは地味で、もちろん高いものではない。けれど樋口に似合うものをと、あかりへのプレゼントの二倍は時間をかけて吟味した品だ。 本来男性向けではない商品だから、イメージ通りのものを見つけるだけでかなり大変だった。しかしシンプルなシルバーのカフスに雪の結晶が彫られたデザインは、彼にピッタリで気に入っている。
「もう、未練ないって言うたやん。やから俺のあげたん、つけてくれたらなー、って……」
チラ、チラ、と期待をこめて窺う五十里谷の頭に、男の拳がコツンと乗る。その手は引き留める間もなく、すぐに離れていった。
「考えとく」
「知っとるで、それ大人の常套句やろ」
「ちげえわ」
「ほな是非、前向きにご検討ください」
「営業か」
笑ってくれたのが嬉しくて、立ち上がって小躍りしたくなる。本当にすれば変質者でしかないため堪えた五十里谷は、彼に聞いてほしかった話が喉で渋滞していた。
「あー、ほんでな」
「ん?」
「ほんで……」
世間話はポケットを叩けばいくらでも出てくるが、ベンチの上で樋口に向き直ることで終わらせる。
春先でも冬物のセーターを着こむような寒がりなのだ、樋口は。与太話で風邪をひかせたら、それこそ合わせる顔がなくなってしまう。
「せんせのことも、ようさん考えた」
手袋に包まれた手をコートのポケットへ突っこみ、背を丸めた樋口は顔も上げない。本題に入り、随分と身構えているようだった。
「んだよ」
「俺、先生が好きや。大好きや」
深く沈んでいた頭が揺れて持ち上がり、冷めた目が五十里谷へ向けられる。相変わらず感情の読めない、死んだ魚のような瞳だった。奥の奥で動揺を殺す、臆病で繊細な黒曜石だ。
「普通あんな思いしたら、もう人好きになんの怖いとか、なるだろ」
「……ならへんかった。せんせがおったから。せんせのこと好きになれた」
「あの日出逢ったのが俺じゃなかったら、きっと」
「たらればは好きちゃうねん」
口ごもる樋口は、「馬鹿野郎」と小さな声で言う。地の底で蹲っていた五十里谷を引っ張り上げた彼は強く、逞しく思えたのに、目の前にいる樋口は触れるのを躊躇うほど弱々しい。雪の字を名に持つだけあって儚く、下手に触れると溶けて消えてしまいそうだった。
出会った頃とは、立場が逆になったかのようだ。今にも伸ばしてしまいそうな手で拳を作り、触れないよう、手のひらへ爪を立てた。
「文化祭の日、勝手にキスしてゴメン。自分が生徒やってことも、せんせが教師やってことも、わかっとるつもりでおってゴメン。なんもわかってへんかった。一人で盛り上がって、せんせがどない思うか、どないするか、至らんくて、ホンマにゴメン」
でも、と続けたとき、男の眉間に皺が寄った。それ以上言うなと念じられていることを知っていて、五十里谷はやめない。
やめたら、学校ではない場所に樋口を呼び出した意味がなくなってしまう。
「やっぱ諦める気ないねん。ずっと一緒におりたいって思うねん」
「好きだけじゃ、どうにもなんねえこともあんだろ」
「そやな、せんせが教えてくれた。せやけど言うたやん、好きがないと始まらんって」
揚げ足をとった五十里谷へ、樋口は舌を打つ。膝に肘をつき、額を手で押さえる横顔は髪とマフラーで表情が窺えなかった。
「……もうやめとけ」
「やめへん。言うてたよな、俺の居場所はもうせんせのとこだけちゃうって。でもな、俺どこに居場所があっても、ずっとおりたいんは、せんせのとこなんや」
「ガキか」
「そうや、俺はまだ……育ててもろて、せんせにも手、引いてもろてるガキやねん。やからな、せんせ。返事せんとってほしい」
「は……?」
意味がわからないと言いたげに、男が再び五十里谷を見た。
もちろん、色よい返事なら一分一秒でも早く彼の口から聞きたい。しかし今は何があっても、NO以外の答えをもらえない。五十里谷はまだ、この恋を「感情以外の要因」で終わらせる気がなかった。河野に想いを告げた年下の男も、こんな気持ちだったのだろう。
「俺の気持ちはせんせに渡しとくから、預けとくから、邪魔にはならへんから、持っといてほしい」
「馬鹿言うな、そんな、いつまでかもわからねえもんを」
「俺な、自分がゲイかもって疑いだしてから認めたんのに五年かかってん。やから、せんせが考えるんも、それくらい猶予あっていいと思う」
樋口の口元が歪み、皮肉げな笑みを浮かべる。
「俺に五年も悩めって? お前は何様だ」
「せんせに片想いしとるアホな学生やん」
「お前それ恥ずかしくねえの」
「全然。せんせのことが好きやって自信持っとるから、なんも恥ずかしない。……以上、俺の気持ち全部」
言い切る五十里谷を横目に、男は溜め息を吐く。白いモヤが晴れると、五十里谷の変わらぬ気持ちを嘆く教師の顔がそこにはあった。
「ふざけんな」
どんな意味で、それを呟いたのか、五十里谷に全貌は察せない。彼が話してくれなければ、推測はできても答えではない。しかし問うたところで本音を聞かせてもらえる自信も、今はなかった。
「……どうしても嫌やったら、このまま俺のこと無視して帰ってほしい」
ハッと男が目を見張る。それもそうだ。今の今まで言っていたことと、百八十度違うのだから。
「返事聞かねえんじゃなかったのかよ」
「そのつもりやで。でも不公平やん。ちゃんと拒否するターンがあってもええと思う。けど、怖いから、嫌やから、一回だけ。今回だけな」
見つめ合っていると彼は動けないだろうから、顔を背けて目を伏せた。樋口に罪悪感を抱かせてはいけない。勝手に恋をして、それを全速力でぶつけ、悩ませている五十里谷に彼を後悔させる資格はない。
「可能性が絶対ないんやったら、頼むから、変な同情せんと捨ててって。俺も、俺の気持ちも。それくらいやないと、追いかけるん止められへんから」
もう何も伝えることはないのだと、口も閉じた。立ち上がって遠ざかっていく気配を想像しては、姿が見えなくなるまで決して泣くなと己に言い聞かせる。
沈黙は長かった。その間、五十里谷も、樋口も身動きひとつしない。乾燥した真冬の空気を震わせるように、犬の遠吠えが響いていた。
「お前、マジで腹立つ。勝手すぎんだろ」
漸く発された言葉は五十里谷を真正面から糾弾していた。目を開け、樋口がそこにいるのを確かめる。席を立つ気配はなかった。
「なんで好きとか言うんだよ。俺みたいな教師に懐いて、散々まとわりついてきて、こっちに居心地いいって思わせといて、そんなんふざけんな」
伸びてきた手が五十里谷の胸倉を掴む。揺れる黒曜石の瞳は、怒りだろうか、心配になるほど不安定だった。
「その一言がなけりゃ、お前が卒業するまで俺も教師らしく見守れたんだよ。卒業しても顔出しに来いよって、なんかあったら連絡してこいよって言えたんだよ。台無しだ、全部、わかってんのか」
「うん、わかっとる」
「なら俺がどんな思いで突き放したかも、わかんのか」
ぐいと引き寄せられ、硬いベンチへ手をつく。前のめりになった五十里谷は息を止めていた。近い場所でしかめられた樋口の表情は熱心に、望まない孤独を訴えていた。
「痛えよ。つれえよ。お前は俺を居場所だとか抜かしやがったけどな、それは、……俺だって、同じだったんだぞ」
「せんせ」
「男同士だとか、そんなんよくわかんねえよ。自分が対象になるなんて思わなかったんだぞ、急に言われて考えたって答え出ねえよ。今感じてんのがお前と同じ種類の好きなのか、生徒に対するもんなのか、寂しいから感じてるもんなのかすら、俺には……」
辛抱堪らず男を抱きしめていた。分厚いコートやセーターに包まれた細い身体を両腕で抱き、煙草くさい首元へ顔を埋める。男は身体の横へだらりと腕を投げ出し、鼻をすすってまた「このアホが」と悪態を吐いた。
去るチャンスを棒に振った樋口を抱きしめられることが、どんなに幸せかは言葉にならない。不真面目に見えてどこまでも真面目で融通の利かないこの男が、どんな葛藤を経てここに来たのか、抱きしめられているのか、それを思えば罵倒すらも愛しかった。
「アホでゴメン。好きでゴメン。せんせ、好きや。大好きや」
「……聞き飽きたっつーの」
「お願いやから、ゆっくり考えてほしい。可能性が生まれたら、それ大事に持っといてほしい。大人になったらもらいに行くから。代わりに俺の気持ちだけ置いとくから」
「いらねえ」
脱力していた男の腕が五十里谷の背を抱いた。おおよそ甘さのない、苦しいほどの力加減で、まるで締め上げるように。
堪らなく嬉しかった。肩を押し返されたあの日の絶望が、ほんのりとした熱でいつしか溶ける未来を望むことができたから。
「チクショウ……なんでこんな、寂しい思いさせんだよ……」
不本意なのだと主張する不機嫌な声が、五十里谷の肩でくぐもった。込み上げてくる切なさが、愛しさに混ざって今にも穴という穴から溢れ出そうだ。
「ほな……ずっと、寂しい、まんまでおって」
恋とは、なんと濁った感情だろうか。純度の高い水のような愛しさだけを注ぎ続けられたらいいのに、五十里谷が樋口に飲ませてきたのは無糖珈琲が足元にも及ばない苦い汁ばかりだ。傲慢に押しつけた感情の身勝手さは、彼の優しさがなければただの暴力と変わらない。
ただ、既に濁っているからこそ、怖いものなしに誓える未来だってある。
「ずーっと、せんせの手引いていけるような男になるから」
こんなときに遠吠えする犬のせいで、彼がもごもごと呟いた言葉がはっきり聴き取れない。「え?」と樋口の肩を押し離し、未だ電球の交換がなされていないチカチカとした明かりに照らされる顔を覗きこむ。
すると男は気の抜けた笑顔で五十里谷を見上げ、「ずーっとってお前、ガキか」と言って腕を叩いた。
着ぶくれた身体が離れていき、ベンチを立つ。ぐぐと背伸びする姿を見送った五十里谷は、改めてのガキ扱いに口を尖らせた。
「ずっと言うたら、ずっとやねん」
「いつまでだよ。言っとくけど、永遠って言葉使っていいのは薄ら寒い恋愛映画の中だけだからな」
「せんせ、夢ない」
「しゃあねえ、預かっといてやる。遠ざけても無意味だって、さすがにわかったしな」
振り向いた樋口が、コートのポケットから皺だらけの白い紙袋を取り出した。セロハンテープで口を簡単に止めてあるだけのそれは、中に何を詰めこんでいるのかパンパンに膨れている。
「じゃあな」
紙袋を五十里谷に押しつけ、受け取ると彼はベンチから離れていく。その背が見えなくなるまで、見えなくなっても名残惜しく見送り続けた五十里谷は、やがて手の中にある袋を開けた。
「……なんこれ」
そこには笑えるほど大量のお守りが入っていた。交通安全、健康、合格、商売繁盛、出世、厄除け、それから何故か安産祈願のものまである。合格祈願に至っては幾か所も神社を巡ったのか、数種類あった。
「受験すんの……知っとったん」
きっとひとつに絞れなくて、目についたものを片っ端から購入したのだろう。その間、彼の頭の中には五十里谷しかいなかったのかと思えば、胸が打ち震えた。
溢れた涙が、両手いっぱいのお守りを濡らしている。それでも五十里谷は、恋した人への愛しさで笑っていた。
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