六花の涙

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六花の涙

『冬休みが明けても、あれから準備室の扉を叩くことはなくなりましたね。春から二日と空けず会っていたことを思うと、当たり前なのに不思議な気分でした。  私の過ごした高校生活最後の一年間は、とても内容の濃いものでした。  悲しむことを止め、寂しさを誤魔化し、つらいと感じる自分を丸ごと小さな箱へぎゅうぎゅう詰めて、見ないフリをしていましたから。誰かと笑えることも、誰かに気持ちを話すことも、誰かを頼ることも、この一年で思い出したのです。あなたが、思い出させてくれたのです。  とりわけ一番の事件は、あなたに出会えたことでしたね。これは譲れません。私の青春を根底から大きく揺るがした、世紀の大事件ですから。……先生、今鼻で笑いましたね。わかりますよ、何度もあなたにそうして小馬鹿にされた私が言うのだから間違いありません。お変わりないようで嬉しいです。嘘です。あまり自信はありません。突発的な成長期などに見舞われて、身長を抜かされていたらどうやってカッコつけようかと悩んでいるところです。  くだらないですね。すみません。  ですが先生。私は必死に恋をしていました。あなたに振り向いてほしくて、あなたを誰にも取られたくなくて、みっともなく、縋るように。あの頃も、今も――――』  机にかじりつくばかりで正月気分を味わう余裕もないまま、冬休みが明けた。受験モードで大抵の生徒がピリピリしており、三年生のクラスがある階全体が緊張感に包まれている。世の中は早くもバレンタインデーがどうのと浮かれているが、そんな俗世とは切り離された異界にいるかのようだった。  ふとした瞬間に、樋口を思い出す。トイレに行ったとき、集中力が切れたとき、食事をするとき、煙草や珈琲の香りを嗅いだとき。けれど彼と、彼のくれたお守りを裏切りたくなくて、三学期が始まってから一度も会いには行っていない。それは受験に集中するという理由が半分を占めているが、もう半分には彼を困らせるだとか、顔を見て抑えられる自信が自分にはないだとか、そういった情けない理由もあった。  それでも彼との繋がりが消えてしまうのが嫌で、プリントの裏に手紙を書いた。それを彼の靴箱にこっそり忍ばせ、翌日手紙が消えていることに安堵する。いうなれば異界から送るラブレターだ。きちんと届きますように、あわよくばこれを読んで笑ってくれますように。  ささやかな願いをこめて、今日も靴箱の扉をカチンと閉める。  するとそこへ、教職員用玄関の外から一人の教師が入ってきた。彼は樋口の靴箱に手をかけている五十里谷を見て、怪訝そうに眉を寄せる。 「何してるんだ?」 「え、別になんも……」 「樋口先生の靴箱になんの用があるんだ。まさか……おかしなものでも入れたんじゃないんだろうな」  彼の疑問はごもっともだが、ラブレターを入れてました、とは絶対に言えない。だからと言って教師の靴箱に手をかけても通る正当な言い訳など、咄嗟に思いつくはずもない。  言い淀む五十里谷を一層不審に思ったのか、教師は怖い顔で近づいてくる。このままでは靴箱の中を見られてしまう。一体どうすれば、と焦りがピークに達したときだった。 「あ、五十里谷~」  廊下側から、横井が軽い調子で声をかけてくる。彼は教師に笑顔で会釈し、五十里谷の背をポンと叩いた。 「車のキー、やっぱりカバンに入ってたって。樋口先生って結構抜けてるよな」  気持ち悪いほどのにこやかさが、助け船だと直感する。五十里谷は冷静に手を下ろし、「そうなん」と笑い返した。 「靴箱にはないやろって俺も思てたとこ」 「だよな。……先生、どうかされました?」 「いや、何もないよ。探し物を手伝うなんて、うちの生徒はいい子ばかりだ」  横井に話を振られた教師が、さっきまでの疑いを丸ごと捨てて穏やかに微笑む。市議会議員の息子効果は絶大で、心なしか猫撫で声だ。彼は横井と五十里谷に「早く帰りなさい」と優しく言い残し、二階へと上がっていった。  ホッと息をつき、横井の肩に手を置く。 「めっ……ちゃありがとう……」 「ツメ甘すぎるんじゃない? 俺に路チュー見られたくせにホント凝りてない。馬鹿?」 「おっしゃる通りやわ……マジで助かった。でも、なんでこんなとこおるん。校舎の端っこやで」  横井はキョトンと目を丸め、それから気恥ずかしそうに口を尖らせる。両肩に乗った五十里谷の手を払う仕草は可愛げがないものの、表情が照れ隠しを物語っていた。 「お前が……靴箱に手紙入れてんの、たまたま見て」 「うお、見られてたん……」 「毎日だし、お前警戒心ないし、その内今日みたいに教師にバレんじゃないのって思ったら、……ハラハラするだろ!? 案の定見つかってるし、アホだろ!?」  上向けた両手のひらを上下させ、五十里谷が与り知らぬ心労を訴えられる。思わず頷き返して「心配してくれたんやな」とこぼすと、素直じゃない男は顔を真っ赤に染めた。 「……っ別に、そういうんじゃないから! 不用心で腹が立っただけだから!」 「うん、ありがとうな」 「だから……っもういい、帰る! じゃあな!」  肩を怒らせて生徒用玄関へ向かう背中は、壮絶に照れている。それが面白くて、人間くさくて、五十里谷は思わず笑いながら追いかけた。 「横井って駅やろ? 一緒に帰ろか」 「……別にいいけど」  あからさまに歩調が緩やかになったのを知っていて、五十里谷は指摘せず横井の隣に並んで歩いた。  受験勉強と残りの授業をこなしつつ、一月も末になるとクラスメイトとの会話からはあえて受験の話題が消える。皆が皆、自分の将来に向けて慎重に足を踏み出すため神経をすり減らし、不安を抱えながら日々を過ごしていた。その得体の知れない漠然とした恐怖を、友との交流で紛らわすことができるのも、二月になるまでの残り数日だ。自由登校になれば、ほとんどの生徒は学校へ来ない。もちろん五十里谷も、自宅学習に励むつもりでいる。 「……よし」  カチン、と靴箱を閉め、以前のように他の教師に見つからないようすぐに教職員用玄関を後にする。  今日はずっと書かないようにしていた、「準備室に足の踏み場はありますか」という問いを綴ってしまった。考えると自分の目で確認しに行きたくなるから避けていたのだが、どうにも気になって仕方なかったのだ。この手紙を読んで、一部のスペースだけでも片づけようとしてくれたらいい。  靴を履き替え、正門にほど近い玄関から外に出る。見えないと知っているが癖で北校舎中腹辺りに目をやってから、学校の敷地を出た五十里谷は思わず立ち止まった。  門の傍で校舎を見上げている女性はマスクで顔の下半分が隠れているが、あかりの部下、京子に見える。 「あの……?」 「え? ……俊介君?」 「やっぱり、京子さんや」  お互いに目を見張り、偶然の再会に顔を綻ばせる。彼女は学生だらけの中で知人に会えて安堵したのか、小走りで駆け寄ってきた。 「ここの高校に通っていたんですね。驚きました」 「俺もビックリしました。っていうか、京子さんお休みやったんですか?」 「そうなの、今日は病院の日で……あ、大丈夫ですよ、風邪だとかインフルエンザじゃないですから。持病の検査で」  受験生を気遣っているのか、手袋に包まれた手が忙しなく胸の前で振られる。五十里谷は和む仕草に少し笑った。 「そうやったんですね。せやけど、高校になんか用事ですか?」  問えば、途端に彼女の目が泳ぐ。 「ええと、雪……樋口先生が、この高校に勤務されている、と聞いて……」 「せんせの知り合い……?」 「まあ……俊介君も樋口先生を知ってるの?」 「授業は持ってもろたことないですけど、ちょっと、仲良くさしてもろてて。よかったら呼んできましょか?」  保護者でもなければ、単身で校内に入って職員室を訪ねるのは中々気まずい。そう思い提案するも、京子は不本意そうに首を横に振ってしまった。 「いえ……やっぱり、やめておきます。ありがとう、じゃあね、俊介君」 「あ、はい、じゃあ……」  後ろ髪を引かれるように校舎を見た京子が、会釈して去っていく。不自然な態度に首を傾げていると、背中にドンと誰かがぶつかり、よろめいてしまった。 「うお……っ誰や、あ」 「やっほ、何してんの?」  五十里谷の肩に腕をまわしているのは鳩山だ。家業の酒屋を継ぐ彼は、受験と就活でてんてこまいな生徒の中にいても普段通りのお調子者でいてくれる。おかげで五十里谷は、随分と気持ち的に助けられていた。 「何って、今から帰るとこやけど」 「その割には美人と話してたじゃん。なんだよーわかってたけどお前女にもモテんのなーズルいわー」 「ちゃうって。知り合いやってん。樋口先生に会いに来たみたいやねんけど、やっぱいいって帰ってもて」 「ふうん……」  京子の去って行った方向を見つめた鳩山が、口角を上げて意味ありげに小首を傾げる。 「わかった、樋口の元カノだ?」 「え……」 「俺の見立てではー、長いこと付き合ってたけど樋口の不愛想ぶりに嫌気が差して別れ、でもあの物静かさと綺麗な顔に未練があって、会いたくなって戻ってきた……って感じだな」  鳩山が楽しげに推理を並べ立てる声が、耳を素通りしてどこかへ消えていく。自失といっても過言ではない状態のまま友人と別れ、気づけば自宅へ帰ってきていた。  夕飯も風呂も済ませ、朝食の下ごしらえをするあかりをキッチンカウンター越しに窺う。 「なあ、あかりさん……」 「ん? どうしたの?」  味噌汁用の小口ネギをリズミカルに刻む手元を見つめ、考えるのは樋口のことだ。彼は夏の日、三年前に元妻が出て行ったのだと教えてくれた。どうか違っていてくれと、祈るように呟く。 「京子さんって、関西に引っ越したん、いつくらいか知っとる?」 「京子ちゃん……? ええ、知ってるけど、それがどうかしたの?」  ドクン、ドクンと心臓が嫌な音を立てる。  それでも訊かずにはいられなかった。 「やー、ちょっと。何年くらい前なん?」  あかりは包丁についたネギをタッパーの中へ払い落しながら、サラッと告げる。 「三年前よ」  嫌な予感が的中する耳障りな音がした。笑ってしまうほど世間が狭いことを目の当たりにして、眩暈が起きそうになる。平静を装える気がせず、礼を言って自室へ引っこんだ。 「京子さんが、せんせの……元奥さん?」  鳩山に言われるまで、考えもしなかった可能性だ。しかし目の前に突きつけられた仮定は、あまりにも状況が合致しすぎている。 「奥さんが出て行ったんも、京子さんが引っ越したんも、三年前……ご主人亡くなって、戻ってきてて……」  そういえば彼女は樋口を、一瞬名前で呼びかけていた。加えて勤務校まで足を運び、土壇場に踵を返している。突然用件がなくなったとは考えにくい。だとしたら、会うことを躊躇っていると考えるのが自然だ。  捨てた元夫に会うことを躊躇しているなら、全ての辻褄が合うんじゃないだろうか。 「……ヨリ、戻しに来た?」  呟いた瞬間、自分でも目を背けたくなるような苛立ちを覚えた。勢いよく額を叩き、屋上で樋口が教えてくれた過去に思いを馳せる。  どんな事情があったにせよ、元嫁が樋口を理不尽に捨て置いたのは事実だ。その一件により、樋口は酷く傷ついた。人間との交流は必要最低限でいい、と自分の周囲に太い線を引いてしまうほどに、孤独へ陥れた。その寂しさと拭えない怖さを、五十里谷はよく知っている。 「そんなん……許せんやん」  周囲とコミュニケーションをとるようになり、独りでなくなりつつある樋口に、波風を立ててほしくないと思っているのが本音だ。そして裏側には、樋口を取らないでほしい、という切実な願いや嫉妬もあった。  けれど苛立ちは徐々に鎮火していく。京子が悪人ではないことを、自分の目で見て知っているからだ。だからこそ余計、元妻と京子が線で繋がらない。  一体、どうすればいいのだろう。自問し自嘲した。どうするも何も、五十里谷に口を出す権利はない。会っても会わなくても、ヨリを戻したとしても、文句を言える立場ではないのだ。  大きな溜め息を吐き、大学ノートを一枚切り取る。そこにツラツラと思いを書き綴った五十里谷は、昔クラスの女子に教えてもらった手紙の折り方を思い出しながら畳み、それを持って部屋を出た。 「あかりさん」 「ん?」  片づけまで終えたらしいあかりが、ドラマ鑑賞のお供、チーズかまぼことビールを両手に振り返る。塩分の高いツマミばかり食べる彼女へのお小言は後まわしにして、書いたばかりの手紙を差し出した。 「これ、京子さんに渡しとてくれへんやろか……?」 「……え、まさか告白……?」 「ちゃうから」  だよね、と笑うあかりは、特に内容を問い詰めることなく手紙を受け取る。通勤用バッグへすぐしまってくれる彼女の、こういった過干渉しない部分にはいつも、信じてもらえている、という安心感をもらっていた。 「ありがとう。お願いします」 「いいのよ。まだ起きてるの?」 「いや、今日は寝るわ。なんや頭ん中散らかっとるから、休ませる。あかりさんは、ちゃんと水飲んでから寝てな。明日顔むくむで」  しょぼんと片手を上げて返事をする彼女に挨拶をして、部屋へ戻る。ベッドに転がって目を閉じると、心の中から「これでよかったんか」と問う声がした。 「……ええねん。決めんのは俺ちゃう、せんせや」  手紙の中で、五十里谷は樋口と京子の関係を訊いた。以前、樋口から元妻について聞いたことも、もしかするとその元妻が京子なのでは、と思ったことも。最後に「役に立てるなら電話ください」と、自身の携帯番号を添えた。  かかってくるかどうかは、正直全くわからなかった。  一月最後の登校日、五十里谷はHRを終えていつものように靴箱へ――ではなく、社会科準備室へ向かった。北校舎の一階を歩くのはかなり久しぶりで、足を踏み出す度にドキドキと緊張が高まっていく。しかし、もう用もなく学校へ来るのは今日が最後だ。受験組は時間を有効に使うように、と担任からお達しがあり、息抜きに、という理由も使えそうにない。  見慣れた扉の前で立ち止まり、大きく深呼吸をする。その程度では樋口に会うことを喜ぶ心臓の激しい動機は落ち着かないが、しないよりマシだ。  ノックをすると、中からやる気のない声で「誰だ」と樋口の声がした。 「あ、俺。五十里谷。入ってもええ?」  返答は一呼吸置いてから返ってきた。「いいぞ」と聞こえてすぐ、扉をスライドさせる。すると冷たい風が吹き抜け、懐かしい煙草の匂いがした。 「早く閉めろ」 「ああ、うん」  ちょうど窓を開けて煙草を吸っていたようだ。樋口は窓辺に肩を預け、外へ向かって紫煙を吐き出す。入室許可までに一拍あったのは、迷いではなく煙草のせいだったのだろう、と思うことにした。  髪留めがまだ、ブロンズカラーのポニーカフスのままだという事実に、打ちのめされている場合ではない。 「いつかバレんで、煙草」 「とっくにバレてるっての。けど最近、他の教師もここで吸ってるしいいんじゃねえの」 「嫌やで、敷地内で喫煙してニュースになるせんせ見るとか……」 「風向きは確かめてる」  そういう問題ではないのだが、五十里谷にできることといえば学校側が喫煙場所を定めてくれるのを祈ることだけだ。定期的に「早死にすんで」と脅してきた一年弱、彼が五十里谷の進言に心揺れたことは一度もないのだから。  カバンの中から取り出したプリントの手紙を、ローテーブルの端に置く。樋口の視線がそれを捉えたのを感じ、ヘラリと笑ってみせた。 「これ、渡しに来ただけやねん」 「……そうか」  まだ半分ほど残った煙草を携帯灰皿へ押しつけた樋口が、窓を閉めて近づいてくる。彼は折り畳んだ手紙を取って裏返し、特筆すべき点のないそれを白衣のポケットへ入れた。 「どうよ」 「え? 何が?」 「はあ? 見てわかんねえのか。お前の目は節穴か。よく見ろボケ」  何故か不機嫌そうに仁王立ちする男の圧力に従い、五十里谷は樋口を頭から爪先までじっと観察する。しかしスパンと頭を叩かれてしまった。 「ちげえわ、誰が俺見ろっつった」 「えええっ、なんなんよ、もう……あ」  叩かれた場所を押さえ、ふと違和感に気づく。何も落ちていない床、本の飛び出していない本棚、机もソファも余計なものは何ひとつ積み上げられていない。 「部屋、めっちゃ綺麗……?」 「だろ」  ふんぞり返る男は、誇らしげにニヤついている。クリスマスイブの夜、あんなふうに別れたきりだったけれど、いつも通りの樋口だった。 「お前の小言はうるせえからな。片づけてやった」 「すごいやん、せんせ。全自動散らかしマシーンやと思てたのに……」 「うるせえ。やればできんだよ、俺は」 「……そやったな」  ズシンと胸の奥に鉛みたいな異物感を覚える。文化祭の日、彼は言っていた。妻に気苦労をかけまいと、自分でできることはなんでも努力したのだと。  ものぐさで動きたくない症候群の彼にそうさせるくらい、京子は愛されていた。だから、五十里谷のしたことは、きっと間違いなんかじゃない。 「あんな、俺がせんせ好きなん……憶えといてな」  悲しげに笑う五十里谷を見て、胸を張っていた樋口は腰から手を下ろす。乾燥して血色の悪い唇が動いた。 「五十里谷」 全身の血が、顔に集まったのではと思うほど熱い。彼の声で固有名詞を紡いでもらえたのが、初めてだったからだ。  嬉しい。嬉しい。もう一度呼んでほしい。嘘だ。何度も呼んで、聞き飽きるくらいに。 「ほな……帰るな」  口から飛び出しそうな願いを噛みくちゃにして喉へ押しこみ、触れたくて疼く手に爪を立てる。慌てて準備室を背を向ける五十里谷を、樋口は呼び止めなかった。  逃げるように学校を後にし、重い足取りで駅へと向かう。後悔していないと声に出すのは容易いが、それが嘘であることは自分が一番よく知っていた。  あかりに預けた手紙を受け取った京子から、電話があったのは昨夜のこと。部屋で勉強に勤しんでいた五十里谷は見知らぬ番号からの電話に出て、聞こえてきた「京子です」という声に思わず背を伸ばした。 「あ、ええと、はい。……こんばんは」 『こんばんは、今、大丈夫ですか?』 「大丈夫です」  先日校門前で会ったときより沈んだ声の京子は、受験生の時間を無暗に奪ってはいけないと思ったのか、早速切り出す。 『お手紙読みました。……俊介君の、想像通りです。私は樋口の元妻で、彼の友人と二人で、駆け落ちして関西にいました』  否定してほしかった、というのが正直なところだった。五十里谷は頭を抱え、慎重に言葉を選ぶ。 「なんで、その……樋口先生に、会いに?」 『会って話したいことがあるんです。番号も住所も変わっていたから、個人的にアポを取ることができず……恥を忍んで、彼のご実家に連絡を取りました。そうしたら、勤務校だけ教えてもらえて』 「そう、やったんですね」  五十里谷は未婚なため元配偶者の両親と接触するのがどれだけ勇気のいることか想像しかできないが、彼女の立場を思えば、とてもじゃないが安易に実家に連絡はできない。それだけ、樋口に会って話したいことが大切なのだろう。 「ほな、俺……間取り持ちましょか?」  言ってから、後悔しかける自分を叱咤する。  京子がそうまでして伝えたい事柄を、知らんぷりすることはできない。そして樋口がどんな意味にせよ、京子を思っているのは理解している。だったら彼女には会うチャンスを、樋口には選ぶチャンスがあっても、いいはずだ。それを五十里谷が感情に任せて邪魔することなど、あってはならない。 「待ち合わせ場所と時間だけ決めてくれたら、先生に伝えることくらいは、できます。先生が行くかどうかは保証できませんけど……」 『……いいんですか?』  気遣わしげに声を潜めた京子は続ける。 『私と樋口のことを、俊介君は彼から聞いたと書いてありました。……私のしたことは、最低です。それでも、協力してくれるんですか?』 「し……たく、ないです、ホンマは」 『……そうですよね』  どうせ隠したところで意味はない。白状し、勇気が欲しくて縋るように樋口を思い出す。  自分を犠牲にできるアホのままでいろ、と彼は言った。だから、この選択もアホなガキの強がりも、間違ってはいないのだ。 「俺、樋口先生のことめっちゃ好きです。せやけど先生は京子さんのこと、絶対悪いように言わへんかったです。俺自身、京子さんと会って、話して、悪人やないって思いました。きっと部外者の俺にはわからへん何かが、二人の間にはあって……やったら二人で会って話せる機会、作ってもええんちゃうかって。すいません、何様やって感じなんですけど」 『ううん、いいんです。……ありがとう、俊介君。そんな風に言ってもらえる資格、私にはないのに……とても嬉しいです』  彼女が涙ぐんでいることを声色から察する。しかし京子はしゃくり上げることもなく、はっきりと五十里谷に願いを告げた。 『樋口が来るかどうかは、彼に委ねます。私は会うチャンスをもらえただけで十分です。どうかよろしくお願いします』  了承を返し、電話を切った五十里谷は迷いなく事情と日時を綴った手紙を書いた。それが、先ほど樋口へ渡したものだ。  彼女のいじらしい思いを前にして、樋口へ「ヨリ戻さんとってほしい」と我儘をぶつけることも、書きしたためることもできなかった。誰にも取られたくないから、願わくば会わないでほしいと思っているのも嘘じゃない。けれど会うことで、京子を吹っ切れてほしいと思っているズルい自分もいた。  全然かっこよく恋ができなくて、吐き出しかけた溜め息を慌てて飲みこむ。迷信とはいえ、幸せがひとつ逃げるのならば吐かないほうが吉だ。無理くり息を吸ってみると苦しくてむせてしまい、五十里谷は一人情けなさに苦笑した。  その日の夜は帰宅の早かったあかりと二人でキッチンに立ち、共に夕飯を作って食べていた。仕事はもちろん、家事の腕もいい彼女は、何をしても器用にこなす。いずれ大学寮に入る日を見越し、近頃は簡単な料理を教えてくれるようになった。 「ゴメン……ちょっと味薄い?」  あかりがチーズや大葉、叩いて味つけした梅干しなどを挟んだバリエーション豊かなササミカツを作る傍ら、肉じゃがの調理を担当した五十里谷はジャガイモを咀嚼しつつ眉を寄せる。しっかり柔らかく煮えてはいるが、あかりの肉じゃがより味がぼやけている気がして落胆してしまう。  けれど彼女は人参をひょいと口に入れ、首を横に振った。 「十分にできてるわよ。煮物は火を止めて冷める間に味が染みこむの。今日みたいに時間がない中で作ったなら、上出来だと思うわ」 「ホンマ? 明日になったらもっと美味い?」 「ええ。牛肉はしっかり味がついてるでしょう?」  言われるまま牛肉を食べると、確かにジャガイモより割り下の味がする。ホッとして頷き、あかりお手製のササミカツを頬張った。 「んまい」 「ねえ、俊」  もしゃもしゃと柔らかいカツを食べる五十里谷は、目線だけで「何?」と問い返す。  するとあかりは不思議そうな顔でじっと見つめ返してきた。 「今日は元気ないわね。勉強疲れかしら?」  そんな指摘をされるとは思っておらず、動かしていた口が一瞬止まる。  それを見逃さなかったあかりは箸を置いた。 「何か悩みがあるなら、あかりちゃんが聞くわよ? 大抵のことならアドバイスのできる年齢だから」 「……や、受験に関係ないことやし……」 「あらあら、だったらなおのこと。これでも学生のときは、色んな人の相談に乗ったのよ。頼りないのは弁解しないけど、応援は全力でしちゃうわ」  ニコニコと笑うあかりが友人知人に悩みを相談される姿なら、いくらでも想像つく。例え解決しなくとも、この笑顔と前向きな発言に気力をもらえた人も多かっただろう。  五十里谷も肩の力が抜け、口の中のササミがなくなってから箸を置く。受験の大事な時期に他所事なんてと、あかりが言わないことを一番知っているのは五十里谷だ。 「実はな……俺、好きな人おんねんけど」 「うんうん」  かすかに彼女の目が光ったが、気にしないように努めて続ける。 「その人と、元……恋人の仲、取り持つような真似してもてな? 今、多分、会って……仲直りしとるかもって思たら、落ち着かんくて」  さすがに元妻とは言えず、意味が変わらない程度に濁す。  あかりはキョトンと目を丸めた。 「そう……俊はどうして、間に入ってあげたの?」 「え。そりゃ、すれ違ったまんまやったら、ずっとつらいまんまやと思て……」 「でも仲直りしちゃったら、俊は片想いのままになっちゃうわよ?」 「うん、そうやねんけど、ホンマは……嫌やなあって、思たんやけど。モヤモヤしたまま、もし俺に振り向いてくれたって、なんや後悔する気いしたから」  ポツリポツリと語る五十里谷の耳に、柔らかい笑い声が聞こえてくる。いつの間にか俯いていた顔を上げると、テーブルへ肘をついたあかりが穏やかに微笑んでいた。 「青春ねえ……」 「ちょお、やめて……めっちゃ恥ずかしなってったやん……」 「あらどうして? うちの子はなんてカッコイイのかしらって、私は感動してるのに」  それがどうにも慰めに聞こえ、五十里谷は複雑な顔で唸る。  そんな心境を察しているのか、彼女は言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。 「嫉妬も悔しさもあると思う。でも、大切な人を思いやれる俊を、誰より大切に想ってくれる人は必ずいるわ。そのとき、あなたは仲を取り持った自分を誇れるはずなの。自分のために誰かの気持ちを踏みにじらなくてよかったって、思うはずよ」 「そんな、ええもんちゃうって……実際はちょっとだけ後悔しとるし、なんか、中途半端でかっこ悪いやん」 「思い違いよ。誰だってそう。好きな人に幸せになってほしいって、真っ直ぐで純粋な自己犠牲ができる人間なんてそういないの。下心もあるし、私って馬鹿ねって情けない思いだってある。あなたが感じてる気持ちは、普通なのよ。だ、か、ら」  ピシッと行儀悪く五十里谷を指差すあかりは、力強く迷いのない笑みを浮かべていた。 「ライバルに塩を送ってしまって、少し後悔してたっていいの。だけど、俊の優しさを後悔しないで。素敵な選択ができたわね」  心底嬉しそうなあかりを見ていると、彼女の言うことが正しく思えてくるから不思議だ。いや、正しいと思っていいのかもしれない。迷うし、後悔するし、情けない負け犬のような心境にもなるけれど、二人を会わせようと思った自分だけは認めてやってもいい。  そう思えば、さっきより肉じゃがが美味しく思えた。  あかりのアドバイスのおかげで悶々とした気分に捕らわれることなく、それはそれとして心の片隅に置いた五十里谷は遅くまで机に向かっていた。時刻は日付が変わったばかりで、いつもなら深夜ドラマなんかを見て起きているあかりも、今夜は五十里谷の恋バナでテンションが上がっていたらしく一本多くビールを飲み、ご機嫌で寝てしまっている。  カリカリとシャープペンが紙を滑る音だけが響く室内で、さすがに右手の疲労を感じて顔を上げる。そのまま頭を後ろへ倒してゆっくり左右へ傾けると、ボキ、ボキ、と聞いているだけで痛い音が鳴った。あまり癖になってはいけないと、拳で肩を叩いて誤魔化す。 「そろそろ寝とくかあ……」  音がないと独り言を呟いてしまうのは何故だろうか。  ボンヤリと淡いクリーム色の天井を眺めていると、そういえば樋口はよく白い服を着ていたなと思い出す。そもそも白衣のイメージが強いものの、中は基本的に白い服だった。肌も色白だから余計彼の儚さに拍車がかかり、口の悪さにガラガラと印象が壊れていくのだ。一粒で二度美味しい魔性の教師に違いない。  テキストもノートも閉じ、出しっぱなしだった文房具も筆箱の中へ放り入れた。早めに布団へ入って眠らないと、頭の中が樋口でいっぱいになってしまう。もうなっているじゃないか、と笑う己の声を無視して席を立った。  そのとき、ベッドの枕元に置いたままだった携帯がブルブルと震える。こんな時間に誰だろうかと確認した五十里谷は、メッセージ送信者の名を見て無意味に布団の上で正座した。 『お節介なガキめ』  短文を指先でなぞり、たった今五十里谷の頭をいっぱいにしていた樋口からの言葉を何度も読み返す。胸の中がざわついた。こうして連絡をくれたということは、訊ねる機会をもらえたと思っていいはずだ。  ――京子さんと会ったん。 『会った』  ――そうなん。 『訊きたいなら訊けよ』  ――ヨリ戻してまうん?  五十里谷が最も訊きたくて、返答によっては何より訊きたくない核心だ。送ってから数分、既読マークがついたままでアクションはない。心の中が取り繕いようのない後悔に塗れ、悔しさが込み上げる。  しかし次に表示されたメッセージは『出てこれるか』だった。それから『マンションの下にいるんだけど』と続き、跳ね転がるようにベッドを下りる。  寝巻代わりのスウェットのポケットに携帯を突っこみ、家の鍵を引っ掴んで上着を羽織った五十里谷はあかりを起こさないよう、忍び足で家を飛び出した。  エントランスからマンション前へ躍り出ると、すぐ右手にある駐車場の中でハザードランプを点滅させる車を見つける。一度だけ乗せてもらった、シルバーの乗用車だ。エンジン音に誘われるように近づくと運転席の影が動き、ランプが消えた。  助手席の扉を開けると、「返事くらいしろ」と真っ先にお叱りが飛んでくる。しかし五十里谷はいつものように「ゴメンて」と笑うこともできず、樋口を凝視していた。 「せんせ……?」 「んだよ。寒いから乗るならさっさと乗れ、アホ」 「あ、うんゴメン」  寒そうに身を縮める仕草に急き立てられ、助手席へ乗りこむ。そして様変わりした、彼の短い髪を唖然と見つめた。  結っている姿しか見たことはないが、肩につくくらいあった長さが、首裏に毛先が散る程度まで切り揃えられている。いつも見えていた耳が少し隠れるだけで、ガラリと雰囲気が変わっていた。 「髪の毛……切ったん」 「ああ」 「なんで? っていうか、なんでこんなとこに? なんかあったん?」 「なんでばっかだな、お前は」  疑問符だらけの五十里谷を軽い調子で笑い飛ばし、男はラジオのボリュームを絞る。たったそれだけで、鼓動音が体外に漏れ聞こえてしまいそうな気がして息を潜めた。  子どもみたいに「だって」と呟くと、樋口はシートに深く背を預ける。 「一応、悩んだ。こんな時間にガキ呼び出していいのかよとか、お前と密室ってヤバいんじゃねえの、とか」 「ちょっと傷ついた。襲たりせんやろって、せんせ言うてくれたのに……」 「ちげえよ。お前がちゃんと我慢するってわかってるから躊躇ったんだ。可哀想すぎんだろ」  自分を性的な目で見ている男と二人きりになって、心配するのが相手のことだとは。温かな気遣いで惚れ直すも、見せつけられた信頼を裏切れない五十里谷は今夜、手を差し出されたところで握ることすらできないだろう。  ズルいなあ、と苦笑していると、樋口は「でも」と前置いた。 「顔見て話すべきだって思ったから」 「……京子さんのこと?」 「ああ。長くなるけど……いいか」 「うん、聞かして」  頷く以外に、どんな反応ができるだろう。  彼らが元サヤに収まるのかどうか、まだ結論は聞いていない。懸命に祈りを捧げる五十里谷は、それでも目を逸らしたくなくて運転席の男を見つめ続けた。 「あいつが……言ってた。何もできないあなたが好きだったんだと思う、って」 「……意味わからん、のやけど」 「だよな。俺もそう思った」  カラカラと涼しげな横顔が笑う。意味はわからないが、傷ついた様子ではなく安堵する。 「最初っから、あいつの俺への『好き』は庇護欲だったんだろうな。なんでもできるようになってく俺の傍にいると、自分の存在価値がわかんなくなったってよ。そしたら、愛の行き場がなくなったんだと」 「ちょ、待ってえな、そんなん……身勝手やん……」 「俺もそう思うよ。けど思い返せば京子はすげえ世話焼きで……手がかかればかかるほど誰かを大事にしようとする愛情深い女だったから。言われて初めて、ああ俺はこいつのためだって必死になることに酔って、京子の自尊心ぶん殴ってたんだなって、やっと気づけた。要はお互い、思いやる方向がずれて行き違ってたんだ」 「……それで納得できるん?」 「不思議とな。親友が……友樹っていうんだけど。そいつが京子のこと好きなのは、知ってたんだ。グラついてる京子が頼るのは友樹だし、友樹はそんな京子を放っておける奴じゃねえ。駆け落ちするくらいなら一言くれよって思うのも確かだけど、なら仕方ねえかって、結構あっさり思えた」  無理はしていないか。取り繕ってはいないか。悲しんではいないか。彼の横顔に少しでも不穏なものが現れたら「もうええよ」と言ってやらなければならない。  けれど樋口は穏やかな笑みをほんの少しも崩さなくて、まるで一切揺らがない水面のようだった。 「友樹、事故で死んだって。お前もチラッと聞いたんだろ?」 「……うん」 「車同士の事故らしい。京子は助かったけど、あいつは駄目だったって。未だに心療内科通ってるって言ってた。事故後よりマシになって、やっとこっちに戻って来たんだと」 「そう、やったんや」 「友樹の墓参りに、行ってやってほしいって。俺に……どうしても、それを伝えたかったって。馬鹿だよなあ……」  掠れ声の悪態が震えたように聞こえ、一足先に五十里谷の目尻から涙がこぼれた。戦慄く唇を痛いほど噛んで耐える隣で、ポツリ、ポツリと吐露は続く。 「自分一人が負うべき罰なのに、友樹が全部引き受けて死んだんだって、あいつ笑ってた。友樹はそういう男だったんだよ。俺の我儘も、京子の頼みも、なんでも聞いて引き受けて、しかも卒なくこなしちまったりしてな。で、いつも言うんだ。憎らしいくらい得意げな顔で、『任せとけって言っただろ』って」 「うん……っ」 「だから言ってやったんだよ。任せとけって言われたぞって」  嗚咽を我慢できなくなりそうで、口元を強く手で押さえつけた。しゃくりあげ、引きつる肩を男の手が撫でる。 「したら京子、……やっと泣きだした。あんな風に感情剥き出しにして泣き喚く京子を見たのは、初めてだった」  ヨリを戻すだとか、戻さないだとか、そんな浅い思いで京子は樋口に会いにきたわけではなかった。どんな気持ちで樋口の親を頼り、五十里谷に頭を下げて、来るかどうかもわからない元夫を待ったのか。大切な人を喪った悲しみは未だ心の健康を蝕んでいるというのに、行動に移す勇気はいかほど必要だったろう。その思いに応え、樋口らしい屁理屈で救おうとした彼の胸は、どれほど痛かっただろう。  自分の恋心を守るために警戒し、嫉妬したことが酷く情けなかった。 「ご、めん、な」 「……今日は謝られてばっかだわ。京子にも、お前にも」 「ごめ、……俺が泣い、たら、せんせ泣かれん、よなあ……っ」 「ホントにな」  無様にしゃくり上げる五十里谷の背中を、おざなりに叩いた樋口は笑う。 「けど、もっと泣け。俺の代わりに。俺は悲しいだけの思い出にしたくねえから、悪いけど、お前が泣いてくれ」  そんなことを言われたら余計に涙が止まらない。しかしみっともなく号泣する横で彼が笑顔でいられるなら、瞼が腫れても水分不足になっても、ダサいと言われたって構わなかった。 「あいつとは、腹割って話ができた。そしたら、いつまでも京子のもん身につけてる自分が意味わかんねえって思ってな。別れてすぐ髪切っちまった」 「ん、うん」 「未練なんてねえって思ってても、あの髪留めつけてるってことは、俺の中で終わりきってなかったんだろうな。でも、もう必要ねえから。……どうよ、サッパリしたろ」  コクコクと頷き、とうにグッショリ濡れている袖でしつこく目元を拭う。 「俺の、っあげたやつ、使ってもらえん、かったけどな?」  しゃくり上げながら紡ぐ強がりを、男はふはっと吐息を漏らすように笑い飛ばす。それだけで五十里谷の口元にも笑みが浮かんだ。 「不謹慎で、ゴメンな」 「ん?」 「せんせが……京子さんとこ戻らんくて、よかったって、思とる、から」 「一丁前に嫉妬かよ」 「アカン?」 「別に」  撫でるというより叩くに近い乱雑さで、五十里谷の頭を男の手が滑る。それからぐっと抱き寄せられて、目を白黒させている内に樋口の首筋へ顔を埋めていた。 「せん、」 「ありがとな」  小さな声の感謝が鼓膜を震わせた。無意識に息を止める五十里谷は、抱き返しかけた手で拳を作る。ゆっくりとそれを開いて、怖がらせないように優しく男の背を撫でた。  不自然な間隔の呼吸を見ないフリするのも、優しさで合っているはずだ。 「お前に会えたから、あいつの話を冷静に聞けた」 「……うん」 「お前がいたから、……俺も終わらせられる。三年ぶりに前に進める。ありがとな」  ――言葉少なに別れ、部屋へ戻って暫くすると、樋口からは写真が送られてきた。 『これで文句ねえだろ、クソガキ』  そんな一言が添えられた写真には、五十里谷からのプレゼントで前髪をピョコンと結った想い人の額から上だけが写っていて、思わず声に出して笑ってしまった。 「ちょっとブレとるし……」  明日から暫く会えないことを思えば、既に名残惜しい。いくら水を飲んでも渇きが満たされないように、もう、彼に会いたくて仕方がなかった。  二月は一般入試日に向けて試験勉強も大詰めとなり、ほとんど家から出ることなく机に向かう日々だった。入試を終え、発表も終え、三月になるとすぐさま卒業式だ。  卒業証書を片手に、感傷に浸る暇もないな、と賑わう校庭を後にする。河野、鳩山、水川、そして横井とは今夜集まる約束をしているから、今抜けたところで問題ない。  向かうは北校舎の裏側、溜め池を臨める日の当たらない場所だ。昨年の四月、ずぶ濡れのまま人目につかないところを探して歩いたときより、ずっと晴れやかな気持ちで一歩一歩進む。目的の窓はカーテンが閉めきられ、中の様子が窺えなかった。  コツンと拳をガラスへぶつける。いるだろうか、気づくだろうか。そんな不安はなかった。いてくれるし、気づいてくれる、いや、待っていてくれる。彼とは一月末のあの日以来会っていないが、妙な自信があった。  思った通り数秒も経たずにカーテンが引かれ、むっつりと口を引き結んだ樋口が現れる。彼は鍵と窓を開け、「さみい」と二の腕をさすった。 「どっから来てんだ、アホめ。入れ」 「や、ここでええ」 「なんで」 「ここで会えたから、ここで別れるほうがええかなって。正直……手伸ばしても触れんくらいの距離やないと、抱きしめへん自信ないねん」  耐え性のないガキだと笑ってくれればいいのに、樋口は目を細めて微笑んだだけだった。慈愛の満ちた眼差しから、今すぐ逃げたくなる。伸ばして届かない手なら届く場所まで行けばいいのではないかと、意地汚い願望が喚くからだ。 「あー、合格したで、第一志望」 「だろうな」 「他のせんせから聞いとった?」 「いや。お前は落ちねえって思ってただけ」  ズルい男だ。今日は絶対に泣くまいと決めているのに、ことごとく涙腺が痛むようなことを言う。好きな人から信じてもらえることが、どれほど嬉しいか、プレゼン資料を作成して説いてみたくなった。  五十里谷は震えそうな唇を強く噛み、物理的な痛みで大きすぎる感傷をいなす。風で目元にかかった前髪を直すフリをして滲んだ涙を拭ったが、多分樋口にはバレていただろう。 「また、手紙書いてええ?」 「携帯があんだろうが」 「アカンって。返事きたら電話かけてまうやん」 「意味わかんねえ」 「声聞いたら、会いたいって思うん、止まらんやん」  大人になるまで、樋口の考えていたことがわかるようになるまで、樋口が五十里谷の恋をどうするか答えが出るまで。あやふやだが絶対に守らなければならない「その日」まで、五十里谷は樋口に会うわけにはいかない。自分で決めて、樋口に押しつけた期限を、自ら破る気はなかった。 「やから、手紙が精一杯っていうか」 「どんだけ俺が好きなんだ、アホめ」  わかりきったことを言う樋口は、まだ肌寒い風が堪えるのかクシャミをする。あまり長い時間、寒い思いをさせるわけにはいかなそうだ。 「あんな、せんせ。大人になったら、また会いたい」  男は何も言わず、鼻に当てていた腕を下ろす。わかりやすく優しい言葉はくれないけれど、相変わらず彼は五十里谷の話を、真面目に、真っ直ぐ受け止めてくれる男だった。 「俺はせんせを好きになって勝手に始めたけど、せんせが終わらせるかどうかは、また会えたときに教えてほしい。もちろん、もう会わんって選択肢もあるから」 「本音か?」 「ほ、んねやし。なんや言うても俺、男やし、やから無理強いは」 「アホが。……強がってんなよ」  ――ぶあ、と堪えていた涙が溢れ出た。  もしかしたら、今日が彼と会える最後の日になるかもしれない。だから五十里谷の大人びた姿だけ、かっこいい姿だけを置いていきたかったのに、彼はすぐこうやって邪魔をする。まるで心の中を透視できる能力でもあるのではないかと疑うほど的確に、たった一言で五十里谷の脆い虚勢を剥がしてまとめてどこかへ捨ててしまう。  本当に、なんて男を好きになったんだろう。  五十里谷は残る長い長い人生で、彼以外に恋をする自分が想像できなかった。 「せんせ、好き、やで……っ」 「しつけえ」  みっともなく袖で涙を拭いながらの告白を、男は薄い笑みで一蹴する。普段通りすぎて、余計に涙が止まらない。 「あんときっ、窓……開けてくれ、たん、せんせでよか、……った」 「ああ」 「ガキで、っゴメンな? 困らしてゴメン。でもな……好きになったことは、謝らん、からな」 「……ああ」  溜め息交じりに頷いた樋口が、窓へ一歩近づく。桟へ手をついたかと思うと、反対の手を五十里谷へ向けて伸ばしてきた。  触れたい。繋ぎたい。もう一度抱きしめたい。一瞬にして全身を巡る欲望は五十里谷の本音だが、正義ではなかった。一歩後ずさることで守ったのは、彼といつか交わるかもしれない未来だった。  今はまだ、切なげに寄せられた彼の眉を見れただけで、落胆し名残惜しげに引いていく指先を知れただけで、十分だ。 「あとな」  深々と頭を下げ、ゆっくりと上げる。樋口は唇を引き結び、力が入りすぎて顎に皺が寄っていた。  泣かんといて。俺が代わりに泣くから。せんせは笑っといて。悲しいだけの、思い出にならへんように。 「樋口先生、ありがとうございました」 「……敬語、使えんじゃねえか、馬鹿」 「馬鹿より、アホのんがええ」  にしし、と歯を見せて笑った五十里谷は、嫌がる足にムチを打って樋口へ背を向けた。  涙を拭いた。腕をしっかり動かして大股で踏み出した。絶対に振り向かなかった。進む道はまだわからないが、進みたい道はわかっていた。    息つく暇もなく入学式を後日に控えた夜、五十里谷は手紙を近所のポストへ投函した。 「読んでくれますように」  手を合わせ、赤いポストに向かって祈る。アホか、と言ってくれる誰かへ届くよう、何度も何度も祈った。  手紙の中には、これから大学寮で一人暮らしすることを書いた。最後に、また書きますね、と次回の約束をしたためて。
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