季節をこえたその先で

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季節をこえたその先で

『私はそのあと、あなたに一通も手紙が書けませんでした。書きたいことはいくらでもあるのに、紙を前にペンを握ると、溢れてくるものが多すぎて何も書けなくなるのです。  誤送信のフリをしてメッセージを送ろうかと血迷ったこともあります。眠れない夜、どれほど決意を違えてあなたに会いに行きたいと思ったことか、数えきれません。それでも、耐え忍びました。まだまだクソガキだな、と、あなたに鼻で笑われる想像が支えでした。  では何故、今になって手紙を寄越したのかと、あなたは不思議に思っていることでしょう。いや、もしかするともう、この差出人は誰だろうかと首を捻り、煙草の吸い殻と共に捨ててしまったかもしれません。とても不安で、ペンを持つ手が震えます。字があまり綺麗でないのは、そのせいです。  先生。私はこの一年、社会人として多くを学ぶことができました。ほんの少しだけ、あの頃のあなたの気持ちがわかるようになったのではないかと思います。だから、預けた私の気持ちに、答えをいただきたいと思うのです。  〇月〇〇日、あの公園で、二十二時。  私はもう子どもではありませんので、イブの夜のように、教師であるあなたの立場を逆手にとった卑怯な手は使いません。一時間だけ待ちます。二十三時になったら帰ります。風邪は引きません、心配しないでください。  ですから、あなたの気持ちひとつで、選んでほしい――――』  大学に通う四年間、勉強とバイトに明け暮れ、運よく新卒で希望の職場に採用された五十里谷は、身を粉にして働く日々を送っていた。さすがに一年目は学ぶことが多すぎて満足にプライベートの時間を作ることもままならなかったが、二年目となれば気持ちに余裕はできている。時間的余裕がそれほどないのは、致し方ない。  あかりの指南もあり、就職後も一人暮らしはお手の物だ。数駅ほどしか離れていないのに、実家へ帰る度あかりはたくさんの手料理をタッパーに詰めて持たせてくれる。頻繁に実家へ帰っている理由が彼女の喜ぶ顔見たさなのだから、五十里谷は少々マザコンなのかもしれない、とは旧友の弁だ。  そして四月も半ばを過ぎた土曜日、職場でもらった土産の銘菓を携えた五十里谷は実家にいた。夜は久々に高校時代の友人らと会うことになり、午前中からあかりの買い物に荷物持ちとして同行していたのだ。そんな彼女も今夜は数カ月前に付き合い始めた後輩社員とデートらしく、いつもよりフェミニンなワンピースに身を包んでいた。 「最近お仕事はどう? 二年目ともなれば慣れたかしら」 「慣れたっちゃあ慣れたんやろけど、正直てんてこまいやな……とりあえずゴリゴリに体力削られまくっとる」 「いやあね、おじさんみたいな溜め息つかないでちょうだい」  くたびれてテーブルにしなだれる五十里谷を笑うあかりは、銘菓の袋を開けてクッキーを美味しそうに食べている。完璧なメイクが崩れることを厭わない豪快さは心配になるが、彼氏はあかりのそういう飾らないところを大切にしてくれるそうだ。買い物中、散々聞かされた惚気で五十里谷の手は菓子に伸びない。  彼女に引き取られて七年目ともなれば、すっかりお互い遠慮がない。家族と呼べる関係に馴染んだおかげか、躍起になって父の残影を振り払おうとすることもなくなった。父は父、自分は自分。そう割り切ってからは、学生時代にあれほど悩んでいたことが嘘のように過去に心乱されることもなくなった。 「そいや、あかりさん何時に出るん?」 「美容院が終わったら電話くれるって言ってたから……後一時間ほどかしら。俊は?」 「そろそろやとは思うんやけどなあ。河野が休出しとるから、こっちも終わったら連絡するーやって」  本日の幹事であり言い出しっぺは、今頃定時で帰るべく奮闘しているだろう。鈍くささは社会人になっても変わっていないから、余計な仕事を増やしてパニックになっていないといいのだが。  しかし他愛ない親子の会話を交わしつつ連絡を待っていた五十里谷の元に届いたのは、河野からのドタキャンメッセージだった。なんでも「彼氏が熱出して寝こんでるらしい」だ。たまにしか会わない友人より恋人を優先する辺り、彼らしくて咎める気にもならない。  了解、共倒れに注意、とメッセージを返した五十里谷は幹事から、残りのメンバーと場所と時間の指定を受け、あかりを見送ってから街へ繰り出した。  駅前の行き慣れた居酒屋へ入ると、カウンター席で見覚えのある背中がビールを煽っている。ベリーショートの黒髪に気に入りのチョーカー、それから細身のカットソーはシンプルに見えて、彼の好きなハイブランド品だ。  近づいて隣に座ると、男は口元についた泡をおしぼりで拭いてから「遅い」と不満を垂れた。高校時代の幼さを潔く捨て、キリっとした体格のいい男へ育った横井は相変わらず文句が多い。 「一人で出来上がるとこだったろ」 「じゃあ我慢せえや……マスター、俺も生ひとつ」  カウンター越しに焼き鳥をひっくり返す店主は威勢のいい声で「あいよ」と笑う。バイトの女の子が持ってきてくれたおしぼりで手を拭きながら、右隣へ笑みを向けた。 「久しぶりやん。元気しとったん」 「当たり前だろ。っていうか河野だよ。幹事がドタキャンってどういうこと」 「まあまあ、あそこ何年経ってもラブラブやからなあ……」  受験前に告白してきた二つ年下の彼とやらは、本当に大学まで追いかけてきて丁寧に河野を口説き落としたそうだ。今は就職活動の始まった恋人をフォローしつつ、仲睦まじく愛を育んでいる。 「その内また会えるやろ」 「あんな顔して酒大好きだしな。ところで、鳩山と水川も来るって聞いてたんだけど?」 「鳩山は先週、足に一升瓶落とした怪我で無理、水川は店休めんかったって」  高校卒業後、鳩山は実家の酒屋を継いだ。まだまだ親父さんにしごかれてばかりで手伝いの域を出ないそうだが、誰よりも早く可愛らしい嫁をもらって秋には一児の父となる。  水川は美容系専門学校へ進み、今は隣町の人気美容院で日々腕を磨いているそうだ。練習台として髪を切ってくれるから、彼とは頻繁に会っている。 「ってことで、俺とお前の二人きり。オーケー?」 「まとまりなさすぎ……」  横井の呆れに同調し、運ばれてきたビールジョッキを掴んで乾杯を促す。無言の男とジョッキを軽くぶつけて一口飲めば、キツい炭酸と苦みが爽やかな喉ごしで空きっ腹へ落ちていった。 「……ッくぁー……」 「おっさん」 「うっさいわ。お前俺とタメやろが」  すかさず言えば、横井は思ったより酔っているのかケラケラと声を上げて笑う。  彼は卒業後、父親に言われるまま有名私立大学に入学したが、二年の頃に大喧嘩して自分の進みたい道へ進むことを決めた。父親は四つ上の兄同様、政治の世界へ横井を進ませたかったそうだが、真っ向から反抗して今や弁護士の卵だ。予備試験も司法試験もストレートで合格してみせたというのだから、想像もできない努力をしたのだろう。  現在は司法修習期間らしく、今後は卒業試験のようなものを受けて合格すれば晴れて弁護士を名乗れるそうだ。以前詳しく説明をしてくれたのだが、真面目な話をする横井の珍しさに気を取られ、細かなことまでは覚えていない。  数品頼んだ料理がカウンターに並ぶと、つまみながらの話も弾む。一通りの近況報告を済ませると、話題は色っぽい方向へ流れていった。 「この前言うとったやん。なんやええ感じの奴おるって。あれどないなったん」 「食った」  ガブリとネギマを頬張りながら言うから、一瞬思考が混乱する。しかし彼の「食う」が食べ物の話でないのは明らかだ。 「おま……不良弁護士やん……」 「なんでそうなるんだよ。真面目に口説いて、真面目に食ったんだから問題ないと思うけど」 「毎回真面目に口説きよるけど、すぐ別れるやん。なんなん。お前変な性癖でもあるん?」  男の白け切った視線が突き刺さる。横井は片方の口角だけを器用に上げて五十里谷を小馬鹿にしたかと思うと、明後日の方向をぼんやり見上げた。 「俺は何に対しても理想が高いだけ」 「例えばなんなん?」 「男前じゃなきゃ駄目だろ」 「顔? 性格?」 「中身に決まってる」  見た目は愛嬌がないと嫌だけどな、と訊いてもいない情報を付け足した横井は、何故か突然、不機嫌そうに五十里谷の肩を殴る。 「わりと五十里谷のせい」 「は? なんでやねん」 「俺の中で、お前にしたことと、お前に言われたことは、思春期に受けた衝撃の中で一番強く残ってるから」  いじめ、いじめられていた頃の懐かしい話だ。滅多にない話題が出たなと目を丸くしていると、男はほう、と溜め息を吐く。 「加害者をあんな簡単に許す五十里谷がさ、俺には最高にかっこよく見えたんだよ。だから、今でも俺の中の『かっこいい』の基準は、お前のままなわけ」 「うっそ、マジで。あざーす」 「マジでふざけんなよ。こんな能天気でアホで大らかでアホな男、そうそう見つからないんだよ」  ちゃっかり貶しながらも、褒められれば嬉しくて当然だ。五十里谷が締まりのない顔を晒していると、そこそこ痛い加減で頬をつねられてしまった。 「で? まだ片想いしてんの?」 「おう、当たり前やん」 「もう何年だよ……五年? 気の長い男だよな。しかも結構女々しい」 「女々しい言うなやー皆して」  五十里谷の片想い相手を知っている友人は皆、口を揃えて言う悪口だ。底に生暖かい声援が潜んでいるのを知っているから、それほど悪い気分ではない。 「でも一回も会ってないんだろ。卒業してから」 「まあな。中途半端に会って困らせんのも嫌やん」 「……じゃあ、いつ会うんだよ」 「来週会えるかもしれへん」  意外な答えだったのか、横井は軽く目を見張る。五十里谷はそっと小皿に置かれた焼き鳥盛り合わせのレバー串を見下ろし、代わりに子ども舌な男の皿へ鶏チーズ串を置いてやった。 「手紙書いてん、五年ぶりに。来てくれたら……会えると思う」 「来なかったら諦めんの?」 「そうやで。諦めるって向こうも知っとるし、俺も二言ないから」  長い、長い手紙を書いた。最後に手紙を出した夜同様、赤いポストに向かって手を合わせたのは昨夜だ。遅くとも明日の午前中には、樋口の家のポストへ届けられているだろう。五年分の、重い恋と共に。  ふうん、と気のない返事をして美味そうに鶏チーズ串を頬張る横井は、チラリと五十里谷を横目に見る。何か言いたげだが迷っているように思え、首を傾げて先を促した。 「なん?」 「……来てくれると思う?」 「そりゃ、そう思とかな泣きそうなるやん」 「重。……まあ、そんなお前に、一応教えといてやるけど」  横井は淡々と、父の秘書である兄が体調不良の際、仕方なく父の仕事に随行したのだと話す。その日、母校にも顔を出したらしい。 「たまたま会ってさ、樋口先生と話したよ」 「……元気しとった?」 「俺らが在校生だったときより元気なんじゃない? なんか溌剌としてたし」 「んまか」 「独身だって」 「え?」  知りたいが訊く勇気のなかった問いへのアンサーをケロっと告げられて、素っ頓狂な声が出る。横井は期待を隠せていない五十里谷をおかしそうに笑い、もう一度言った。 「だから、独身。ちなみに彼女もいないって。本人に訊いたから確かだよ」 「ほ、ホンマか、そっか……」 「あーあ、ホントは結婚してるって嘘ついてやろうと思ってたのに。そんな泣きそうな顔されたら、さすがの俺も言えないな」 「なんやそれ、聞き覚えあんねんけど」 「お前が俺に壁ドンして言い捨てた侮辱だよ。ありがたく受け取っといて」  これは横井なりの激励なのだろう。嘘でも彼が既婚者だと言われたら心臓が破けそうだから、横井が意外に素直な優しい男でよかったと思う。 「ありがとうな。ホンマは不安やったから、ちょっと元気出た」 「来るかどうかは知らないけど」 「最後まで励ませやお前……」  ニヤニヤと肩を震わせる横井は、ポケットの中から取り出した煙草を銜えて火を点ける。  樋口の吸っていた銘柄とは違うものの、揺らめく紫煙がゆっくりと溶けていく様が晴れたら、そこに彼がいてくれるような気がした。  店を二軒梯子し、横井と飲み明かした翌週、五十里谷は例の公園へ向かっていた。指定した時間は二十二時だから三十分前に家を出れば十分間に合うのだが、あまりに落ち着かなくて一時間もフライングする。とはいえ長い間公園のベンチに座っていて、通報でもされては困るため、さっきまでコンビニの雑誌コーナーで立ち読みをして暇を潰しつつ心を落ち着けていた。  右手には飲み物の入ったコンビニ袋を提げ、懐かしい神社の前を通り過ぎる。今も耳に残る祭り囃子に、横井を殴ろうと腕を振り上げたことがよみがえった。河野たちが見事なチームワークで暴力を止めてくれたことには、深く感謝している。  神社前から住宅街へと続く入り組んだ路地を進み、公園へ向かうのは三度目だ。帰りにどんな気持ちでここを歩くのかは、あまり想像しないようにしている。  公園につくと、すっかり夜も更けたせいで人気がなかった。煌々とベンチを照らす外灯は、さすがに電球が交換されている。それでもガタつきが変わらない古いベンチは、腰かけると壊れそうに軋む音がした。  携帯で何度も時間を確認したくなるのがわかっているから、電源を落としたままでコンビニ袋と共に傍らへ置いた。固い背もたれへ寄りかかり、別段綺麗でもなければ曇ってもいない、面白味のない夜空を見上げる。  樋口が来るかどうか、あまり深く考えていない。来てほしいと思う。来なくても仕方ない、とも思う。だが五十里谷の持つ気持ちや願いは、余すことなく全て伝えている。他にできることはない。あるとすればそれは、樋口がここに来てくれた後だ。  それから、いくらほどボンヤリしていただろうか。  ジャリ、ジャリ、と地面を踏みしめる足音が聞こえる。期待しないと言いながらも、少なからずあった望みが膨れ上がり、心臓が口から飛び出してしまいそうだった。それでも子どもみたいにはしゃぐまいと、耐え忍んで空を見上げ続ける。星がほとんど見えないから、視線を定める場所がなくて困った。  やってきた誰かが隣に座ると、空気の読めないベンチが大袈裟に鳴く。椅子のくせに情けない。自らの弱い涙腺を鼓舞するようにベンチをこき下ろす五十里谷は、既にツンと痛みかけている鼻をすすった。 「せんせ、今何時?」  問えば、衣擦れの音がした。腕時計を確認しているのだろう。 「二十二時ちょうどだな」 「マジか」 「おう」  懐かしい声だ、とは思わなかった。その声を、やる気のない話し方を、一秒だって忘れたことがないからだ。忘れていないのだから、過去になった瞬間もない。それでも直接鼓膜を震わせた彼の声に、嬉しくて何も言えなくなった。  久しぶり、の一言すら出てこない自分が情けない。  男も黙りこみ、そのまま暫く二人の間に沈黙が漂う。さすがに何か言わなければと五十里谷が焦り始めたとき、樋口が先陣を切った。 「就職したって書いてあったけど、何やってんだ」 「あ、うん。私立高校の教師やで」 「は?」  想像通りの驚き声がおかしくて、五十里谷はしてやったりな気分で笑う。 「せんせと、おんなじとこ行きたいって思たから」 「馬鹿じゃねえの……」 「でも性に合っとる。この仕事目指してよかったなあって毎日思とるで」  十も変わらない生徒たちはまるで異次元の生き物ではないかと感じてしまうこともあるが、歳が近いおかげでフランクに接してくれることも多く、いい距離感を築けているはずだ。もちろん舐められては教師としての職務がままならないから、メリハリを大切にしている。多感な子どもと日々接する内に、樋口を始めとする、全国の教諭には尊敬の念しか浮かばなかった。精神力も体力もカツカツまで使い果たす、パワフルな職業だ。 「似合わん?」 「いや。お前、ホントは賑やかだし、面倒見いいもんな。似合ってる」 「せやろ」 「調子乗んな。……って言いたいけど、すげえじゃん。おめでとう」  肩を叩かれ、少々痛い加減の激励に顔がニヤける。採用が決まったとき、すぐにでも報告して褒めてほしいとのた打ちまわりながらも、耐えたあの日の自分が報われた気がした。  ぎこちなく隣へ顔を向けると、五年前とそれほど変わらない男がいる。すっきりと短い黒髪も、印象的な目元もそのままだ。あの頃はシャープすぎた顎のラインについた肉が、彼は元気だと教えてくれる。膝丈のニットカーディガンは黒いが、中に着ているカットソーはやはり白かった。 「あー、と、なんか飲む?」  照れくさくて、コンビニ袋を差し出す。二本の缶が入った袋を受け取った樋口は、中を覗いて笑った。 「アホだな」 「よう言われる」  五十里谷はコンビニで、無糖珈琲とオレンジジュースを買った。今となっては無糖珈琲の美味さを知ったが、あの頃みたいに話せるようにと願をかけ、めっきり口にしなくなったオレンジジュースを手に取っていたのだ。  樋口の隣で懐かしい甘酸っぱさを味わうのも、またいい。そう思っていたが、彼が選んだのはオレンジジュースだった。珈琲だけになった袋を返され戸惑う。 「そっちでええん?」  五十里谷の心配を他所に、男は躊躇なく缶を開けて飲む。ふう、と吐く溜め息が、爽やかな柑橘類の香りを宿した。 「しぶしぶ飲み続けたんだ」 「え……」 「お前に飲ませるはずだったオレンジ。飲み切んのが、俺の務めだと思ったから」 「甘いのん嫌いやのに」 「ああ。でも、だんだんとこの甘酸っぱさがクセになってた。なくなったら、三箱ずつ買い足した。これ飲んでると、お前がいるみたいで……懐かしかったから」  五十里谷は自分が今、起きているのかどうか自信を失いそうだった。樋口の気持ちが嬉しくて、嬉しくて堪らなくて、夢でないことを確認するため珈琲を飲む。缶珈琲特有のあっさりした苦みが、今日は何故か心なしか甘い。 「俺、寝とんのかもしれん……」 「はあ? 起きろ」 「起きとる」 「どっちだよ」  鼻で笑った男が缶をあおり、空になったそれを傍のゴミ箱へ投げ入れる。うまくシュートを決め、足を投げ出してゆったりと座る横顔は清々しかった。 「男なんて、考えたことなかった。五年前、屋上でお前に告られたときは……ありえねえって思った」 「……うん」 「正直、そういう意味で好かれてるってことより、もうこんな風に過ごせなくなったってことのほうがショックだった」 「うん……」  膝に下ろした両手で缶を握りしめ、樋口の言葉に耳を傾ける。どんな内容でも、今夜は全て聞き届けるつもりだ。 「俺はそもそも、自分と色恋沙汰が繋がらねえんだよ。自分には関係ねえことだって思ってる。京子がいなくなったときから、ずっと」 「そら、ビビらしてもたよな。ゴメン」 「ホントにな。お前が思い出させたんだ」  ふ、と時が止まったような気がした。 「捨て身で、向こう見ずな告白で、傍迷惑に、傍若無人に、剛速球で俺に投げつけてきた。これが恋だぞ。受け止めろ、落とすな、ちゃんと見ろって。青々しくて……そんな綺麗なもん絶対落とさねえって、気づけば必死になってた」  缶を握る手に、男の指先が触れている。それは確かめるように五十里谷の甲を撫で、遠慮がちに手首を掴んだ。  泣くな。泣くな。今夜は泣くな。大人になったのだから、涙を堪えられるはずだ。  言い聞かせる五十里谷に気づかず、樋口は前を見据えている。 「それでもやっぱ、認めんのにきっちり五年かかったけどな」 「ほ、……ホンマに、悩んでくれたん」 「お前がいねえと寂しい、でも俺は男と付き合えんのか? ……行ったり来たりで五年だ。お前のせいで教員試験受けるときより頭使った」 「はは、ゴメン」 「でも手紙の差出人見た瞬間、迷いとかそういうの、吹っ飛んだ。会いてえって思った」  五十里谷は手首を掴む男の手に、反対の手を添える。彼のそれは特別小さくもないが、身体の大きな五十里谷は手も大きく、すっぽりと覆うことができた。樋口に手を引かれて歩いたあの夜とは、もう違う。 「俺の渡したもん、持ってくれとる?」 「あるよ。お前、邪魔にはならねえって言ったくせに、すげえ邪魔してくんの。おかげで五年間、どんな女に言い寄られてもお前の顔がチラつく始末だ」 「ようやった俺」  おどけて、缶珈琲を一気に飲み干した。樋口と同じようにゴミ箱へそれを投げ入れ、男の手を今度は両手で包む。子どもの五十里谷が捧げ、預けた想いを確かめるように、持ち上げて額へ当てた。樋口の片手は五十里谷の頬へ添えられて、体温を伝えてくれた。 「ひとまわりも上だぞ」 「知っとるよ」 「四捨五入したら四十だ」 「それも知っとる。けど四捨五入せんといて。俺二十歳に戻ってまうから」 「ケツの青いガキだもんな」 「やから、比喩やって書いたやん」  囁き声で言い合って、同時に吹き出していた。頬に添えられた手へ擦り寄れば、どうしようもない恋しさで喉が鳴る。大の男の甘える姿なんて気持ち悪いはずなのに、未だ防御力の低いらしい樋口は微笑ましげに目を細めただけだった。 「それでも好きか」  この期に及んで、それは無意味な質問に思えた。けれど、けじめにも思えた。だから五十里谷は誤魔化すことなく、茶化すことなく、五年前より健康そうな男の顔を見つめ返す。 「せんせのこと、まだ好きなん? って、何回も訊いてん、俺に」 「おう」 「めちゃくちゃ好きやって言われた。知っとったけどな」 「一途な奴だな……」  どちらともなく手を下ろし、指を絡めるようにして繋ぎ合った。指の股から弱々しく早い脈が伝わり、もっと深く、鮮明に彼を感じたくて気持ちが急く。 「もうアカン理由ないやんな」 「まあ、なくなったな」 「ほな、抱きしめてええ理由は」 「俺がここに来た」  繊細な見た目と不釣り合いなほど潔く言いのける樋口を、思いきり抱きしめた。すぐ背中へ腕がまわる。拒絶されないことを喜んでいた十八歳の五十里谷は、この瞬間の天にも昇る幸福感を知らない。  可哀想に。でもお前にはまだ早い。  優越感のまま心の中で笑い、微かにボディーソープの香りがする首筋へ甘える。 「せんせや」 「ったりめえだろ。誰だと思って抱きしめてんだ」 「せんせ」 「社会人になっても、その甘えた話し方は変わんねえな」 「せんせは変わったなあ。今日はなんや、ええ匂いする。風呂入ったばっかなん?」  髪からはシャンプーの香りが、服からは柔軟剤の香りだけ。すんすんと嗅がれるのがくすぐったいのか、樋口は肩を竦めた。 「まあな。つーか嗅ぐな。犬か」 「やって、今日全然煙草の匂いせえへんもん。変な感じ」  そういえばさっき頬に当てられた手からも、焦げ臭さは感じなかった。仄かに温かく、甘く匂い立つ白い肌に鼻先をすり寄せる五十里谷は、ボソリと呟かれて動きを止める。 「先週やめたから」 「え?」  ニコチン中毒のヘビースモーカーが、どんな心境の変化だろうか。 「何回言うてもやめようとせえへんかったのに……? まさか肺の病気なった、とか」 「違えわ。まあ、あれだ」  あれとは、なんだろうか。腰の辺りで手を組み、男の首筋に埋まったまま続きを待つ。 「どうにかして、百年生きてやろうと思って」  いい香りと体温で幸せにとろけそうだった五十里谷は、男の言葉を耳にした途端頭を跳ね起こした。  呼吸を忘れ、照れもしない樋口をただ見つめる。驚きすぎると人間は声も出ないのだと、改めて実感した瞬間だった。 「腹くくってんだ、こっちは。じゃなきゃ、時間ピッタリになんか来ねえ。……怖気づいたか?」  とてつもないスピードで爪先から込み上げてきた何かが、動かし方を忘れた唇を見限って、目頭へと集まってくる。あ、と思ったときには滲んだ雫が下瞼を越え、次から次へと頬を流れて落ちた。  今夜は泣かないだなんて、無謀な決心が脆く綻び、端から崩れては溶けていく。五年分の寂しさや、不安や、募るばかりだった愛しさ、全てが今、意味を持った。 「せんせ……っ」  クシャクシャに歪んだ顔を見て、樋口はカーディガンのポケットを叩く。次はジーンズの尻ポケットを。そうしてお手上げのポーズを作り、苦笑した。 「今日はティッシュねえわ」 「う、うー……ッ」 「はいはい」 自らの肩へと五十里谷の頭を促して抱きしめる男は、悔しいが、やはりひとまわり歳上の大人だった。 「やっと泣いたな」 「今日は泣かへんって……決めとった、のに」 「アホか。お前ははそれでいいんだよ。いくつになっても、嬉しいとき笑って、腹立ったときムスッとして、泣きたいとき泣くくらいで、ちょうどいい。俺はそんなお前が、昔から可愛いんだ」  五十里谷の止まらない涙で、樋口の肩はグッショリと濡れている。今日のシミュレーションは多彩なパターンで幾度となく繰り返したが、これは想定外の情けなさだ。だが、それでもいい。端から彼の男前度を、たった数年で追い越せるとも思っていない。  いつか、を叶えるために、傍にいる。 「……な、せんせ」  鼻声で呼びかけると、揺らいだ男の頭がコツンと五十里谷のこめかみへ触れた。甘ったるい仕草に胸の奥がギュンと痛む。高い熱に浮かされる真夜中のように、五十里谷は前後不覚でフラフラだ。  本当に発熱しているのでは、と疑うほど茹だる頭から、絞り出した誘いは稚拙だった。 「俺ん家、近いねん。……来ん?」  色気もない、捻りもない、それこそ学生のようなお窺いが面白かったのか、男は喉を鳴らして笑う。しかし五十里谷を馬鹿にすることも、渋ることもしなかった。 「仕方ねえな」  男らしく頷き、自分より大きくて頼りない背を強めに叩く。そしてあっさり立ち上がり、余裕しゃくしゃくに目を眇めて「このエロガキ」と五十里谷を興奮させた。  普段はよく動く口がめっきり声の出し方を忘れ、物静かでいられたのは自宅マンションの玄関が閉まるまでだった。単身者向け1DKの室内は綺麗好きな性格もあって片づいているが、いくらなんでも玄関はマズい。頭ではわかっているのに、押し潰すように壁へ縫いつけた樋口が呻く声すら、五年分の欲情を煽った。 「せんせ……せんせ、せんせや」 「おい、落ち着け……でけえし、重いし、苦しいんだよお前……っ」  壁と五十里谷の体躯に挟まれ、途切れ途切れに訴える声は小さい。女性よりは強いだろうが、相変わらず樋口の押し返す力はか弱かった。 「とりあえず、部屋ん中くらい入らせろ。俺は一晩中、盛ったお前と壁に挟まれてなきゃいけねえのか?」 「ちゃう、けど、なんや堪らん……っ五年も待ったん、しゃあないやん」 「アホか。五年も待たせたのはお前だろうが。待ったのは俺――」  小ぶりな頭を両手で鷲掴み、衝動的に唇を重ねていた。被せるように開けた唇で覆い、テクニックだの、情緒だのを考える余裕もなく舌を吸う。微かに残るオレンジの甘酸っぱさを全て舐めとるように口内を荒らす五十里谷は、息が詰まるほどの力で背中を叩かれて我に返った。 「っは、あ、何?」 「何、じゃねえわアホ……っ」  顔を背けてぜいぜいと呼吸する樋口は、濡れた唇を拳で拭う。そして呆然とする五十里谷の頭を軽く叩き、胸ぐらを掴んできた。 「こっちは初心者のおっさんだぞ、気い遣え」 「あ、ちょ、待っ」 「うるっせえ。お前に任せてたらここで抱き潰されそうだ」  否定できる要素がなく口ごもると、男は五十里谷を引っ掴んだまま靴を脱ぎ、我が物顔で部屋の中へ上がりこんだ。五十里谷も慌てて靴を脱ぎ捨て、まるで叱られた犬のように大人しく連れられる。 「せんせっ?」 「寝室は?」 「あ、奥の扉……」  引きずられるようにリビングを通り過ぎ、樋口が開けた寝室の扉内へ押しこまれる。たたらを踏んで体勢を整えると、扉が閉まって暗闇の中へ放り出された。  それでも、ごくりと生唾をのむ。  淡色のカーテンの向こうから、ぽわんと外灯の明かりが室内に滲んでいる。薄らと輪郭をなぞれる程度の暗がりで、樋口は無言でカーディガンを床へ落とした。 「さっきの勢いはどうした?」  まだ闇に目が慣れていないせいで、表情まではわからない。しかし五十里谷は、彼がニヤリと大人ぶった笑みを浮かべていることがわかった。 「せんせ、ええのん」 「馬鹿にしてんのか。ガキじゃあるまいし……嫌なら、ついてこねえ」  男らしくカットソーも脱ぎ捨てたシルエットが、数歩で距離を詰めてくる。シャンプーかボディソープか柔軟剤か、はたまた体臭か、甘い匂いが近づいて瞼の裏に火花が散った。  樋口は五十里谷の胸元に手を添え、ゆっくりと形を確かめるように肩から腕へと撫でていく。肘の内側をかいた爪先は手首へ、それから手のひらへと下り、掴んで自分の喉元へ誘った。指の背に喉仏の隆起が触れただけなのに、目覚めた雄の欲は下半身を昂らせていく。吸いつくような肌の感触が、頭をくらくらと酩酊させた。  触りたい。舌で味を確かめて、歯で感触を楽しんで、啜り食らって全て、自分のものに。 「どうしたい?」  心の中で暴れ狂う、浅ましい煩悩を見透かされたようなタイミングで問われ、掴まれた手がみっともなくビクンと震える。無意味に息が切れ、何かを言おうと開いた口を閉じた。告げるにはあまりに直情的で、想いを通わせたばかりの今に似合わない。 「せ……せんせに、触り、たい」 「もう触ってんじゃねえか。これで終わりか?」  するりと甲を撫で、指の股を割って五十里谷の手を覆った樋口は、からかうように喉から胸元へそれを誘導する。腹を空かせきって飢えた獣の前に丸裸で躍り出るような無防備さが、今はただ、恨めしい。 「アカンって。ホンマに……もう、俺」 「俺は、どうしたい? って訊いた」 「……ッ」  好きにしろ、と言われたような気がした途端、がんじがらめに縛って押さえつけていた理性は鎖を引き千切って咆哮した。むしゃぶりつくように男を抱きしめ、生身の肌を手のひら全体で撫でまわす。 「抱きたい……ッ、ホンマは、俺が下のが、ええかなとか思てたけどっ」 「ん……、はぁ」 「でも俺、こんなん無理や、やから……」  男の淡い溜め息に助長した五十里谷は指先で背筋を辿り、無理くりジーンズの中へ手を差し入れた。ボクサーパンツの内側へ指先を忍ばせ、キュッと閉じた谷間から窄まりを探る。腕の中で樋口が震えているが、構っているだけの余裕はもうない。 「今日は無理でも、いつか、ここに……え?」 「ふ……っふは」  軽く後孔に触れるだけのつもりだった中指の先端が、想像以上に容易くそこへ沈んでしまった。勘違いでなければ、濡れるはずのない内側が潤っている。混乱する五十里谷は第一関節まで埋めたまま固まるが、樋口はふるふると震え、ムードを無視して笑っていた。 「ふ……っふは、ははは……っ」 「な、なん!? なんで笑て……え? なんでここ、こんな濡れ、え、やらかい……?」 「舐めんじゃねえぞ、クソガキ」 「っ……」  首の裏に引っかけた腕で抱き寄せられ、薄い肩に顔を埋める。樋口は五十里谷の頬へ自分のそれをすり寄せ、聞いたことのない掠れ声で囁いた。 「腹くくってるってのは、そういうことだ」  ――ふつん、と何か大切なものが焼き切れた音がした。  欲しくて仕方がなかった男の身体を締めつけるように抱き、シングルベッドに飛びこむ。樋口に馬乗りになったまま乱雑な手つきで服を脱ぎ捨てた五十里谷は、腕を広げる恋人に圧しかかってむちゃくちゃなキスをした。  一通りの準備を済ませていた樋口の後孔は、それほど時間をかけることなく指を三本含む。これまで女性としか関係を持ったことのない樋口が一人で中を洗い、食んだ指を柔らかく締めつけることができるようになるまで慣らすのは、どれほど大変だっただろう。一から手ずから準備してやりたかった気持ちもあるが、それが五十里谷を受け入れるための決意と覚悟だと思えば愛しいばかりだった。 「せんせ、どない……?」  興奮して息が荒いせいで、渇く唇を舐めて問う。大きく脚を広げ、必死に呼吸を止めないよう努める樋口は慣れない行為で汗だくになっていた。 「どうもクソも、あるか……っ」 「痛い?」 「痛くは、ねえけど、っん、苦しい」 「俺指太いほうやから……でももうちょっとやで」  虚ろな男の目が、五十里谷の股間で今か今かと衝動を堪える屹立に向けられる。窮屈な下衣を脱ぎ捨てたとき「色は綺麗なのにサイズがグロい」と評されたそれは、触れてもいないのにカウパーを滲ませて張り詰めていた。 「……死ぬ気で時間かけろ、裂ける」  大きさを褒めているのだと思えば男として誇らしいが、繋がるために時間がかかる点は非常に切ない。これが五年前だったらまず我慢はできなかっただろうと、苦い思いが込み上げる。 「わかっとる……」 「ン、う……」  三本の指をゆっくりと中で広げると、唇を噛んだ樋口が壁際で丸まった掛布団を握ってまた呻く。せめて苦しい以外の感覚を与えてやりたくて、萎えて久しい彼の中心を反対の手で握った。柔らかくて手のひらにおさまるそれを、加減しつつ揉む。 「や、めろって、それ」 「ちょっとでも気持ちいいほうがええやん。中のええとこ、見つけたりたいけど……俺、そんなようさん経験ないし……うっ」  立てた樋口の膝が動き、背中をドンとかかとで打たれて息が詰まった。じんわりと強まっていく鈍痛を、溜め息で誤魔化す。 「なんなん……痛かった?」 「俺のケツに指突っこんでるときに、昔抱いた男思い出してんじゃねえぞ」 「ヤキモチなん」 「単純に腹立たし、いっ」 「ん?」  悪態を紡ぐ唇がキツく結ばれ、樋口は握って巻きこんだ布団を口元まで引き寄せる。同時に性器が少しばかり硬さを取り戻し、彼が感じていることを知らせた。 「どこがよかったん? ここ? こっち?」 「……ッふ、ぁ、うう……ん」 「あ、こっちやな? なんかちょっと膨らんでっとる……」 「うっ、うぁ、っふ」  扱きやすい硬さになった肉棒をクチクチと弄りまわしながら、孔の内側を曲げた指先で軽く突き上げる。ちょうど男性器の裏側にあたるそこは、心なしかしこりのような感触になっていた。 「ああ、やっぱここや……せんせ、気持ちええ? なあ、気持ちええ?」 「は……っは、ぁ、うる、せ」 「すごいで、先っちょ濡れてった。ほら聞こえる? エロい音鳴っとる。気持ちええんやろ?」  五十里谷の目に映る樋口は、例えぼーっと座っているだけでも色っぽいが、感じ始めた男の色香は壮絶だった。細く頼りない腰をくねらせ、声を殺す様も堪らない。  手の中で素直に硬度を増していく肉棒が、パクパクと小さな孔を収縮させて自身を濡らす様も可愛くて、夢中になって三本の指を抜き差しした。 「もうええ? なあ、もう挿れてええ? せんせ、俺我慢できん……っここ挿れさして」  興奮しきった呼気は荒々しく、樋口の喉が詰まったような喘ぎよりも大きい。何度も唾液を飲み下した五十里谷は身体をずらし、男のツルンとした先端へ吸いついた。 「んンッぁ、それやめろっ」  苦み走った先走りを飲み下し、血管をなぞるように裏筋を舌で舐め上げる。微かに残るソープの香りに青い雄の匂いが混じり、夢中になって亀頭を舐めしゃぶった。ガクンガクンと本能的に突き上げる腰の動きを押さえつけ、喉奥までそれを口に含む。  ぎゅうう、と狭まった後孔に抗って前立腺を捏ねれば、堪らなそうに媚肉が蠢いた。 「あっあ、待っ……ん、う」 「はぁ……っせんせ、好きや、好き、抱きたい、抱かしてッ……」 「わ、かったから、わかった……あっもういいから、来い」  忙しなくカリ下を舐めまわしていた五十里谷は、やけくそのような許可を得て飛び起きる。締めつけの強さで攣りそうになっていた指を引き抜けば、ぽっかりと口を開けた卑猥な様子が見てとれた。 「やらしい……」 「お前がしたんだろうが、ボケ……」 「うん、せやから、俺が塞ぐわな」  極々小さくだが、「変態くせえ」と呟く失礼な声が耳に届く。多少自覚のあった五十里谷は恥ずかしさで返事ができず、黙々とコンドームを自身へ被せた。 「い、痛かったら、言うてな?」 「そしたらやめんのかよ」 「やめる、……と思う、けどホンマは自信ないから……後ろ向ける? そのほうが楽やと思うねん」 「うるせえ、このまま来い」  相変わらず体力がない樋口は、気怠そうに布団を手離し、両手で自らの膝裏を抱える。面前に晒されたあまりに淫靡な光景に、五十里谷は鼻血が出ていないか思わず確かめてしまった。 「せんせ、あんま煽らんといてえな……!」 「ん、ぅぐ……ッ」  僅かな明かりで白く浮き上がる身体へ覆い被さり、よく解れた後孔へと雄の先端を合わせる。一番太い部分がメリメリと食いこめば、後はスムーズに突き入れることができた。 「あ、アカン、めっちゃ気持ちええ……っ」  男の頭の両側へ手をつき、根本まで埋めてから息を吐く。柔らかな肉が不規則にビクつく内側は、本気で天国のようだった。 「せんせ、大丈夫……?」 「ああ……思ったよりは、マシ。けど……ちょっと、動くのは」 「わかっとる、そんな無茶せんから……」  すぐにでも引き抜いて打ちつけ、貪りたいと喚く欲求の声を無視して上半身を起こす。少しでも樋口の体勢が楽になるようにと、脚を抱えた腕を外させ、腰が膝に乗るよう調整した。彼の頭が敷いている枕以外、手近なところに余分なクッションがないのが悔やまれる。 「せんせ、苦しない?」 「ん……もう、動いていい」 「もう? まだ待てるで」 「嘘つけ。さっきから……ん、中で、ビクビクして、うぜえんだよ」  見抜かれていることもさることながら、悪態をつきながらの悩ましげな溜め息は卑怯だ。  彼は自覚していないだろうが、「ん、ん」と短くささやかな喘ぎを漏らすのに合わせ、中がぎゅ、ぎゅ、と五十里谷を締めつけている。  学生時代よりは大人になったが、五十里谷はまだ二十三歳だ。爆発しそうなほどに有り余る性欲は、さすがに理性を蹴っ飛ばしてしまった。 「せん、せ」 「んぅっ」  両手で細い脚を抱えこみ、できうる限りゆっくりと腰を揺らす。けれどその気遣いも、それほど長くは続かない。肉棒が抜けるギリギリまで腰を引き、媚肉を割り広げるように押しつければ止まらなくなった。 「はっ、せんせ、気持ちい?」 「ん、んん、……っは、ぁ、うあ」 「こっちも触るな?」 「あッ……!」  律動の度に揺れる性器を引っ掴み、グチャグチャと手を上下させる。男は嫌々と首を振るが、呻き声は徐々に甘さを帯びていった。 「や、ん……やめ、やめろっ」 「なんで? 気持ちええほうがええ、やん」 「出そ、イっちま、……っから!」 「出してえよ、せんせが、イクとこ見たい」  自分の手で、自分の性器で、愛しい人を絶頂させたい。  男なら誰でも抱くであろう欲は五十里谷の中にも存在し、突かれることに慣れ始めた肉筒の内側にある弱点を探す。敏感な亀頭でふくらみを見つけ、ゴリゴリ擦れば五十里谷の下半身にも痺れるような快楽が駆け抜けた。 「ここ、やろ?」 「ふンン……ッあ、そこ、前はやめ、マジでイクからッ」 「やから、ええって、俺のチンポでイって」 「馬鹿言うなクソガキ……っ! こっちの、歳考えろっ、お前がイクまで、んッ……もたなくなんだろうが……!」  喘ぎ交じりに叱りつけ、樋口は必死で屹立から五十里谷の手を剥がす。加減する余裕もないのか、引っかかれた甲が僅かに痛んだ。それもすぐに、興奮であやふやになる。 「ほな……いっぱい、気持ちいとこするから、俺イクとき、一緒に……」  コクコクと頷く男へ圧しかかり、深く交わったまま身体を揺する。渇いた唇を重ねれば美味いものを食べているときのように唾液が溢れ、樋口の口まわりはベチャベチャに汚れてしまった。口内で混ざって溜まるそれを飲み下す樋口のいやらしさに、グンと性器が質量を増す。 「っひ、ぁ、なん、でけ……っ」 「アカンて、そういうの言うたら」 「すげ、……あ、いい、でけえの苦し……のに、いい……ッ」  粘膜をこすられる快感を上手に拾い始めた身体が、五十里谷の下で弓なりに反った。予想以上の反応と彼のあられもない言葉に煽られるまま、胸を突き出すように浮き上がった背を片腕で抱く。かつてチラリと見ただけだった控えめな大きさの乳首にむしゃぶりつけば、男がか細く息をのんだ。 「……ッん、ふ、何、ぅあ」  小さすぎて唇で挟めない突起を、尖らせた舌先で上下左右からなぶる。硬くなっていく感触が楽しくてしつこく愛撫していれば、たまたま歯がぶつかった瞬間、五十里谷を含んだ孔がキツく収縮した。 「……っ、これ、好きなん?」 「あ、あ、違え……っ」 「嘘つかんといてえよ……ちょっと強め、好きなんやろ?」  シーツをクシャクシャにかき乱していた手が、胸元から五十里谷を離そうと髪を混ぜる。けれど力がほとんど入っていない手の攻撃力などたかが知れており、五十里谷は調子に乗って小さな乳首を軽く歯で挟んだ。 「はぁ、あ、ん」  予想通り、粒を挟んだまま優しく歯を動かせば、再び内側が顕著な反応を示す。最奥が甘えるように屹立の先端へ吸いついてキスをするから、これ以上はもちそうになかった。 「あ、もうアカン、締めすぎやって……っ」 「いっ、いい、イケって、もう出せ……っそのまま、突けっ」  上擦った命令が、ビリビリと腰を痺れさせる。球体が坂道を転がり落ちるように、加速した欲情はもう止まらない。 「ん、イク、出る、ホンマ、出てまいそ……」 「ふ、ぅ……はっ、は、あ、……っあ!」 「せんせもイこ? 一緒に出したい、俺の手、汚して」 「あ、あぁっ、ンく……ッあ、んん」  高まっていく射精欲に逆らわず腰を打ちつけ、樋口の中心に指を絡めて扱く。そうすれば柔らかな肉は卑怯な動きで波打ち、手の中の鈴口から白く濁った先走りが溢れ出した。 「イ……ク、イク、出るっ、あ、俊介!」 「ん……ッ!」  興奮しきったところに不意打ちで名前を呼ばれ、行き場を求めて渦巻いていた精が尿道を駆け上がって飛び出していく。ぶる、ぶる、と腰を震わせながら樋口の裏筋を親指で擦れば、勢いなくその身を伝った白濁が薄っぺらい下腹へとろりと落ちた。  放逐の瞬間を二人して味わい、出しきるともう力が入らない。 「せんせ……」 「うっ」  重い身体に覆い被され、樋口は苦しげに呻く。それでも押しのけるだけの余力はないのか、もしくは受け入れているのか、脱力した腕は五十里谷の汗でぬるついた背中を抱いた。 「お前な……がっつきすぎ、だろ」 「そんなことないもん。めっちゃ頑張って抑えたもん……」 「かわい子ぶんな。許しちまうだろうが」  大柄な五十里谷のぶりっ子など決して可愛いものではないのに、男はそんなふうに甘やかす。これは次回も調子に乗ってしまいそうだ、と思いながら、五十里谷は肘をついて軽く身体を起こした。  近い場所で見つめ合うと、先に逸らしてしまう。三十代後半に差しかかっても麗しい容貌と色っぽい目元は、性懲りもなく劣情を抱かせる。さすがに、この雰囲気で足りないのだと我儘を言う気はない。  すると五十里谷の顔をじっと観察していた男が、小さな声で呟いた。 「どっこも可愛くねえのに、全部可愛いんだもんな……」  背中から移動してきた手が、五十里谷の顔を撫でる。学生時代より短くなった前髪の生え際を、切れ長の一重瞼を、鼻筋を、息を乱す唇を。指先から伝わる愛しさに泣かされそうだ。 「せんせ、あんま可愛いことしたら、また勃ってまう……」 「じゃあ抜け」 「嫌や、もうちょっと、中におらして。……幸せやから」  こうして触れ合える日を切望していた。彼に恋をしたあの頃も、離れていた間も、飽きることなく。 「せんせ、大好きやで」  ふうふうと息を整えていた樋口は、口角を横に引いてクシャリと笑う。鼻先同士をキスさせる仕草はニヤけるほどに甘ったるいのに、濡れた唇から吐き出される言葉は今日も悪態のオンパレードだ。 「しつけえっての。つーかお前、いつまで俺を教師扱いするつもりだ。残業代とんぞ」 「せやな。じゃあ雪夜」 「ふざけんな呼び捨てかクソガキ」 「ええやん、俺もう彼氏やもん」  細く、今は火照った首筋へ顔を埋めて溜め息を吐く。「どんな理屈だ」と笑ってくれる幸福に浸り続けたら、近い内に足腰が立たなくなりそうだ。 「愛してんで、雪夜さん」  これから幾度となく、五十里谷は彼に愛を囁く。ずっと、永遠に、いつまでも――そんな子どもじみた言い方は、しないけれど。  今日も明日も、明後日も好きだ。  毎日そうやって生きていけば、百年程度あっという間なのだろう。  五十里谷と樋口が二人で過ごす日々に、劇的な変化はない。かつて狭い社会科準備室で探り探り互いの柔らかい場所をなぞり、自然と並んで座るようになった頃と、それほど変わらず傍にいる。それでも緩やかに変わっていった部分も、少なからずあった。  気づけば五十里谷も四捨五入で十の位が変わる歳になり、樋口は目前まで迫った四十代の波に密かに怯えていた。春の終わりに出会ったあの日から、そろそろ八年が経つ。  二箱の段ボールに、たった今ガムテープで閉じたばかりの箱をどうにか積み上げる。普段から鍛えるようにはしているが、食器を詰めるとさすがに重い。五十里谷は曲げたまま作業していたせいで痛む腰を拳で叩き、ぐっと反らせて辺りを見まわした。  独立したキッチン内は、全ての荷物が今や箱の中だ。今朝から始めたにしては、上々のできではないだろうか。 「とりあえず台所終わり、と……雪夜さーん、そっちどないー?」  声を張り上げても、家主の返事はない。  五十里谷の母校であり樋口の勤務先である高校から、彼が転勤することになったことを期に引っ越しを決めた。もちろん、新居には五十里谷の荷物も運びこまれる予定だ。しかし片づけ下手な樋口の荷物は、明日には業者が来るというのにほぼ手つかずで、当初の想像通り五十里谷が手伝う羽目になっている。 「またサボッとんちゃうやろな……」  つい一時間ほど前も、テレビラックまわりの荷造り中に雑誌を読みふけっていたような男だ。歳を食って一層なまぐさに磨きがかかっているような気もするが、五十里谷は年上の恋人に手を焼かされることが趣味になっているからあまり問題はない。と、甘やかした結果がこのありさまだから少しせっつくべきかもしれない。  段ボールを避け、広げた荷物を踏まないよう気をつけながら寝室へ向かう。埃を逃がすために開け放した窓からは、カーテンを大きく膨らませる二月の風が吹きこみ、少し肌寒かった。 「雪夜さん?」 「んー?」  ベッドに背を預け、手元に視線を注いだまま男が生返事をする。予想通りの光景を「可愛い」と思う五十里谷は、中々彼をせっつくことができない。これから先も。 「やから、サボんなーて言うたやん……」 「サボってねえ。休憩してるだけ」 「はい屁理屈」  風でささやかに揺れる黒髪へ、指を絡めて匂いを嗅ぎたい。そんなくすぐったい衝動を慰めて、樋口の手元を覗きこむ。彼の膝横には底の広い紙袋があり、見慣れた色の紙が詰まっている。目を凝らせばそれは、学校でよく使用する再生紙のプリントだった。 「え? 何しとん、それ」  すると男は顔を上げ、近い場所にある五十里谷の顎へキスをしてから持っていた何かをチラつかせた。 「俊介の熱烈な告白とポエム出てきたから、読み返してた」  かさついた音を立て、手の動きに合わせて揺れるのは十数枚の便箋の束だ。それを五十里谷が最後に見たのは、封筒に入れて綴じる前――つまり、まだ彼に再会する前のこと。 「なっちょ、はあ!? 紙袋ん中のやつ、もしかして靴箱……」 「それそれ」 「嘘やろまだ持っとったん!?」 「ったりめえだろ。いつこれでお前を恥ずかしがらせてやろうかって、虎視眈々と大事に保管してんだよ」 「マジ、マジでやめような、そういうの!」 「おー? 顔赤えな、どうした? 風邪か?」  目尻に笑い皺を寄せ、ニヤニヤと意地の悪い顔をする樋口は紙束で五十里谷の頬を叩く。ひとまわり上だと忘れてしまいそうなほど、その目は少年じみた輝きを放っていた。 「も、ホンマ、捨てて!」 「い、や、だ、ね」 「ちょっと、頼むって……っ」  手を伸ばせば避けられ、躍起になって男の身体を抱き寄せる。樋口も取られまいと必死に手紙を遠ざけるから、もつれあった二人はドスンと床へ転がった。強かに肩を打つが、痛みより羞恥のほうが酷い。 「もうっ、雪夜さん! 子どもみたいなことせんとって!」 「お前が取ろうとすっからだろ。これは俺のもんだ、やんねえぞ」 「いや、いらんけど、っあ」  樋口は腕の長さで不利を悟ったのか、裾のよれたトレーナーの中へ手紙を突っこんだ。そのまま両腕で自分を抱きしめるように身体を丸めるから、五十里谷の頭の中からは本来の目的が霞んで消える。 「こしょばしたんねん」 「はあ!? っ、っ……ふは、おま、卑怯……っ」 「ほな服上げて?」 「嫌」 「じゃあ止めへん」  首筋、脇、腰、背中の中心。何度も抱き合って弱い場所を熟知している五十里谷の手が、ここぞとばかりに樋口の身体を這う。笑いを堪え、目を潤ませるほどくすぐったがりながらも、男は手紙を渡さない。強情な男だ。  だがふと目が合えば、互いの目的が合致した気がした。 「もう取らん」 「ん……」  どちらともなく顔を寄せ、少し荒い息を吐く唇を重ねる。肌寒さから身を守るように抱き合いながら、五十里谷は馬乗りになって彼の後頭部と床の間へ腕を差し入れた。 「はあ……もう、片づけ進まんなあ……」 「大丈夫だろ。夜には本気出す」 「絶対嘘やんそれ」  唇が触れたまま動くのが気持ちよくて、離れる気にならない。頭をクシャクシャと撫でまわされる心地よさに甘え、喉をぐるぐる鳴らして懐きたいくらいだ。 「……でも、動かんとな。明日、あかりさんも河野らも荷解き手伝いに来る言うてたし……適当な荷詰めしたら怒られそうやん……」 「おう、頑張れよ若者」 「雪夜さんもやんねんで。ちょっとは動いて」 「動いてやってんだろうが。お前のハメて」 「そういう発言やめて……俺、こんな忙しい日に盛りたない……」  ぐったりと男の胸元へ頬を置き、揺れるカーテンを眺めた。頭を撫でる手を捕まえ、指先を嗅ぐ。ここから焦げ臭い煙草の香りがしていた日を、今もしっかり覚えている。 「俊介?」  急に大人しくなった五十里谷を、不思議そうに呼ぶ。  もぞもぞと頭を動かし、目線で見上げた先に、愛しい人がいた。 「せんせ、大好き」 「今日の分?」 「そう。懐かしいやろ」  クスリと笑みを零した男は五十里谷の頭を両手で掴み、引き寄せながら「青くせえんだよ、ガキが」と囁いた。 『――ですから、あなたの気持ちひとつで、選んでほしい。  それから、私は後悔したくないので、あなたが来てくれた後のことも綴っておきます。  欲張りだと笑わないでくださいね。必死なんです。右手がそろそろ攣りそうですが最後まで書きますので、どうか最後まで読んでください。  あなたが私を許してくれたら、隣に居場所を作ってくれたなら、私はとても幸せ者になれます。ですから、今後はあなたを幸せにするために人生を使うつもりです。  まず、毎日大好きだと言います。鬱陶しいかもしれませんが、きっと慣れてくれるはずです。そしてそれを日々嬉しく感じてくれたら、私も嬉しいです。  喧嘩もするかと思いますが、なるべく自分から謝るように努めます。腹が立ってどうしようもなくなっても、勢いで「別れる」とは言わないでください。あなたを怒らせた分、たくさん抱きしめますから、それだけはどうか勘弁してください。胸が張り裂けて、色々と詰まっているものが飛び出したら掃除が大変ですので、どうか。  冗談が過ぎましたね。すみません。どうも私は無意識にふざけてしまう悪癖があります。生まれた土地の気質だと思いますので、許していただければ幸いです。  万が一にも倦怠期がきたら、その旨はこっそり教えてください。できる限りのことをして、あなたの気持ちを繋ぎ留める努力をします。ちなみに私にはきません。あなたのことが大好きなまま生きていきます。  ……あまりに長くなってしまいました。実は何度も失敗したので、便箋がこれで最後なのです。困りました。まだ、あなたを幸せにする方法リストがたくさんあるのですが、残り二行では書ききれそうにありません。仕方ないので、もう一言だけ。  先生。私は大人ですから、ずっとなんて言いません。  だからこの先百年だけ、私と生きてくれませんか――――草々』 END
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