ラビリンス 吹き過ぎた風

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ラビリンス 吹き過ぎた風

 見つめた妻の姿はガラスに描かれた薄い絵のように、その存在をクリアにしつつあった。それは廃墟に立つ教会の、(はかな)げなステンドグラスのようにも見えた。 3d9ca9ad-7a7b-4a96-a98e-65dcef238104  夢ではなかった。幻ではなかった。あれは、妻の死は、現実だったのだ。上腕から二の腕、肩から首筋、脇腹から背中、悪寒が上半身を這い回った。  ミシュア、ミシュア、約束が違う!  妻の二の腕をつかんだ。 「いなくなるのか? またいなくなるのか!? なあ、なあ、優子嘘だろ。嘘ですって、いつものように言ってくれよ」 「いますよ」妻は優しく私の手の甲を叩いた。 「もう、いないじゃないか!」指の間から乾いた砂が(こぼ)れ落ちるように、つかんだはずの腕は無残にも空を切る。 「います。いつもいます」 「もう、つかめない! 見えない! 行くな! 行っちゃダメだ!」 「ちょっとお別れが早かったけど」妻の涙声が聞こえた。 「復活が許されるのはイエスさまだけですよ。あ、そうだわ、手袋とマフラーは天袋のクリアボックスの中にあります。くれぐれも風邪をひかないでください。さ、行きましょう。黄色く色づいた銀杏を見に」 「行くな! な! 頼むから行くな! 俺をひとりにしないでくれ」 「大丈夫よあなた、わたしはどこにも行きません。あなたが呼べばわたしはいつでもそばに来ます。光よりも速く、あなたの元へ飛んできます。  今だからわかります。あなたとわたしは、ずっとずっと一緒でした。前世もそのまた前世も」 「行くな! ダメだ!」 「あなた、来年は孫も生まれますよ」 「そんなものいらない!」 「そんなこと言ったら絵里が悲しみますよ。さあ、行きましょうよ。まだ若かったあなたが、しどろもどろになりながらプロポーズをしてくれたあの場所に」 「ダメだダメだダメだ、行くな……優子。これからは何でもするから、行かないでくれ……」  私の指先にも、視線の先にも、もうなにも、存在しなかった。  ぼやけた視界が映し出すものは、涙の水面(みなも)に揺れる、妻のいない空虚な場所だった。 「ありがとう。そしてあなた、時々はふたりで過ごした時間を思い出してください。私はあなたを忘れません。あなたの今の涙も」  妻の、穏やかな声だけが耳朶(じだ)に残った。 『一部はきっと叶うでしょう』  ミシュアは言った。  そう、一部は叶った。私は妻にお詫びがしたかったのだ。一番先にお詫びがしたかったのだ。そして、いつまでも愛していると、伝えたかったのだ。  今となればそれが、すべてだったのかもしれない。  ひとり立つ駅前の広場を、ダウンジャケットの襟を殴るように一陣の風が吹き過ぎた。  そして、()いだ空間を、柔らかな風がためらいがちに吹いた。  それはあたかも、妻がその細い指で、乱れた私の髪を()いてくれたようにも思えた。  若かりしあのころのように。 0282e286-fe8c-4d1d-8297-ea59355c7dbc  ありがとう、優子。頬が唇が震えて上手くいかなかったけれど、私は空に向けて思い切り笑顔を作ってみた。そして、言いそびれた言葉たちを呟き続けた。  ─fin─
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