透過してゆく

1/1
前へ
/28ページ
次へ

透過してゆく

 商店街を抜けて駅に向かう。通勤で通るいつもの道も、普段とは違ってきらめいて見える。  妻は私のダウンジャケットの二の腕あたりをつかんだ。腕ではなくジャケットを。妻は昔からどこか奥ゆかしかった。私はポケットに突っ込んだ腕を少し広げた。妻は滑り込ませるように、その手を腕に回した。 「ふたりでお出かけなんて何年ぶりでしょうね。お天気にも恵まれたし、楽しみましょう」日差しを浴びるように、妻は天を仰いだ。澄み切った空には、やっぱりうろこ雲が浮かんでいる。 「あれ、うろこ雲だよね」  うーん? 妻が尻上がりに唸り、やおら人差し指を立てた腕を伸ばした。 3d664941-984a-444b-b306-fad73283d21a 「ちょっと大きいから、あれは羊雲ね」ほら、見て見て。指の先より大きいから羊雲です。吹く風は少し冷たかったが、日差しの中は暖かだった。 「嘘ですッ」妻の耳もとで言ってみた。  顔を引いた妻がすっぱいものでも食べたように顔をしかめた。 「使い方が違います」  うーん──そうかもしれない。年季には勝てない。 「羊雲よりうろこ雲の方が低いところにあるんですよ」 「そうなんだ」 「嘘です」 「あ、あのさ……正しく覚えたいんだけど」 「羊雲よりうろこ雲の方が高いところにあります。羊より魚の方が小さく見えるでしょ。だから遠くにあります。覚えましたか」 「はい」  今日から私は新しく生き直そうと心に決めていた。今日を最後と思って、日々を大事に生きようと。  目をやった妻の向こう側を、バギーを押す母子が追い越した。やがて娘もああなるのだろう。子供は頭を前に傾げ眠っているように見えた。何とも微笑ましい光景だ。  絵里がまだ小さい頃は三人でよく出かけたものだ。それも遠くではなく、近くの公園を巡ったり、夏場は区民プールに行ったりした。  絵里は当然のことながら遊具のある公園が大好きだった。妻と私は、芝生やシロツメクサに覆われた広場のある公園が好きだった。そこにビニールシートを敷いてお弁当を食べたり寝そべったりした。 80b904b9-01a4-4ad7-8381-365dfb82f618  耳元で風がふるわせるビニールシートの音を聞きながら、いっときウトウトとするのが大好きだった。妻や子といる時間が、一週間を忙しく過ごした私にとっての何よりの栄養剤だった。記憶としてはそんなに遠い昔のことではない。  え⁉  心臓がトクンと跳ねた。  今、見えた。確かに──見えた。  通り過ぎるバギーの母子の姿が、妻の向こう側を途切れることなく通り過ぎるのが。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加