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透過してゆく
商店街を抜けて駅に向かう。通勤で通るいつもの道も、普段とは違ってきらめいて見える。
妻は私のダウンジャケットの二の腕あたりをつかんだ。腕ではなくジャケットを。妻は昔からどこか奥ゆかしかった。私はポケットに突っ込んだ腕を少し広げた。妻は滑り込ませるように、その手を腕に回した。
「ふたりでお出かけなんて何年ぶりでしょうね。お天気にも恵まれたし、楽しみましょう」日差しを浴びるように、妻は天を仰いだ。澄み切った空には、やっぱりうろこ雲が浮かんでいる。
「あれ、うろこ雲だよね」
うーん? 妻が尻上がりに唸り、やおら人差し指を立てた腕を伸ばした。
「ちょっと大きいから、あれは羊雲ね」ほら、見て見て。指の先より大きいから羊雲です。吹く風は少し冷たかったが、日差しの中は暖かだった。
「嘘ですッ」妻の耳もとで言ってみた。
顔を引いた妻がすっぱいものでも食べたように顔をしかめた。
「使い方が違います」
うーん──そうかもしれない。年季には勝てない。
「羊雲よりうろこ雲の方が低いところにあるんですよ」
「そうなんだ」
「嘘です」
「あ、あのさ……正しく覚えたいんだけど」
「羊雲よりうろこ雲の方が高いところにあります。羊より魚の方が小さく見えるでしょ。だから遠くにあります。覚えましたか」
「はい」
今日から私は新しく生き直そうと心に決めていた。今日を最後と思って、日々を大事に生きようと。
目をやった妻の向こう側を、バギーを押す母子が追い越した。やがて娘もああなるのだろう。子供は頭を前に傾げ眠っているように見えた。何とも微笑ましい光景だ。
絵里がまだ小さい頃は三人でよく出かけたものだ。それも遠くではなく、近くの公園を巡ったり、夏場は区民プールに行ったりした。
絵里は当然のことながら遊具のある公園が大好きだった。妻と私は、芝生やシロツメクサに覆われた広場のある公園が好きだった。そこにビニールシートを敷いてお弁当を食べたり寝そべったりした。
耳元で風がふるわせるビニールシートの音を聞きながら、いっときウトウトとするのが大好きだった。妻や子といる時間が、一週間を忙しく過ごした私にとっての何よりの栄養剤だった。記憶としてはそんなに遠い昔のことではない。
え⁉
心臓がトクンと跳ねた。
今、見えた。確かに──見えた。
通り過ぎるバギーの母子の姿が、妻の向こう側を途切れることなく通り過ぎるのが。
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