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2・『その始まり・2』
時かける少女・2『その始まり・2』
そのとき、病室のドアにかすかな気配を感じた……。
ボンヤリとした意識の中で、痩せた人影が視界に入った。
病室の電球、それも遮光用の垂れ布がかけてあるので、ほんのりと影が分かるだけである。
目が慣れてくると、服装が郵便屋さんに似ているなあと思ったけど、服は、三国同盟締結の記念式で見たドイツの将校さんのように真っ黒だった。おまけに姿勢が悪い。これは、だらしないのではなく、加齢によるものだと、湊子の頭脳は判断した。湊子の頭は体が弱っても、好奇心や思考力は落ちていない。いや、逆に冴えている。
体操の座学で、聞いたことがある。人間は肉体的な危機に陥ると、ほかの臓器や筋肉の力を借りてでも頭脳は明晰であろうとする。きっとそうなんだ……わたしも長くはないな、と思った。
『そのとおりだよ』
影が言った。
『忙しい身なんでね、手短にやらせてもらうよ……どっこいしょ、ちょっとだけ息をつかせてもらうよ』
その人は、まるで椅子に腰掛けたように見えたが、なぜか椅子は見えなかった。帽子を脱ぐと、腰の手ぬぐいで、頭と顔をツルリと一撫でした。頭頂部が禿げかっているところをみると、予想に違わずお年寄りのようだ。水筒の水を一口含むと、のど仏が愛嬌良く二三度上下した、湊子は悪い人ではないように感じた。
その人は、丸眼鏡をかけると、手帳と葉書のようなものを出した。
『じゃ、始めようか。わたしは死神です……これが身分証明書。君は時任湊子(みなとこ)さんだね……』
『あ、みなこって読みます。父が女は港のような存在でなくっちゃならないって、それで、同意義の湊って字をつけてくれたんです』
『こりゃすまん。昭和三年四月四日生まれ、当年十七歳』
『十八です』
『わたしたちは、満年齢で数えるんでね。湊子……いい名前だね。かわいそうだけど、あと三時間で死にます。はい、これ死亡宣告書。じゃ、次の仕事があるんで』
死神は、そういうと立ち上がり、務めて無機質に回れ右をした。
『待ってください。三時間じゃ困るんです』
『きみね……』
『大切な人が、今日死ぬんです。わたしは、それをこの心で見届けなければ死ねません』
『隣の新島竹子君なら、もう逝ったよ』
『え……タケちゃん、新島さん!』
『……ということだから』
『違うの。新島さんも大切な友だちだけど、もっと違う人』
死神は、眼鏡を拭いてかけ直し、湊子の顔をじっと見つめた。
『山野健一海軍中尉だね』
『はい』
死神は葉書の束を出し、一通を取り出すと、確認して、こう言った。
『彼は……今日の十四時過ぎには死ぬ。今日はそっちへの宣告にも行かなきゃならないんだ。ま、人数が多いんで、死神三人がかりだけどね……いやあ、この歳で千人を超える宣告は身に応えるよ』
『山野さんは、やっぱり長門で、沖縄へ……』
『もう死ぬんだから教えておいてあげるけど、山野君が乗っているのは戦艦大和だよ。世界最大最強の帝国海軍の象徴だ』
『大和なんて、知らないわ』
『海軍の最高機密だからね。でも、その大和で死ねるんだ、良しとしてやろうじゃないか』
『お願いです。山野さんが亡くなるまでは生かしておいてください』
『気持ちは分かるけどね、それは出来ないよ。大和が浮沈艦でないように、人間の命にも限りがある。それが摂理というもんだ。おじさんたちは……もうジジイかな。ジジイは、それを伝えることだけが仕事なんだよ』
『こんなもの!』
湊子は、死亡宣告書をビリビリにやぶったが、すぐにそれは元に戻ってしまった。
死神は、悲しそうに微笑んで言った。
『それは、一度手渡すと、もとにはもどせないんだ……分かってくれよ、オレたちだって辛いんだ。とても天寿とは言えない若者や、幼い子たちに、これを渡すのは。三月の大空襲じゃ大変だった、あれで鬱病になった死神も多くてね、それで予備役招集で、二度目のお勤めさ』
『……大変なのね、死神さんも』
『そうだよ……』
死神は無意識に腰を下ろしてしまった。
『お願い、もう少しだけ、お話させて』
『……ま、いいか。次のは五人ほど、まとめてやっちまえば』
『ちょっと論理的な話しがしたいの』
『ほう、どんな?』
死神は、タバコに火を点けてくゆらせ始めた。煙は穏やかに立つが臭いはしなかった。
『わたしの命は、あと三時間』
『そう、かわいそうだけど』
『三時間の半分はいくら?』
『一時間半。九十分だね』
『正解、じゃ、その半分は』
『四十五分』
『じゃ、その半分は?』
『ええと……二十二分と……』
『ね、分かった?』
『え……』
『時間は、どこまでいっても半分にできるの。無限にね』
タバコの煙が少し揺れた。
『……そうだな』
『無限にあるものって、けして超えることはできないわ』
『え……』
湊子はたたみかけた。
『ということは、この三時間後はけしてやってこない。つまり、わたしは死ぬことはないの!』
『え……ちょっとまってくれよ』
『いいわよ、ゆっくり考えて無限を超えられることを論理的に説明してごらんなさいな』
『ちょっと待て、この世に無限なんて存在しない……』
『じゃ、円周率言ってみて。きちんと言えたらその宣告書を受け入れるわ』
『よおし、暗記物は得意なんだ。3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679……どうだ、百桁だ!』
『それだけ?』
『え……』
『最後まで言ってみて』
『おまえはπを答えろと言うのか。ありゃ、無理数で超越数だ……』
『つまり無限ということでしょ。無限は存在するの。ね、そして無限はは超えられない……そうじゃない!?』
『そ、それは……』
タバコの煙が派手に乱れた。
『無限は、超えられるの超えられないの?』
『超えられないよ』
『フフフ……』
『そ、そうだけど……あ!』
『ほうら、死神が認めた!』
そのとき、タバコの煙といっしょに病室も、いつの間にか壁を透かして見えるようになった横須賀の街もグニャグニャに歪み始め、死亡宣告書の日付や時間も狂った時計のように、その数字を変えていった。後に湊子は、この現象をバグということを知ることになるが、今はそれどころではない。目が回って吐き気がする。
『おまえは、死と時間の論理をすり替えたな。オレは知らんぞ、とんでもないことをしでかしたんだぞ!』
そう絶叫すると死神は時空の彼方に吹き飛ばされていった。
そうして、湊子は、時のさまよい人。時かける少女になってしまった……!
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