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口許に手を置こうとして、シエルはふと、己の掌を凝視した。
本来、ルースに伸ばす筈だったこの手を、自分たち兄妹はオーブに向けた。彼と契約を交わした今、最早自分たち兄妹に、護り手となる資格はない。いや、仮にオーブとの契約がなかったとしても、母がそれを望んだとしても、今の自分にはもう、ここに留まり続ける道など選べない。
けれど、それならルースは?
この地に独り残される、彼はどうなるのだろう?
「案ずるな」と、ルースは瞳を微笑ませた。「大地の再生が果たされた今、大いなる循環への干渉も必要ではなくなった。護り手が傍に居らずとも、この心が呑まれることはない。せいぜい、疲れを癒す為に百年ほど眠るくらいだ」
「……でも、ルース様は寂しくないですか?」
ルアが心配そうに首を捻った。自分が同じ立場だったらきっと寂しい、そんな素朴な疑問の発露に、シエルも少し躊躇いながらも頷いた。
「確かに、そうだよな。流星の村だってあんな状態で、人も居なくなったし……」
「でしたら、教団の者が常駐するようにいたしましょう!」とフルルが前に出た。「永く秘匿されてきたこの地ですが、それがルース様のお心を煩わせていたとなれば――!」
「いや、私は一言も寂しいとは言っていないし、精霊たちが居るから退屈もしないが……」
少々面喰ったように瞬いたルースは、しかしルアやシエルの顔を見て、遠い昔日を懐かしむような、仄かな微笑の気配を零した。
「だが、そうか。そう思うのなら、時折で良い、元気な姿を見せに来てくれ。父や母へ会いに来るついでにでも、な」
「……はい。必ず」
しっかりと頷いたシエルを見て、ルースは満足げに瞳を閉じた。
「さて――お前たちはこの後、“微睡みの森”へ向かうつもりであったな」
「はい。彼の地で何が起きているのか、それを知りたくて」
「あの森は広い。一日や二日で調べ尽くせるような場所ではないが、標はあるのか」
「それは――」
思わず視線を泳がせた。正直なところ、現状は地道な調査が唯一の道だ。トービアスの調査記録やレジーの情報もあるにはあるが、それも参考程度にしかならないだろう。
言い淀んだシエルに、大鷲は仕方のない奴だと言いたげに頭を振って――それから何か思案した様子で、暫し沈黙した。
「……そうだな。“奴”であれば、私よりも詳しいことを知っている筈だ」
再びルースが翼を広げると、シエルの眼前で無数の蔓が起き上がった。意志を得たように動き出したそれらは幾重にも絡み合い、手を繋いで、大きな緑の門を形成した。
突然のことに慄きながらも、薄ぼんやりと白い光を放つ門の向こう覗き込む。すると、そこに見えたのは深いライラック色の木々が立ち並ぶ異質な光景だった。
間違いなく、あれは深奥の地――微睡みの森だ。
「門を抜けたら、北に進め。その奥に、次なる標を与える者が居る筈だ。間もなく眠りにつく私には、この程度の助力しかできないのが口惜しいが――」
ルースの姿が透け始めた。時間切れのようだ。
大鷲は少し沈黙して、空色の瞳をまっすぐシエルたちへと向けた。
「シエル。それにルアと言ったな。お前たちが進む旅路には、その身命を賭さねば太刀打ちできない苦難が待ち受けているだろう。苦しみも、あるいは悲しみもあるだろう。だが、それでも往くと言うならば、その心に信念の杖を持て。人の歴史が生み出した宿命を乗り越えたその先で、どうか人としての生を全うして欲しい」
それがお前たちに託す使命であり、私の祈りだ。眩しいものを見るように目を細めて、ルースは微笑んだ。
「ルース様は、もしかして……」何か言いかけて、ルアは口を閉ざした。少女は何か問いかけようとしたその代わりに、力強く頷いた。「分かりました。私、頑張ってみます」
ね、と笑う少女に同意して、シエルもまた首肯して見せた。
「自分には、何が正しかったのか――他のやり方があったのかは、分かりません。それでも、俺が今ここに居るのは、ルース様やご先祖様たちの決断があったからです。だから、たとえ俺が護り手ではなくても、貴方やご先祖様たちがここまで継いだ想いは――祈りは、きっと届けて見せます」
それが、自分にできる精一杯だと思うから。
「……お前たちの歩む未来に、期待している」
最後に優しい言葉を残して、ルースの姿は光の粒子となって消えた。
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