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大陸歴四七一年 海鳴の節 二十三日
街道を往く馬車の旅は数日で終わり、そこから先は深い森の道が続く。
枝葉に天を覆われた静寂は日中だろうと仄暗く、とても道とは呼べない標なき道を、湿り気の強い土や苔むした倒木、伸び放題の植物群などの障害が阻む。旧街道の痕跡すらないこの道は大変に不便だが、この先に在る集落を秘匿するべく、敢えてこの状態を放置しているのだとか。
「ルア、大丈夫か?」
「ん、大丈夫。このくらいはへっちゃらだよ」
慣れたシエルには勝手知ったる故郷への道だが、今回は少々勝手が違う。なにしろ此度の帰郷は、ルアにオーベルに教団員数名、更には護衛の銀騎士団十数名まで含めた大所帯なのだ。人が増えれば荷も増えるし、荷が増えれば足行きは遅く、道行の苦労もより増える。途中で何度も休憩を挟み、普段以上の日数をかけて、目的地への旅路はゆっくりと続いた。
「今日中には着くとの話だったが、代わり映えのない景色が続くな」ぬかるみを避けるように歩きながら、祖父はうんざりした様子で呟いた。「目的地はあとどのくらいだ?」
祖父も今回が初めての同行だから、勝手が分からないのだろう。シエルは少し思案して、左手に見える大岩を指した。
「あの岩を過ぎて少し西に行くと正面に崖が見えるので、そこから北西に進めば聖樹の影響が強い地域に入りますから……もう少し、ですかね」
一見すると代わり映えのない森の中にも、知っていれば分かる標は随所に点在している。聖樹の眠る地へと向かう上ではその把握が必須であるのだが、当然ながらその辺りに詳しくない者たちからは「本当にこれで合っているのか」と言いたげな眼差しを向けられることになる。
当然今回も言うべきか、オーベルは何とも微妙な顔で頭を振った。
「全く、大層な護衛が居て助かった。この悪路で自衛にまで意識を割かねばならんと言われたら、年寄りには少々厳しいところだ」
あの祖父が少し疲れた様子で、弱気な言葉を口にするとは珍しい。シエルが思わず瞬きをすると、祖父の声が聞こえたのだろう、シエルたちの少し後方を歩く男――銀騎士団の長グレンが声を張った。
「お疲れであれば、少し休憩を挟みましょうか?」
「いや、良い。もう少しだと孫が言うのだから、どうにかなるだろう」
そこまで衰えてはいない、とオーベルは歩みを止めることなく後方へと視線を呉れた。「とはいえ、有事の力仕事は任せるつもりで来ているからな。頼むぞ」
「無論です。白竜兵団以上の働きをして見せますとも」
深紅の瞳を微笑ませたグレンに、オーベルは呆れ顔をした。「つまらん対抗心はどうでも良いが、長が不在で部下たちは大丈夫なのかね?」
本来ならばこの件は、ルース教団と縁深い白竜兵団が担う任務だったが、聖都の一件から続く混乱の対処で手一杯な彼らに、護衛へ回す人員の余裕はなかった。結果的にこうして銀騎士団へとお鉢が回ったが、三軍団と並び称されるが故に対抗意識の強い両者の間では、色々と攻防があったとかなかったとか――とは、交渉に同席したナタリアやアダンの弁だ。
そんな裏事情にこそ関心はなかったが、しかし各地の情勢不安には銀騎士団も動いている以上、決して余裕のある状況ではない筈だ。祖父の言う通り、そんな現状で長が不在なのは大丈夫だろうか――なんて思っていると、当のグレンは不敵な笑みを見せた。
「私は、彼らを信頼していますからね」なんとなく、誰かを彷彿とさせる笑顔だった。「それに、今回自ら出向いた理由は別ですよ。私情混じりであること自体は否定しませんが」
「……父のこと、ですか?」
思わずシエルが口を挟むと、グレンは首肯した。
「君のお父さんとは古い友人だった――というのは、リオンから聞いていると思う。だから僕も、どうにか墓参りくらいはできないものかと常々考えていたんだ。この辺りは教団の管轄地域だから、中々許可を得られなかったのだけれど」
だから、どうしても自分で来たかったんだ。そう答えた男の笑みは、様々な感情の入り混じったように複雑だった。
「……気持ちの問題は、重要だよな」
「ソレイユちゃんのこと、心配?」
独り言が聞こえたのか、すぐ後ろを歩くルアが右隣へやって来た。優しくむず痒い眼差しに、シエルは指で頬を掻いた。
「どうしてあいつが出てくるかな」
「だってシエルくん、そんな顔をしてたから」
どんな顔だと言うのだろうか。釈然としないシエルを励ますように、少女はにこりと笑顔を見せた。
当初の予定では、ソレイユも今回の帰郷に同行する筈だった。
「あたしだって当事者だよ、聖樹の護り手の一族だよ!」と、本人もそれはもう何を言っても聞かないくらいに強く主張していたし、それ自体はシエルも否定するつもりはなかったのだが、
「だけどお前、学校はどうするんだ?」
「うぐっ」
「ソレイユさん、まだ今節の課題も終わってませんでしたよね……?」
「うぐぐっ」
という訳で、最終的に同行の許可が下りなかった。学生の時間を大切にして欲しい気持ちはシエルも抱いていたのだが、妹を除け者にするような形になってしまったのは少々不本意だった。妹を想う兄心だけでなく、帰った後に起きる面倒が目に見えていたからだ。
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