二節 深奥に眠るもの 起

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 やがて歩みを再開したシエルたちは、鬱蒼とした道を更に西へと進んだ。大岩を通り過ぎ、切り立った崖を境に北西へと進路を変えて程なくすると、森の雰囲気にも変化が現れた。 「……道?」  草木の緑に埋め尽くされていた視界の先に、細く、しかしはっきりとした土の道が示し出された。木々は道に沿うように懐を広げて、その間隙からは誘うように鳥たちの囀りが聞こえてくる。 「この先に聖樹がある訳か」足を止めたオーベルは、面喰ったように呟いた。「話には聞いていたが、森の姿そのものが別物だな」  驚くのも無理はない。この先に生い茂る植物たちは皆、これまでの道程に生い茂っていたそれらよりも深い蒼にその身を染めて、一回り大きな体躯に強靭な生命力を全身に漲らせている。王国内の一般的な森林とは明らかに異なる雰囲気を持つこの場所は――かつてのシエルには当たり前の風景だったこの場所は、きっと誰の目にも普通ではないと映るのだろう。 「この辺り一帯は、聖樹の力が色濃く影響しているので、植物たちも外とは少し違う成長をするみたいです」 「深奥の地とまではいかずとも、それに近しい状態にあるということか?」  やや訝しむようなオーベルとは反対に、ルアは納得した様子で頷いた。 「さっきの斜面を超えた辺りから、漂う大地の力がとっても凄いもんね。いつもの調子で魔道を使ったら、加減間違えちゃうかも」  力の流れを察知する能力はシエル以上なだけあって、如実に変化を受け取っているのだろう。好奇心に目を輝かせながらも、思案する姿は慎重そのものだ。 「私には今一つ分からんのだが、そこまで違いがあるのかね?」  祖父は眉間に皺を寄せた。こればかりは実体のないものだけに、説明するのも簡単ではない。シエルは思案して、一つ言葉を紡いだ。 「さっきまでと比べて、少し体が軽く感じませんか?」 「……言われてみると、疲労感が和らいだ気がする。不思議な温かさを感じるおかげか、幾分か呼吸も楽だな」興味深いと祖父は頷いた。「魔道の素養がない私のような者でも、生命のエネルギーに満ちたこの場の影響は受ける訳か」  いつか倅の手紙にも、そんなことが書いてあったな。そんな言葉を零してぐるりと辺りを見回した祖父は、流石の観察眼と言うべきか、もう一つの大きな変化にも言及した。「それで、あちこちに見える光は何だろうか」  深い蒼に染まる森を、ぼんやりと照らす光があった。そこかしこの草陰に身を潜めて様子を窺う者もあれば、むしろシエルたちに興味津々で近寄って来る者たちも居た。ふわふわと浮遊する小さな光の球体たちは、いずれもまだ幼い精霊たちだ。  人間だ。たくさん居るよ。あの子もいるね。ルース様に用事かな? 「町で見る精霊とは、姿の違う子が多いね。まだ小さい子たちがこういう姿なんだっけ?」 「僕たち精霊が生まれるのは、この辺りみたいな力の集まる場所だからね」  シエルの肩に乗ったまま、精霊オーブが頷いた。 「それってつまり、オーブくんも?」 「そうだよ。だから二人と出逢えたんだもの」  ここまで来れば、目的地はすぐそこだ。気持ち足早に歩を進めれば、やがて木々の天蓋が開けた、夕陽の差し込む場所へと辿り着いた。 「……着いたよ。ここが俺たちきょうだいの生まれ故郷、流星の村だ」  今はもう、集落と呼べるような場所じゃないけどな。深く蒼い森の奥深くに広がるその場所は、星々のように瞬く精霊の光に照らされた美しい――けれど一目で分かる程に荒れ果てた、小さな集落跡だ。  入口からは集落跡の全体を見渡せるが、目視できる家屋は小ぢんまりとした小屋が二軒ぽっちで、他に見えるのもかつて広場だった場所の痕跡や、更に奥地へと続く道に、雑草に埋もれた幾つもの焼け跡くらいだ。  平穏だったこの地にあの男――ゲオルグが現れたのは、七年前のとある夜。男はシエルたちの両親を殺害し、集落の全てを焼き払った。  訳も分からないまま全てを奪われたシエルの記憶は、恐怖と混乱に塗り潰されて判然としない。逃げなさいという両親の叫び。背中で響いた誰かの悲鳴。何かが焼け落ちる音と、焦げた臭い。赤く焼き付いた闇の中で、必死に嗚咽を堪える絶望。弟妹を護らねばという兄の使命感が、辛うじて正気を支える杖だったこと。思い出せるのは、それが全てだ。  その後についても酷く曖昧で、白竜兵団のブリジットたちに保護されて、たまたま近郊まで来ていたジョルジュに引き取られて、オリヴェ亭でムートとヴィレに出逢って、霧の湖で塔を見た――と、一つ一つの出来事こそ覚えているものの、間にどんな過程があったかは、まるで思い出せない。覚える余裕などなかった、が正しいのかもしれない。 「シエルくんは、この場所で生まれ育ったんだね」  ぼうっと景色を眺めていたルアが、ぽつりと呟いた。何か気になることでもあるのかと声をかけると、少女はシエルの方を見て、「なんて言えばいいのかな」と寂し気な笑顔を作った。 「シエルくんたちにとって、ここは思い出の詰まった大切な場所なんだなあ、って。そう思ったら……なんだか、胸が詰まって」  シエルはぽかんとした。彼女の優しさは知っていたけれど、まさかそんな反応が返って来るとは思っていなかった。込み上げる嬉しさと寂しさに、シエルは笑った。 「……ほんの少しの人たちが暮らすだけの小さな集落だったけど、良い場所だったんだ。君にも、見せたかったな」
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