二節幕間 零れ落ちる

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二節幕間 零れ落ちる

 久方ぶりに故郷で過ごす夜は、何だか妙に落ち着かなかった。元よりゆっくり過ごせるような環境ではないにしても、此度の帰郷は理由が理由であったし、唐突に打ち明けられた祖父の不調もあった。どこか浮足立つような、もどかしいような、そんな感覚に苛まれて寝付けなかったシエルは、オーブや祖父を起こさないようそっと小屋を抜け出した。  見回りの兵士たちに軽く会釈して、夜の集落跡を一人歩く。森の奥深くに佇む流星の村は好き好きに舞う精霊たちの光で夜でも仄明るく、空を仰げば満点の煌めきが目を洗ってくれる。日常から離れた幻想的な光景は、この地が星降る村と呼ばれたのも納得の美しさだ。 「……あの頃は、これが当たり前の景色だったのにな」  他人事のような己の思考に、シエルは失笑した。この場所はもう、自分にとっての当たり前ではない。分かっていた筈なのに、改めてそれを実感したシエルは、心に大きな穴が空いた気がした。  いや、もしかするとそれは、ずっと空いていた穴だったのかもしれない。故郷を離れたあの日から、故郷の景色を眺める余裕など持てる筈もなく、喪ったものを数えては苦しんだ。泣き叫びそうな感情を整理することに精一杯だった。シエルが直視できなかっただけで、その頃から穴はあったのだ。  だとすれば、どうして今はこうして外を歩けているのだろう。穴が塞がったわけではない。今だって、視界の端々に映る昔日の面影を直視できずに居る。それでも気晴らしをしようと思える程度の余裕があるのは―― 「……ルア?」  シエルは思わず足を止めた。人気のない広場跡に一人、少女が腰かけている姿が見えた。 「あ、シエルくん」  こちらを振り返った少女はぽかんと目を丸くして、不思議そうに首を捻った。小さく手を振ったシエルが傍まで歩み寄ると、少女は腕に抱えたスケッチブックを一瞥して、少々照れ臭そうに微笑んだ。 「悪い、邪魔したか」 「ううん」ルアはゆっくり頭を振った。「なんだか眠れなくて、せっかくだしスケッチでもしようかなって思って。暗くて全然描けなかったけどね」  微笑む少女の横顔を、薄明りがぼんやりと照らす。蒼い瞳の深さに魅入ったシエルは、ハッと我に返って苦笑した。いやいや、何を呆けているんだ、俺は。 「確かに、手許は見辛いかもな」  少女の傍に腰かけて、シエルは暫し静謐に身を預けた。ささやかな木々の声に、精霊たちの囁き。わずかに触れた指先から伝わる温もり。  あやふやに揺れる心を映すように、ふわりふわりと光が舞う。消えることのない胸の痛みも、やるせないない寂寥感も、今なら少しだけ受け止められるように思えてしまうのは、ルアが居てくれる安心故か、あるいは呼び起こされた郷愁が勝るからか。 「訊いても良いかな」 「ん」 「この村で、シエルくんがどんな風に暮らしてたのか。シエルくんの昔のこと」  少女はどこか遠慮しがちに視線を泳がせたが、シエルの中に躊躇う気持ちはなかった。むしろ自分でも意外に思ってしまうくらい、話したい、聞いて欲しいと思いが募って、シエルはやおら頷いた。 「……幼い頃は、ここが俺の全てだったんだ。それこそ色んな思い出があるよ」  シエルは思いつくままに言葉を紡いだ。当時はエトワール家の他にも少数ながら人々が暮らしていて、穏やかな交流があったこと。時折外からの商人が――今思えば彼らも教団の人間だったのだろうが――やってきて、その品物を見るのが楽しみだった。  幼いシエルは体が弱く、外に出ても大木の傍で本を読むことばかりだったが、一方でソレイユはいつも元気にあちこち駆け回っていたこと。たまに帰りが遅い時にはわざわざ探しに行くこともあったが、いつも兄妹どちらかの傍に居たオーブは、そんな様子も面白がっていた。  父は仕事で不在の日も多かったが、帰ってきたときはいつも色んな話を聞かせてくれたこと。書斎の本は当時のシエルにはまだ難しい内容だったが、いつか読ませてくれると約束してくれた。  母はのんびりとした人で、どこか世間知らずな面もあったが、魔道や星々の知識に明るかったこと。シエルが人より魔道に長けているのも、その教えがあってこそだった。 「ちょうどあの小高い辺りに、俺たちの家があってさ。窓からは星空がよく見えたんだ」  話せば話す程に思い出が蘇って、自然と話が弾む。自分の知るあの人たちのことを、もうここには居ない大切な家族の話を聞いて貰えるのが嬉しかった。  思えば、こうして誰かに故郷の話をすること自体が、初めてと言っても過言ではなかった。同じ痛みを背負う妹の存在や、何も訊かずに寄り添ってくれる人たちは居たけれど、あの日から今日に至るまで、思い出も苦しみも丸ごと箱に押し込めて、触れることを避けてきた。自分を保つにはそれが一番だったし、だからこそ痛みを堪え続けて来れた。それで良いんだと思っていた。  そんな理屈と言い訳で固めた封を、一度に解いたせいだろうか。 「……、おかしいな。なんで、今更……俺は」  突然に込み上げた目頭の熱に戸惑って、シエルは言葉を詰まらせた。温かな思い出話の筈なのに、どうして自分は泣きそうなんだ。あの時だって、その後だって、たった一滴を除けばずっと涙は堪えてきた。堪えることができたじゃないか。七年もの歳月を重ねれば、もう涙なんて乾いて良い頃じゃないか。それがどうして、なんで今になって、こんなに。  溢れ出す感情を抑え込もうとして、抑えきれなくて。情けなく呻いたシエルの頭を、小さな手のひらがそっと撫でた。 「きっと、泣きたい時は泣いて良いんだよ」  柔らかい微笑みに、遠い面影が重なった。幼い頃、シエルの頭を撫でてくれた、両親の手のひら。優しい笑顔。大好きだった人たちとの、取り戻せない穏やかな時間。  ――シエル、ソレイユ。今日は釣りに行こう。沢山釣って夜はご馳走にするぞ。  ――うんうん、飲み込みが早いわシエル。その調子なら、もう暖炉に火をつけるくらいは簡単かしらね。  ――おやシエル、眠れないのか。それならほら、こっちにおいで。面白い話をしてあげよう。  ――母さんの母さんや、そのご先祖様たちはね。あの星海で微睡みながら、あなたたちを見守っているの。本当よ?  ――だから大丈夫。いつか、あなたやソレイユ、それにオーブがそれぞれの道を進んだとしても。  ――父さんも、母さんも、ずっとお前たちを見守っているよ。  じんわりと滲んだ視界に、最早自分の感情が制御不能であると悟ったシエルは、崩れ落ちるまま少女の手に縋りついて、すすり泣いた。 「……う、うう、っう……」  夜の森と、舞う精霊たちは、いつまでも涸れないシエルの涙を、ただ静かに見守っていた。
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