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いち・衝撃の邂逅
三島彼方は自分がモテることを、実感として正しく認識している。中学時代、それはもう高笑いしそうなほどにモテたからだ。
童顔寄りだが目鼻立ちのくっきりした整った容姿に、常に学年五番以内をキープする頭脳、スポーツ全般をこなす運動神経、出してきた結果に由来する自信。それらを混ぜ合わせ、うまい具合に人を造ると彼方が出来上がる。高スペック故に彼女が途切れたことはなく、実際に高笑いをしたことも何度か。
つまり彼方は傲慢で、調子という波に乗りまくるサーファーだった。
そんな激モテハーレムも、遠方の進学校へ入学したことを期に卒業して早二年目。今では分厚い猫を数匹被り、「かっこよくて優しくて気さくな皆の王子」というイメージが定着している。めっきり彼女はできなくなったが特に問題はなく、友人らと過ごす代わり映えしない日々にも満足していた。
それもこれも面倒を回避し、快適な生活を送るべくして編み出した自衛策だ。断じて男に「そういう」意味で好かれようとしたわけじゃない。
――五月中旬の爽やかな晴れ空が、徐々に赤らみ始めた放課後のことだ。
階段の踊り場には、こんなときに限って誰も通りすがってくれない。必死に逃走のタイミングを窺う彼方は「三秒だけ時間止まれ」と、心の中で祈った。
「三島が好きなんだ。付き合ってほしい」
告白時のフレーズで堂々の使用率第一位に輝くそれを吐いた男は、凶悪な目つきでこちらを睨んでいた。潔さは百点、捻りは皆無、そして恐ろしさは天井をぶち抜いている。
彼は二年に進級し同じクラスになったヤンキーで、名を七種千尋といった。
左側に流された長い前髪程度では、もはや世の全てに怒っているのではと思うほど寄った眉間の皺が隠せていない。比例して目つきは蛙を睨む蛇そのもので、眼光の鋭さだけで先端恐怖症になりそうだ。毛先に近づくほど明るい金髪は、右サイドだけピアスが所狭しと刺さっている耳にかけられている。指にはめられている厳つい指輪は、さぞかし局地的な場面で大活躍するだろう。
この状況がカツアゲならば対処のしようもあるが、告白はいただけない。不純異性交遊の経験は人より多いだろうが、男は試したこともなければ今後試す予定もないからだ。
第一、彼と気が合うとは到底思えない。
虫も怪談も課題の山も、強面教師やヒステリックな女子生徒だって怖くないが、怒り狂った母と喧嘩腰のヤンキーは怖い。そういった面で、彼方は平凡な男子高校生だった。
「ええと……ありがとう、七種君」
もちろん、ふざけて誤魔化す度胸もなければ、首を縦か横に振る勇気もない。斜めだなんて論外だ。ならばどうするのか、考えるまでもない。
まさか、男相手にこれを言う日がくるとは。
「考えさせてもらってもいいかな……?」
舌の根元にまで競り上がった「無理」は、かろうじて唾液と共に飲みこんだ。
***
千尋とはクラスメイト以上の接点はなく、性別の壁をひょいと超えて惚れられる理由にも当然心当たりはない。
何せ初めてまともに言葉を交わしたのは、告白からちょうど一週間遡った金曜の夜だ。その日、彼方は急いでバイト先へ向かう途中だった。
人間関係にも恵まれ時給もそこそこ、大盛り、かつ美味な賄いつき。物欲の果てを知らない高校生にとって環境のいいバイト先は貴重であり、遅刻などで居心地を損なうわけにはいかない。だから仕方なく、薄暗い路地裏を通ってショートカットを試みた。
右手にそびえる塀の向こうから軽やかな足音が聞こえたのは、そのとき。見上げると落ちてきたのだ――七種千尋が。
「っどいて……ッ」
彼方は身動きを忘れ、軽々と三メートルほどの高さから飛び下りてくる男を見つめる。
このままではぶつかる。下敷きになる。恐らく無事では済まない。わかっていても平和ボケした若者に、咄嗟の危機回避能力や開花する野生の本能なんてものは備わっていない。やけにゆっくりと流れる時間の中、他人事のように成り行きを見守る。
しかし千尋は落下途中であるにもかかわらず、塀を蹴りつけて着地点への軌道をずらした。すると軽く彼方の肩にぶつかっただけで、男の身体が路地裏へと派手に転がっていく。
「い、……た……ッ」
錆びた放置自転車に突っこんだ男の呻き声が、けたたましい衝突音に紛れた。積まれた空のビールケースも巻きこんで、静かな路地裏に数秒の喧しさが響き渡る。
彼方は騒音の余韻が消えた頃、ぎこちなく振り返って漸く我に返った。
「さ……っ七種君!?」
「三、島……?」
無理をしたせいで受け身に失敗したのか、千尋は唸りながら衝撃と痛みに耐えている。見れば学校指定の白セーターは汚れ、無理に引っ張ったようによれていた。どこからか千尋を探す、敵意に満ちた声も複数聞こえてくる。何があったかは知らないが、タッチで交代の鬼ごっこでないことは確かだ。
時間もないし逃げ出したいのが正直なところだが、彼が蹲っている原因が自分にあることはわかっていた。というより、千尋に認識されている時点で無視はできない。
彼方の作り上げた三島彼方は、困っている人を放っておかない。どんな相手にも優しく、思いやりを持って接する。例えそれが顔見知り程度のヤンキーだとしても、八方美人の平和主義を貫くのならここでブレるわけにはいかなかった。
「七種君、立てる? とにかく逃げよう」
邪魔な障害物を千尋の周辺から退け、助け起こそうと手を差し出す。しかし顔を上げた千尋は、恐ろしい形相で語気を強めた。
「っるさい、早く行って」
「でも動けないだろ?」
「いいからっ」
ヤンキー特有の反発心なのか、男は彼方の手を払う。そして近づいてくる足音と怒声を聞き、小声で喚いた。
「……っどっか行けってば!」
「どっか行けって言われてもね……」
お言葉に甘えて踵を返したいのは山々だが、這いつくばるクラスメイトを見捨てるほど無慈悲ではない。怖いのも体裁が気になるのも嘘ではないけれど、人情を捨てた覚えはなかった。
「わかった、君を連れてどこかへ行くよ」
「はあ? っうわ……!?」
日本語とは思えない荒ぶった喚き声から遠ざかるように、千尋を横抱きにして駆け出した。荒事と無縁な彼方だが、幸い体力と筋力には自信がある。身長がそれほど変わらない男となると多少重いが、細身なおかげで走れないほどではない。
しかし腕の中で暴れられると、さすがによろめいて落としそうになってしまった。
「ちょ……っ、七種君、危ないって」
「いい、余計なことしないで降ろして、俺女じゃないし……!」
「駄目だよ、ここにいたら見つかるし、君は動けないんだから」
「俺はともかく、三島は関係ないじゃん!」
往生際悪く彼方を押し離そうとする千尋の手が、暴れた拍子に強かに頬を打った。叩かれた側も叩いた側も、見本のような破裂音の後に一瞬呆ける。千尋が呆然としていることは、彼方にもわかっていた。小さく後悔の声を漏らしたことも。
けれど焦りに交じった苛立ちは、彼方から冷静さを奪うのに十分だった。
「……るっせえんだよ、黙ってねえとその口塞ぐぞ!」
さっきまでの抵抗が嘘かのように、千尋の動きがピタッと止まる。静けさを取り戻した路地裏へ、絶妙に気まずい空気が流れた。キョトンと目を丸め、口を半開きにしたまま見つめられることの居た堪れなさと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがある。
「……あー」
いくら焦っているにしても、一年以上被り続けた猫を振り落としてしまった自分が不甲斐ない。彼方は誤魔化すべきか悩んだが、再び路地を進む。今最も避けなければならないのは、無意味な弁解に気を取られた末に、二人して怒声の主から殴られる未来だ。
「とりあえず、このまま俺のバイト先まで連れてく。怪我の手当てくらいはできるから。わかったな?」
「うん……」
「よし、いい子じゃん。そのままもたれてろ」
彼方を凝視していた千尋が小さく頷き、くたりと素直に身体を預けてきた。目立つ眉間の皺が消えると、睫毛の長さがやけに印象深くなる。前髪で隠れていた目尻に赤らみと泣き黒子を見つけた彼方は、色っぽく整った顔立ちに感心しつつ路地裏を駆けた。
それが、二人の衝撃的な出会いである。
だからといって少年漫画のような友情が急に芽生えるはずもなく、その日は軽い手当ての後すぐに別れた。ただそれだけの縁は、そこで切れる――そう思っていた。
階段の踊り場で、突然の告白をされるまでは。
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