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さん・これはもはや予感ではなく
翌日の放課後、一度家に帰った千尋は祖父と育てているという野菜を手土産に、彼方のアパートへやってきた。
一先ずは集中して宿題をこなすこと一時間。先に終え、千尋の隣でベッドに背を預けて携帯を弄っていた彼方は、長い溜め息が聞こえて顔を上げた。
「終わったか?」
「ん。これ、貸してくれてありがと」
「いいよ。英語が超苦手って知れたしな」
「別に、そんなこと知らなくていい……」
彼方の指南と、彼方の解説入りノートに助けられて英語プリントを完成させた千尋は気まずそうだ。それはきっと、好きな人の前で格好つけていたい男の性だろう。
彼を見ていると、当たり前で、些細な恋の動揺を思い出す。例えば隣合う肩の近さに照れたり、目が合って思わず逸らしてしまう恥ずかしさだとか――手持ち無沙汰になって漸く、好きな人の部屋にいることを自覚して思い出す緊張感だとか。
「千尋、どした」
ソワソワし始めた男へ、あえて笑顔で訊いてみる。案の定千尋はそっぽを向き、鞄に宿題を仕舞いながら「別に」と短く答えた。
この、あざとさがない隙を見ると無性に弄ってみたくなる。指先で背中を軽く突いてみると、ピッタリめな七分Tシャツを着ているおかげで、ほどよく筋肉のついた腕から肩がビクッと跳ねたのがわかった。
「そ、いえば、この部屋すごい量の参考書あるけど、勉強好きなの」
あからさまに声を裏返らせた千尋が、悪足掻きするかのように話題を変えてくる。
彼方は見られていないのをいいことにニヤニヤと口を歪めつつ、彼の誤魔化しに一旦乗ってやることにした。
「そんな好きじゃねえけど、一人暮らしの条件だし、見下されんの嫌いなんだよな。それに、キャラ的に頭いいほうが”ぽい”だろ」
「そもそも、なんでキャラ作ってんの」
「教えてほしいならこっち向けば?」
ベッドに肘をつき、吐き捨てて千尋の反応を窺う。すると男はのっそりと身体ごと振り返り、緊張した面持ちで口を尖らせた。
「向いた」
羞恥に打ち勝てるほど、千尋の中で彼方の秘密は価値があるのだろう。駆け引きもなく面前へ差し出される好意は、蜂蜜をかけた角砂糖みたいだ。甘いものは、嫌いじゃない。
「どっから話すか……中学んときの話だけど」
思えば、それは親すら知らない彼方の秘密だ。人に話そうと考えたことはないが、千尋であれば構わない。彼は人の秘密を面白おかしく撒き散らすような男ではないし、誰かと秘密を共有するという初めての高揚感があった。
「正直お前には負けるけど、俺顔いいし、頭いいし、わりとなんでもこなすだろ」
「うん。でも彼方のがカッコいい」
「主観入りまくりじゃねえか。まあとにかくモテんだよ。したら男共にクソみてえな嫌がらせされまくってな」
「イジメ……?」
むう、と千尋の顔が不満で染まっていく。
それが彼方の受けた仕打ちに対する苛立ちだとわかり、ニヤケそうな嬉しさを感じた。
「そんな大したもんじゃねえよ、適当にあしらってたし。でも、払いのけんのが面倒だった。だから高校では、誰からも好かれるキャラでいこうって決めたわけ」
「大変そう」
「そうでもねえな。どうせ社会人になったら嫌でも取り繕わなきゃなんねえし、対人関係で躓く気ねえし。処世術くらいは身につけておかねえとな」
「ふうん……役者って感じ」
「だろ。でもお前は大根だな」
キョトンと丸くなった瞳が彼方を見るのと同時に、男の頬へ触れてみた。じんわりと指先に熱が伝わる。千尋は息を止めていた。
「緊張してんの、バレてねえと思った?」
まるでメデューサになった気分だ。石化したように動かない千尋の生きている部分を探し、指先を首まで下ろす。すると触れた脈はあまりに速く、彼の息苦しさを予想して笑ってしまった。
「息しろよ、千尋」
だったら目を逸らしてやればいいのに、意地悪丸出しで見つめ続けること十数秒。
瞳を潤ませ始めた千尋は、か細く息を吐いて顔を顰める。視線は彼方を刺すが、頬の赤らみが目つきの凶悪さを打ち消していた。
「彼方、は……今まで、好きな奴の部屋にいて、緊張しなかった?」
ぶすくれた物言いに、胸のどこかからキュンと聞き覚えのある音がする。己の反応が信じられない彼方はそれを「誤作動だろう」と言い聞かせ、肩を竦めてはぐらかした。
「二人っきりだもんな?」
「ふた……っ、そ、いうこと、言うか普通」
必死になって睨んでくる千尋は、もはや目尻や耳まで真っ赤になっている。ウブすぎる反応は彼方にとって新鮮で、好奇心がノリノリで小躍りしていた。
「そんな照れてて、俺と付き合うことになったらどうすんだ」
「はっ? や、別に、どうって……」
「今までお前……いや、好きんなったことねえんだっけ。……ん?」
彼方の脳裏に、一種の興奮が過ぎる。
千尋は真面目な男だ。恋仲でない人間と身体の関係を持つ姿は想像できない。そして、初恋は彼方だと言う。
だとしたら千尋には、誰の手垢もついていないのではないだろうか。
「なあ、千尋って……」
賑やかに早鐘を打つ脈拍のスピードは、さっき指で触れた千尋のそれと変わらない。逸る何かにせっつかれる彼方は、彼が頷くことを望んでいた。
「キスもまだ?」
期待に支配される彼方を見つめ、千尋はきゅっと唇を引き結ぶ。そして目を泳がせ、なんらかの覚悟を決めたようだった。
「馬鹿にすんな。それくらいあるし」
何故嘘を吐いたのかと疑問を抱くほど、彼の主張には真実味がない。馬鹿にされたと思い見栄を張ったのだろうが、この程度の嘘では彼方が調子に乗るだけだ。
「じゃあ俺にキスできんの?」
「何、俺ができないと思ってんの」
「おう。あ」
つい頷いてしまった風を装って煽ると、千尋は衝撃を受けたかのように唖然とする。そして数秒ほど黙りこみ、何やら真剣に彼方の両肩へ手を置いた。
「全然、余裕でできるし」
身を乗り出してきた千尋の顔が近づき、瞬く間に唇同士がくっついた。彼方は至近距離で瞼を閉じる端正な顔立ちをじっと見つめる。
薄い唇は柔らかく、全く嫌悪感はない。それどころか、反射的に唇を開いてしまった彼方の行為を見逃し続けるウブさに興奮していた。この不慣れさは堪らないものがある。
だがその余裕も、ぐっと体重をかけて床へ押し倒されると消え失せた。
「んんんーッ!?」
慌てて肩を押し返すと、すんなりと男がキスを止める。本当に暖簾を腕で押しているような肩透かし感だった。
「え……」
「ほら、できる」
彼方を押し倒したまま、千尋は誇らしげな顔をしている。そのドヤ顔と首元から垂れるネックレスを見上げ、彼方は顔を手で覆った。
「……そうだな。ごめん」
「気持ち悪かった?」
「や、それは全然ねえけど。なんか自分が恥ずかしいわ……」
男子高校生なんて八割が性欲と煩悩で構成されていると思っていたため、拍子抜けを通り越して自分の卑しい思考回路に落胆してしまう。
彼方が千尋の立場なら、とっくに服は脱がしているだろう。自分に好意を持つ人間を部屋に招き入れた時点で、関係を持つことに好意的であると判断するからだ。
だがそれはあくまで仮定で、現状彼方にその気はない。今日は彼のピュアさに助けられてしまった。
「掘られっかもって焦った」
「そんなことしない」
彼方の頭をポンと叩いた千尋が上から退いていく。手を下ろして見送ると、膝を抱えて座り直す男に起きている変化を悟ってしまい、彼方も身体を起こした。
「でも勃ってんだろ」
「うるさい、見んな」
「見てねえわ、察しただけ。……お前って抱きたい感じ? それとも逆?」
「そっ、……どっちでも、いいけど、俺がやったら、ただのレイプだろ。彼方が俺で勃たなきゃ意味ない」
縮こまって勃起を隠しながらも、千尋の言葉には迷いがない。彼方の気持ちを尊重する姿勢がいじらしく、今度の胸キュンは誤魔化しようがなかった。
「お前さ……可愛いよな」
「は? ……喜んでいい?」
「嬉しいならいいんじゃねえの」
「やった。褒めてもらえた」
赤い顔で、無邪気に男が笑う。初めての笑顔を可愛いと思った途端、丸まった背中に浮く骨の形や、細い腰なんかが妙に色っぽく見えてきた。
すると唇の感触と香りがよみがえり、現金にも下半身が兆しかける。千尋のファーストキスが自分だという情報がそこに追い打ちをかけ、下腹に力が入った。どうやら彼方はギャップに弱い男だったようだ。
「それ……抜いてやろっか?」
「え? ……え?」
「お互いのこと、よく知ったほうがいいだろ? チンコ触れるかどうかも大事だと思うし」
膝立ちで近づき、脇腹と膝の間から手を突っこんでみる。呆然としていた男は弾かれたように息をのんで腕を掴むが、膨らんだ股間を軽く握っただけで硬直した。
「ぁっ、駄目だって、彼方!」
「意外と平気だな……ちょっと脚開け。このままじゃパンツ汚れそうだし」
「っん、無理無理! ちょ、握っ……」
内心舌なめずりをする彼方は、思った以上に興奮していた。ジーンズ越しに硬さを増す性器を揉み、腕に縋りついて呻く男のうなじを見下ろすと、無性に苛めたい衝動まで込み上げてくる。ジーンズ生地は分厚いはずなのに、爪でカリカリと引っかくだけで大袈裟にビクつく反応は正直好みすぎた。
「どこが好き? 先? 裏?」
「だっ、……ん、かな……っハレンチだから!」
「え?」
よもや現役男子高校生の口から、そんな単語が飛び出すとは。彼方の手は驚きのあまり止まってしまった。
「……キスしたよな?」
「そ、れはいい、結婚前でも大丈夫……」
一体、千尋は何時代を生きてきたのだろうか。半ば感心しつつも、彼方は欲情を隠してパッと両手を上げた。奥手で擦れていないところは悪くない。図に乗っていじめて、距離を取られては困る。
「だな、悪い」
「……っう、ん。あの、彼方……トイレ、借りたら……怒る?」
真っ赤な顔で窺われ、ゾクゾクとサディスティックな部分が疼く。彼方から勃起を隠そうと押さえている姿は性的で、とろんとふやけた目尻は色っぽかった。
「怒らねえけど、駄目。我慢できるよな?」
唇を噛んだ千尋は、彼方の無体な発言に反論することなく頷いて膝に顔を埋める。ふるふると射精欲に耐える男の隣で、意地の悪い家主は最高に上機嫌だった。あえて話題を変えてやろうと頭を巡らせ、キッチンに置いたままの袋を思い出す。
「つーか料理できねえ奴の部屋に野菜持ってくるってどうよ」
「つ、……作る」
彼方の反対側へ顔を向けた千尋が、浅い呼吸を繰り返しながら宣言した。最初からそのつもりで手土産を選んだのだとしたら、可愛いが過ぎる。
あまりの健気さに、トイレ許可を出してやろうかと仏心が顔を出す。しかし震える千尋をもっと見ていたい彼方は、スウェット生地を内側から押し上げる己の性器を見下ろして「とりあえずカレー」と呟き、片膝を立てた。
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