700人が本棚に入れています
本棚に追加
ごお・雨降って地固まるか?
距離を置かれ始めてから、週末を挟んで一週間が経った。彼方は今朝も、教室へ入ってきた千尋へ果敢に声をかける。
「千尋、おはよう」
「……」
しかし彼は視線もくれず、聞こえていないかのように自分の席へ向かってしまう。自身の席で杏南と普段通り話をしている様子を眺め、彼方は意気消沈して椅子へ腰を下ろした。
今日も駄目だった。目も合わず、話しかけても今のように逃げられる。電話も無視、メッセージも既読にならない。藁にも縋る思いで杏南に声をかけたこともあるが、まるで汚物を見るような目つきで袖にされ、その日は本当に魘されて夜中に目が覚めた。母とヤンキー以外で怖いものが生まれた瞬間だった。
こうなった原因は十中八九、先週の「女だったら」という発言だろう。
千尋は帰り道も至って普段通りだったが、彼方の与り知らぬところで傷ついていたに違いない。もう嫌われてしまっただろうかと、ジクジク痛む彼方の胸なんか足元にも及ばないくらいに。
どうにか誤解を解き、千尋と仲直りがしたい。あまり下げないように生きてきた頭を何度下げたとしても。
「……今日こそは」
決意を固めて一日を過ごし、待ち望んだHR終了のチャイムが鳴り響いた。熊のように大柄な担任は、怠そうな足取りで職員室という名の巣へ帰っていく。
すると千尋が、その背を追うかの如く教室を飛び出した。絡んでくる不良との鬼ごっこがルーティーンな千尋の足は速い。追いつけないことを知っている彼方は足掛かりを得るため、ゆったりと廊下へ進み出た杏南を捕まえた。
「杏南さん、ちょっと話がしたいんだけど」
杏南は振り返ったものの、その無表情からは温度が感じられない。
「あたしは話すことないよ」
「俺にはあるんだ。ごめん……こっちに来て」
クラスメイトが様子を窺っていることに気づき、杏奈の腕をそうっと掴んで人気のない場所を探して歩く。しかし放課後になったばかりでベストな場所はほぼなく、結局千尋と昼休みを過ごす屋上階へやってきた。
杏南は意外に文句すら言わずついてきたが、二人きりになるとニヒルに口角を上げる。
「何をそんな必死になってんの?」
「千尋と話がしたいんだ。どうか協力してもらえないかな」
「なんで? 何を話すの?」
「それはもちろん、傷つけたことを謝りたいから……」
「謝って、また言うの。返事はもう少し待ってって、ナナと付き合う気もないのに」
「っ違う、俺はちゃんと千尋が……」
咄嗟に言葉が出てこなかった。喉元まで競り上がった一言は己の順番を待っているが、本体である彼方が盛大に躊躇している。
これを言ってしまったら、千尋が離れていくカウントダウンが始まる気がしたからだ。
「俺……」
余計な言い訳を抜きにして、本音だけを抽出すれば千尋への愛おしさしか出てこない。完全な異性愛者だと疑わなかった自分が彼の傍に居心地よさを見出し、離れがたいほど好きになった。それはこの一週間、取り繕いようもなく寂しくて堪らなかったことからも明らかだ。
このまま言い訳も謝罪もできず、関係がフェイドアウトするとしたら――考えただけで一週間前の自分を殴りたくなる。
けれど、気持ちを伝えて千尋と恋人になったとして、旺盛な性欲が彼を前にして牙を剥かない自信がない。だから、言えない。好きな人に嫌われるのはつらくて悲しいのだ、とても。
「とにかく……謝りたいんだ。だから」
「あたしね、ナナのことが可愛いの」
言い訳を遮った杏南は胸を張る。堂々とした居佇まいは凛としており、彼方は生まれて初めて他人に気圧される感覚を味わった。
「……それが、どうしたのかな」
「本当はね、ナナがいなくても男くらい散らせる。だけどナナはウブだし、女子どもに特に優しいから、迫られたら逃げらんない。だからあたしが張りついてるわけ」
「そう……」
「あたしよりいい女じゃないとナナはあげないって思ってる。……それなのに、初恋は彼方だって言うじゃん。ナナの気持ち馬鹿にしなかったし、ナナが嬉しそうだから応援する気だったけど……駄目だね。胡散臭いし無神経だし、鈍いし意気地なさすぎ」
散々な言われようだ。彼女が言いたいことはわかっているが、それを千尋でなく部外者に並べ立てられると苛立ちが募る。
「……酷いな。そこまで言わなくても」
「ニコニコしてんじゃないよ。あんた意味わかってる?」
穏やかな反論が、冷めた声に薙ぎ払われる。杏南はじっと彼方を見上げていたが、やがて整いすぎて威圧感のある美貌を歪め、まるで悪の女帝のように鼻を鳴らした。
「ホント馬鹿。……あたしはね」
爪まで綺麗に磨かれた杏南の手が、彼方の胸ぐら目がけて伸びてくる。ネクタイを掴まれたかと思えば、鼻先が触れる寸前まで強引に引き寄せられていた。
「好きの一言すら言えない男に、あたしのナナはあげないって言ってんの」
自分よりずっと華奢な女の力を払うのは容易いが、できなかった。杏南が本気で怒っていたからだ。剥き出しの感情がヒシヒシと体当たりしてくるから、本能的に彼方も仮面を捨てる。
「何すんだ、てめえ……」
「ナナはあんな性格だから、馬鹿正直にあんたにぶつかって好きだって言うよ。隠すとか、駆け引きするとか、なんにも知らないの」
「だからなんだ、うぜえ、離せ」
「その隣で、あんたは自分の気持ち隠すの?」
「隠したくて隠してんじゃねえんだよ」
「じゃあ、あんたはそれを隠して何を守りたいの?」
迷わずに「千尋」だと言えない自分に愕然とした。彼方が気持ちを隠すことで一番守られるのは、彼方自身だったからだ。
杏南は言葉を失う彼方から目を逸らすことなく、畳みかけるように続ける。
「誰に言えなくたって、ナナとのことは、ナナにだけは言わなきゃいけなかったんじゃないの。できないなら、その程度の覚悟しかないなら、あたしのナナに手を出さないで」
杏南が痛烈に批判しているのは、自分が傷つくことを恐れ、千尋の気持ちの上で胡坐をかいている彼方の狡さだった。曖昧な関係のままでも、今と変わらず傍にいられるのでは――そんな卑怯さが見抜かれ、袋叩きにされている。
掴まれていたネクタイが解放されると、どっと酸素が取りこみやすくなった。首を絞められていたわけでもないのに、負け犬のような反応をする自分が腹立たしい。
唇を噛む彼方を見つめる杏南の視線は、冷えきって完全に興味を失っていた。
「ナナにはあたしがいるから、彼方はもういらないよ」
甘い香りが一歩、遠ざかる。
彼方はいらない――その言葉が頭の中で木霊し、酷い焦燥感に襲われた。千尋の隣にいる権利を失うことを思えば、足元が覚束ない感覚を味わう。
そんなのは、絶対に嫌だ。
核心ばかり殴打されて呆然としていた彼方は、弾かれたように動いて杏南の腕を掴んだ。
「待てよ」
振り向いた彼女の無表情に射貫かれる。だが今この腕を離しては、杏南を行かせてしまっては、もうチャンスはない気がした。
本当はこのまま繋がりを断ってしまうのが、彼にとって一番いいのかもしれない。傍にいれば抱きたくなる。抱けば泣かせる。わかっている――だけど。
「うるせえ。そんなもん無理に決まってる」
千尋が傍にいない日々が嫌だ。たった一週間でこんなにも寂しいのだ。忘れることなんてできない、したくない。
それならば、いっそ身体の関係はなくていい。性の絡まない恋でいい。これまでの考え方を捨てることよりも、千尋が自分以外の隣にいることのほうが耐えがたかった。
「お前のじゃねえ。好き勝手言ってんなよ」
形のいいダークブラウンの眉が中央へ寄せられる。苛立ちを隠さない杏南から目を逸らさずに、彼方は深く息を吸った。
「千尋は俺のだ」
宣言したきり、両者無言の膠着状態が続く。
しかし暫く彼方を睨んでいた杏南は、おもむろに溜め息を吐いた。
「ナナにバレないように後つけておいで」
「は……?」
掴んでいたはずの腕がするりと抜けていき、杏南は階段を下りていく。それが彼女の見せた許しであることを数秒遅れて悟ったはいいが、後をつけるとはどういうことだろうか。いや、考えている暇はない。とにかく今は言われた通り動くだけだ。
「……っし。行くか」
急ぎ足で昇降口へ向かうと、杏南は先に出た千尋と落ち合った矢先だった。
彼方も靴を履き替え、こっそりと後をつける。彼らは学校の敷地を出て、駅方面へ向かっているらしい。もちろん尾行なんて初めてであるから、見失わないよう追いかけるのがやっとだ。
「なんだここ……」
やがて賑わう駅前へやってきた二人は、大通りに面した七階建てのオフィスビルへ入っていく。開け放した正面扉から中を窺うと、こちらに背を向けてエレベーターを待つ姿を捉えた。
彼らの背後にはちょうどよく階段へ続く角があり、忍び足でそこへ身を隠す。鮮明ではないが、近づいたおかげで耳をそばだてると話し声が聞こえてきた。
「ナナ、ホントにいいの?」
「いい。腹くくったから」
「……そうだね、ナナはそういう男だった。安心していいよ、腕は確かだから」
クスクスと柔らかい声色で笑った杏南が、千尋の腕に自分の腕を絡める。仄かな嫉妬で後姿を睨んでいると、彼女はチラリと背後へ目を向け――彼方を流し見ながら言った。
「ちゃんとナナを女の子にしてくれる」
「……ッ!?」
雷に打たれたような衝撃を覚え、手で口を押さえて目を見張る。その間に、彼らは下りてきたエレベーターに乗りこんでいった。
「女にしてくれる……?」
呆然と呟く彼方の頭の中は、しっちゃかめっちゃかに混乱している。その狭間へ浮かんだのは、一週間前に千尋が呟いた言葉だった。
「俺が、女だったらって言ったから……?」
性転換というとんでもない単語が脳裏で明滅し、血の気が引いていく。
彼は驚くほど真面目で擦れていない、素直な男だ。彼方の不用意な発言をそのまま受け取り、気に病んで思い詰め、無謀なことを企てたのかもしれない。
不安を材料に、冷静さを欠いた思考回路が瞬く間にそれへ真実味を持たせ、ざわざわと鳥肌が立つ。後悔なんて生易しいものじゃない。やめさせないと、取り返しがつかなくなる前に。
すぐさま一台しかないエレベーターに向かうが、自失している内に彼らは箱を降りたようで、続けざまに別の階から呼ばれたエレベーターは下降して二階へ止まった。これでは彼らが何階で降りたのかわからない。
彼方は身を翻して階段を駆け上がった。二階は除外し、三階から一つずつオフィスを訪ねていく。驚かれたり叱られたりを繰り返し、それでも探すことを諦めない。
女だったら、と口を滑らせたが、女になってほしいと願ったことは一度もない。性別の壁をひょいと超えてしまうほど好きになったのだと、ありのままの千尋に伝えたかった。
そしてビルの六階、女性向けアパレル通販会社のオフィスで、彼方はガラス扉の内側にいる杏奈を漸く見つけることができた。
「……ッ杏南!」
爽やかな香り漂う一室には数人の社員らしき男女と、我が物顔でデスクに腰かける杏南がいる。突然飛びこんできた男子高校生に驚く大人を他所に、彼女は平然とパックジュースを飲んでいた。
「おっそ」
「他、に、言うこと、あんだろ……!」
彼方は息を荒げ、膝に手を置いて項垂れる。
体力には自信があるものの、六月特有の湿気とセーターのダブルコンボに加え、鞄には辞書が三冊入っている。落として壊れた電子辞書を早く買い直すべきだった、と後悔したのは言うまでもない、
「行き先くらい、言ってけって!」
「もしかして一カ所ずつ探したの? このビル結構テナント入ってるはずなんだけど……要領悪いね。ウケる」
「なんもウケねえわ。それより……千尋は?」
じっとりと滲む汗を拭い、オフィス内に千尋を探す。しかしデスク以外には積み上げられた段ボールや袋を被った服があるばかりで、探し人の姿はなく焦りが募った。
すると杏南は、見かねたように肩を竦める。
「ここはあたしのお兄の会社で、ナナは……」
キイ――。
蝶番の軋む音が聞こえ、彼方と杏南は揃って音の方へ顔を向ける。すると隣にもう一室あるのか、開いた扉から可愛らしい女性が現れた。派手な空色のパーカーは大きめだが、黒のスキニーパンツで脚の長さと形の良さが強調されている。胸元まで伸びた優しい色合いの茶髪は柔らかそうで、シンプルなキャスケットがとてもよく似合っていた。
一瞬、彼方はその女性に見惚れてしまう。だが彼女が自分と同じくらいの身長であることと、化粧に隠された顔立ちに気づいて思わず素っ頓狂な声が出た。
「は……?」
「ん? ……え?」
目が合って固まる。化粧でわかりにくいが、彼女――彼は間違いなく千尋だった。
「ちひ……杏南! どういうことだあれ!」
エレベーターへ乗りこむ前の会話を思い出し、杏南へ勢いよく詰め寄る。
すると彼女は惜しげもなく美しい作り笑いを浮かべ、コテンとあざとく小首を傾げた。
「あんたに男いらねってディスられたって言うから、プロに頼んで女装させてみちゃった」
「みちゃった、じゃねえわ……ッ!」
身体から心臓を動かす以外全ての力が抜けたように、オフィスの床へ崩れ落ちる。情けなく四つん這いのまま項垂れるが、深い安堵で頭がくらくらした。
「よかった、性転換じゃなかった……」
「何それ」
「女にするっつーから、焦って……」
「常識的に考えてありえないでしょ。ここ日本だよ? ナナは未成年だよ? こんなビルで大それた手術できなくない? そもそもここ病院に見える? 頭ん中渋滞しすぎ」
ごもっともな追い打ちが胸に突き刺さる。彼方が無言でその場に座りこむと、固まっていた千尋がこちらへ近づいてきた。
そして男らしくヤンキー座りで目の前へしゃがみ、付け睫毛で色っぽさが強調された切れ長の目尻を垂れた。
「よくわかんないけど、身体に傷入れたら親不孝だって言ったじゃん」
相変わらず、千尋の主張にはブレがない。そんな彼を好ましいと思っているのに、一旦焦りに支配されると人間は冷静に物事を判断できなくなるようだ。
突飛すぎる思い違いに激しい羞恥を覚えながら、そろりと千尋の腕に触れる。彼は真っ直ぐに彼方を見返し、逸らす気配がなかった。
「……もう無視すんなよ」
「うん、しない」
「なんで避けた?」
「ん? まじない」
「はあ……?」
「杏南が教えてくれた。一週間、目も合わせないで話もしなかったら、両想いになれるんだって。もう一週間経った」
壁掛け時計を一瞥している辺り、先週、彼方の自宅前で別れた時間まで正確に計算しているのだろう。だがその微笑ましい律儀さに和む前に、彼方は杏南を睨む。
彼女は罪悪感の欠片もない顔で他所を向いているが、彼方を煽るため千尋に嘘のまじないを吹きこんだことは明白だった。しかし詰りはしない。諸悪の根源は意気地なしの彼方だ。
「はあ……、ん。嫌われてねえなら、いい」
「嫌うわけないだろ。でも、その……無視してごめん」
「いいよ。でもそのまじない、効かねえからもう二度と使うな」
言葉に詰まった千尋は、眉を寄せて目を伏せる。勘違いでしょんぼりしている様が可愛くて、二人きりなら抱きしめていた。
「それ、わざわざ俺のために着てくれたのか。メイクまで?」
「……ん。あんま似合わないけど、こういう格好ならちょっとは好きになってくれるかなって……家行って驚かすつもりだった」
「いや、むしろ可愛すぎんだけどな」
ウィッグに指を絡め、くいっと引く。こんなものがなくとも気持ちは変わらない。彼方は「いつもの千尋がいい」と、本気で思っていた。
「悪い、着替えてメイク落としてこい」
「……いいの」
「いい。俺は男の千尋を好きになってんだから」
千尋は絶句し、絵に描いたような驚き顔で彼方を凝視する。成り行きを温かく見守る社員達の視線はこそばゆいが、どうしても今、胸の中で芽吹いて育ち、熟している想いを伝えたかった。
「一カ月も待たせて悪い。お前はそのままでいろ。すげえ好きだから」
「……マジで?」
「超マジ。俺と結婚してください」
正座して頭を下げると、ずず、と鼻を啜る音が聞こえる。
千尋は目に涙を浮かべていたが、零さないまま小さく頷き、「なんで俺が告られてんの」と言って無邪気に笑った。
最初のコメントを投稿しよう!