よん・彼方の超贅沢な悩み

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よん・彼方の超贅沢な悩み

 それから一カ月ほどの月日が流れ、暦は六月に入った。  ときは放課後、共に帰るため千尋の日直仕事が終わるのを待っている最中だ。廊下側最後列に位置する彼方の席へ日誌を置き、馬鹿真面目に空欄を埋めようとしている千尋を眺めて過ごす。  今では、こうして千尋とつるむことが当たり前になっている。当初の目的である相互理解も、順調に深まっているはずだ。  例えば眼鏡をかけると真っ直ぐ歩けないだとか、コンタクトを入れるのが怖くて断念した過去、祖父っ子すぎて自治会の寄り合いへ月一で一緒に顔を出していること。  三つ子の妹を溺愛していて、派手なスタイルは妹達のプロデュースだとか、睨まれていると勘違いして絡んでくる不良から日々逃げている内に、自然とパルクールが身についただとか、挙げればキリがない。  そういえば休日に何をしているのか気になり、出先へついて行ったこともある。そこで彼方は腕章をつけて町内のゴミ拾いボランティアに参加し、分別方法を暗記するほど精を出した。最後に配布された冷えたラムネのキツい炭酸と爽やかな甘みは、ハッとするほど美味しくて、今でも鮮明に思い出せる。  そうやって少しずつ千尋という男を紐解いていく内に、彼の傍は酷く心地のいい場所になった。平日はもちろん休日もバイトや予定のない日は、ほぼ一緒に過ごしているため、部屋のキッチンは千尋の領域となりつつある。かつてないほど他人に気を許している彼方は、そんな自分にときどき驚くのだ。  何より見つめると恥ずかしそうに目を逸らす男に日々癒されているのだから、一カ月前の彼方と今の自分は別人かもしれない。 「……何。あんま見んな」  視線に気づいた千尋が、目を泳がせて日誌をペンで叩く。まだ書き終わってはいないが、反応が可愛いから退屈さは感じなかった。 「皆お前がヤンキーだって誤解してんの、もったいねえよな。あれか、金髪のせい?」  頬にかかった髪を避けてやると目尻に赤が差す。ふい、と顔を背ける仕草は照れだ。 「目つきだと思う」 「わかってんならコンタクト入れろ。そろそろ眼精疲労で死ぬぞ」 「ヤダ怖い。まだいける」 「適当なこと言ってんなよ。それとも俺が押さえつけて入れてやろうか?」 「そ……、れなら、頑張れるかも……」  常々思っていたが、やはり千尋は完璧にマゾっ気がある。性的な気質の相性が良すぎて、こうしてツボを連打されると今にも手を出してしまいそうだ。 「なんだこの試練……」 「……? 何が」 「気にすんな。あとは……これだな」 「……ッ」  油断しているところで、いくつも刺さったピアスに触れる。ビクッと肩を竦める仕草で調子に乗った彼方は、耳の縁へ指を這わせた。 「毎日ローテしてんのに、真ん中のだけ同じだよな。気に入ってんの?」 「あ、う……それは、杏南が誕生日にって」 「へえ……」  毎日つけるほど大切にしているのだと知って、腹の中心が重苦しくなる。すると指先に力が入ってしまったのか、耳裏で触れた金属がポロリと床へ落ちてしまった。 「……っ! 悪い、壊れたか!?」 「ううん。壊れてない」  千尋は慌てた様子もなくピアスを拾い上げ、彼方へ見せる。よく見れば、それは針のないマグネットピアスだった。 「え……? 穴開けてねえの?」 「親にもらった身体だし。自分で傷つけたらバチ当たるだろ」  慣れた手つきでピアスを装着する千尋は、今日も古風で慎ましやかだ。苦笑する彼方の口からは、改めて感じたもどかしさと落胆が飛び出した。 「女だったらソッコーで嫁にしてたわ……」 「え」 「あ、違え、変な意味じゃねえし、返事でもねえから……」  紛れもない本音だが、誤解されては困る。性別を気にする理由は誰にも察せない。 「悪い。無神経だった」  慌てて謝ると、千尋は瞬いて首を捻った。 「性転換しろってこと?」 「なんでそうなる……違えわ」 「ふうん」  絶妙に気のない返事をした千尋が日誌を閉じる。空欄を埋め尽くすことは諦めたようだ。 「これ、職員室出してくる」 「ついてくか?」 「どうせここの鍵閉めるから、待ってて」  日誌だけを手に席を立った千尋は、気怠そうに教室を出ていく。  彼方はその背を扉が閉まるまで見つめていたが、一人になって机へ伏せた。 「しくった……ぽろっと出たな……」  千尋の真っ直ぐな性格も、思いやりがあるところも、大人の話をちゃんと聞けるところも好ましい。しかも料理だけでなく掃除もお手の物だ。照れると素っ気なさに拍車がかかるが、後で申し訳なさそうに謝る健気なところも可愛い。――そう、彼方は異性に対するそれと同じかそれ以上に、千尋を可愛いと思っていた。  そんな人間が、誰に触れられることなく彼方に好意を寄せている。何も知らない千尋にキスから仕込み、育てていく妄想をするだけで股間が疼く。男の身体を想像しても間違いなく欲情できる辺り、彼方の中で千尋が守備範囲へ入ったことは確かだ。このまま傍にいれば、きっともっと好きになれる。  しかし今度は別の問題が立ちはだかり、彼を受け入れていいものか迷っている。それは彼方自身が直しようのない体質が原因だった。 「かーなた先輩」  顔を上げると、半分ほど開いた窓の向こうから女子生徒が手を振ってくる。中学からの後輩である彼女は、校内では千尋以外で彼方の素を知っている唯一の人物だ。 「鶴乃か。どした」 「最近連絡ないから、心配で来ちゃいました。靴箱見たらまだ校内にいたので」  鶴乃は足取り軽く教室へ入ってきて、さっきまで千尋が座っていた椅子に腰かける。可愛らしく小首を傾げると、華奢な肩を艶やかな黒髪がすべっていった。 「そろそろ彼方先輩の異常性欲、受け止めてくれる人見つかりました?」 「異常っておま……」 「相手が泣いても気絶しても止まらない人が、正常とは言わないでしょ」  ――これが、彼方の体質だ。  はっきり言い切られ、苦笑しつつ項垂れる。しかし反論する気はなかった。 鶴乃の言う通り、自慢じゃないが彼方は絶倫だ。まだ積極的に恋をしていた頃は、何度もそのせいでフラれてきた。  我慢すればいいとわかっていても、始まってしまえば止まらない。しかし欲望をぶつけたら怖がらせてしまうという経緯もあり、恋人を作るのはやめた。今は、いつか己の性欲をコントロールできるようになる日がくるはずだと、淡い期待を抱いている。これが、千尋に欲情しつつも気持ちを受け入れてやれない理由だった。 「だよなあ……泣かせたくねえしな……」 「なになに、見つけたんですか理想の人」 「理想なんて話したことあったか?」 「ありますよお。体力があってエッチで、優しくて真面目で家庭的な大和撫子……っていう、完全なる無理難題」 「言った覚えあるわ……」 「しかも処女好きですよね。エロゲかよ」  他人事だと思ってはしゃぐ鶴乃の声を聞きながら、ぼんやりと千尋を思い出す。  丸一日ゴミ拾いをしても平気な彼は、畑仕事や家事、不良との鬼気迫る追いかけっこのおかげで体力面をクリアしている。加えて優しく、真面目で家庭的だ。健気でキス以上を許さない童貞処女は、奥ゆかしい大和撫子に通じるものがあって――つまり。 「理想じゃねえか。そりゃ好きになるわ」 「え……やめてあげてください、可哀想です」 「真顔やめろ。お前本当は俺のこと嫌いだろ」 「まー最初は嫌いでしたね。私の友達を怯えるまで抱き潰したわけですし」 「マジで反省してる」 「知ってます。だから今は好きですよ。あれだけモテて仕方なかった先輩が、今じゃ王子にジョブチェンジして日々禁欲してるなんて、本当に気分がいいです」 「面白がってんなお前……」  柔らかな頬を軽く抓ってやり、無邪気に笑う鶴乃をからかう。楽しそうな彼女を可愛いとは思うが、彼方は千尋の笑顔ばかり思い出しては甘い痛みに胸を焦がしていた。  男を受け入れられるように身体の造りができている女性ですら、本気の彼方と何度も抱き合うのはつらいのだ。いくら体力があっても、男の千尋が受け止められるはずがない。怖い思いをさせて、苦しい思いをさせて、恋が冷めるのはわかりきっていた。  そうなれば、もう友達にだって戻れない。 「せめて女だったらな……」 「何それ、どういう意味ですか?」  無意識の呟きに鶴乃が興味を示し、彼方の肩を加減なしに叩く。地味に痛いそれを受け流していると、教室の扉がガラリと開いた。  見れば、職員室から帰ってきた千尋が立っている。 「鍵閉めるけど、いい?」 「あ、それじゃ彼方先輩、また」  鶴乃は席を立ち、彼方に手を振って扉へ向かう。何ごとにも動じない彼女は、顔を見るために目つきが悪くなっている千尋へもペコリと頭を下げた。 「さようなら、先輩」 「ん、気をつけて」 「はあい」  千尋は鶴乃の素直な返事にやんわりと目を細めているが、彼方は何故か浮気現場を見られたような心地を味わっていた。元カノの親友です、とはさすがに言えない。 「あー、あいつは、たまたま進路が被った中学の後輩で……」 「何それ、変な言い訳」  まごまごとした弁解を千尋は笑い飛ばす。鶴乃との仲を疑いもしない様子に安堵し、知らず強張っていた肩から力が抜けた。 「だよな、悪い。帰るか」  そそくさと机から鞄を取り、千尋と共に教室を施錠して廊下に出る。 だが窓の外へ目を向け、運動部員が列を組んでグラウンドを走る様子を眺めていると、小さな呟きが耳に届いた。 「女だったら、か……」  ギクリ、と背に冷や汗が流れる。鶴乃との会話を聞かれていたのだろうが、なんと返せばいいかわからず、どこから聞いていたのか確かめることもできない。  発言の真意を釈明すれば、心地いい今の関係が壊れてしまう可能性がある。だから彼方は途轍もない罪悪感を抱きながら、迷った末に聞こえないフリをした。  その不誠実さへ罰が下ったのは、翌日のこと。  千尋は二人で過ごした日々を全て忘れたかのように、一切彼方に近づかなくなった。
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