6ペンスの唄と死神の囁き

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 1923年 8月12日 午前10時44分 ロンドン商店街 オックスフォード・ストリート 「あ、いらっしゃいませ!」  店に入ると1人の青年がいて、笑顔で客を出迎える。彼の手前にはどれも甘くて美味しそうなケーキがずらりと並ぶ。青年は短いボサボサの髪を生やし、大きな目と精悍な顔を持つ。チェックのスカーフを撒いたコックシャツを着ていた。  どこにでもいそうな、平凡な若々しい成人男性。違和感がある部分を挙げるとすれば・・・・・・長袖の先からあるはずの手が出ていなかった。そう、その青年には右腕がなかったのだ。 「こんにちは、オリビアさん。また来て下さったんですね?いつもありがとうございます」  オリビアと呼ばれた老婆は青年と感情を合わせ 「可愛いユリシーズくんのためだもの。毎日でも来ちゃうわ」 「ははっ、ありがとうございます。今日はどんなお菓子をお求めでですか?」  ユリシーズは照れ笑いし、オリビアに買い物の話を持ち掛ける。 「チョコレートショートとブルーベリーのミルフィーユを2つずつ。あと、モンブランを1つお願いするわ」 「畏まりました」  彼は笑顔のままこくりと頷き、肯定の返事を返すとケーキ棚のケースを開いた。頼まれたケーキをプラスチック製のトングを用いては、丁寧に手際よく箱の中へと入れていく。蓋を閉ざすと、商品を来客に差し出す。 「お待たせしました。5ペニーです」  オリビアは"はいはい、ちょっと待ってね"と少々焦り気味に財布を探した。ようやく支払いを済ませ、自身が注文した商品を受け取る。 「ユリシーズくんは本当に働き者ねぇ。右手がない時点でかなり大変なのによく頑張るわ。うちの主人もあなたを見習うべきよ」 「ははっ、そんな事ないです。こういう生活にはもう慣れましたし、大切な人達がいるから僕は幸せですよ」 「何かあったら、遠慮なく私達を頼っていいのよ?この街の人達は皆、あなたの味方なんだから」  オリビアは優しい言葉を別れの挨拶代わりに、上機嫌な面持ちで店を後にした。 「お買い上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」  静かになった店の中で1人、ユリシーズは爽快な吐息を吐き出す。そして、左手だけを天井に向け、うんと背伸びをする。ふと、彼の視線は偶然、レジの傍に置いてあった写真立てに重なった。写真には老いた修道女と、その隣に小さな少年が写っている。 「あれから20年か・・・・・・この人がいたから、今の僕があるんだ。救われた恩は一生忘れない。そういえば、もうすぐ彼女の命日だったね。その日が来たら、お墓に花束を添えてあげよう」  ユリシーズは手に取った写真立てを元の置き場に戻した。次に下の棚から、くしゃくしゃになった古い新聞を取り出す。柔らかい顔を真剣な顔に一変させ、 「地獄だった・・・・・・あの時の生活は絶望でしかなかった。体と心に負わされた傷は生涯、消える事はないだろう・・・・・・そして、僕が犯してしまった罪も・・・・・・僕が助かった後、警察はあのパイ屋に家宅捜査を行った。だけど、店に人の姿はなく人肉のパイだけが大量に発見された。犯人のフローレンスも未だに見つからないまま・・・・・・」  これで何度目か・・・・・・書かれた記事を読み直すユリシーズ。眉をひそめ、その手を小刻みに震えさせる。
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