息子の突然の死

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

息子の突然の死

               令和元年七月、息子晴之は二十九歳であの世に旅立った。こんなに早く亡くなるとは、誰も予測しなかったが、心臓が生まれつき悪いということを考えたら、突然死も、ありえることだった。 両親である私たちは三ヵ月前から山口に引っ越しており、東京に残りたいという息子の意志で残してきた。仕事が見つかったと言っていたのだ。料理好きの息子は、 「今日はタンドリーチキンを作ったよ」 と、一人暮らしを満喫しているようだった。  しかし、私のラインに何日も既読がつかないので、神奈川に住む娘にアパートに行ってもらう。娘がアパートについたのは、夜の十一時くらい。電気もクーラーも点いていて、鍵もかかっていたそうだ。息子は椅子から倒れ、吐血して息絶えていた。娘の驚きはいかばかりか。彼は苦しんだのだろうか。まだ食べていないマクドナルドのビッグマックがそばにあったという。  警察や救急車がきて、他殺ではないことを確認し、急性心不全と診断された。  娘はまず父親に連絡した。夫は二階にいる私に、 「母ちゃん、驚かないでね。最悪の結果だよ」 と、告げる。私はまだ信じられなかった。  夫は泣いていた。私はなぜか涙が出ない。ただドキドキして、その夜は一睡もできず、 「うそだ。うそにちがいない」と、思い続けた。  翌朝一番の飛行機で、二人で息子のもとへ向かう。羽田から警察署にある登戸に行く途中、夫が息子の勤め先の会社に電話した。だが、 「そういうひとは履歴に載っていません」  息子は就職してなかったようだ。夫の私を見る目が険しくなる。五ヵ月前、夫は一足先に山口に帰り、息子の就職は私に一任されていたのだ。私も驚き、心がしめつけられた。  多摩警察署で晴之に対面する。コンクリートのベッドの上、晴之は顔の色が変わり土気色。鼻は黒く変色していた。死後五日。 「はるゆきいー! はるゆきー! ごめんねー」  私は、どこから出るのかわからない声が出て息子の遺体にすがりついた。夫も娘も泣いていた。  警察署の一室で葬儀の段取りをする。焼き場は順番待ちで三日先まで空いていない。この日は八月一日、晴之が亡くなったのが七月二十六日、暑い夏のことだ、早くしないと腐敗してしまう。  東京の友達に晴之の顔を見てほしかった。葬儀社の中でこの日は四時から六時まで、翌日は十二時から一時までお別れができるという。親しかった友達に連絡すると、何人か来てくれた。私が仲良くしていた晴之の同級生のママ友達。私は今までがまんしていたぶん、顔を見て抱きついて号泣した。彼女たちも泣いてくれた。晴之の友達からの手紙をお棺に入れてくれたお母さんもいた。 翌日は息子の高校時代のトランペット仲間が六人も来てくれた。思えば、トランペットは息子が心臓の悪いことを忘れられる唯一無二のものだった。名前をきいてああこの人だったのとわかる人もいたが、私が知らない人もいた。今二十九歳。仕事に大忙しのころだ。平日の昼休みを抜けて来てくれたのだ。 「はっしー先輩、早すぎますよ」  ひとりがぽつんと言った。息子はムードメーカー的存在だったとか。土曜日も日曜日も朝から練習。息子にとって充実した時間だったのだろう。卒業後は野郎ブラスというグループをつくり就職できないでいる間も、練習に通っていた。  火葬の前日から義母と義弟がきてくれた。義母は最も晴之をかわいがった人だ。東京近郊に住む親戚やいとこも来てくれた、千葉からは、小学校でお世話になった先生もかけつけてくださった。仲良くしていた晴之の友達も二人きてくれた。十五人くらいだった。私は立っているのがやっとで涙は出なかった。顔のまわりには皆さんに花を入れてほしかった。 「晴之、生まれてくれてありがとう」 息子に触れてから、お棺は閉まっていった。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!