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2・異常なノート
しかし同居生活が二週間経つ頃には、そんな不安も綺麗さっぱり消え去った。
米の炊ける、仄かに甘い匂いが漂う朝。
月曜だというのにアラーム無しで自然に覚醒した千寿は、覗きこんでくる弦の茶髪が、朝日を浴びて金色に輝く眩しさに目を細めた。
深夜の通販番組で紹介されていた高級低反発マットレスは、生まれ変わったかのような目覚めを味わえるらしい。千寿はダブルサイズのそれが税込み二万円だったのをぼんやりと思い出し、「うちはゼロ円やけどな」と、卑しさ丸出しで呟く。
栄養バランスのとれた食事と掃除の行き届いた部屋、そして懐っこい笑顔で千寿を癒す弦の存在は、高級マットレスなど足元にも及ばないのだ。
目を覚まして最初に発した意味不明な挨拶に、弦はニコニコと首を傾げる。
「何がゼロ円なの?」
「関東人は同じもんでも、高い金出して買いたがるらしいけどな……関西人はどんだけ値切って安く買えたかがステータスなんや……」
「そっかー、じゃ、起きてご飯食べよ?」
適当な相槌を打つ弦が、千寿の頬を突いて遊ぶ。抵抗もしないで真横に伸ばしたままの左腕を持ち上げた千寿は、今朝も一切の気怠さがないことに口を尖らせた。
「お前……また頭下ろして寝たな。朝まで枕にしてええって、昨日あんだけ言うたのに」
「してたよ? 俺の頭、軽いからかな」
「はいはい」
冗談めかす笑顔がもどかしい。彼は人懐こく傍で笑うくせに、不意に一線を引く。千寿が何かしてやりたくとも、遠慮と謙虚のオンパレードで踏みこませてくれないのだ。
普段から距離感が近くボディータッチが多いから、人にくっつくのが嫌いなわけではないはずだ。そう思って即席寝床からベッドへ引きずり上げ、腕枕を提案したときは確かに目を輝かせていたくせに、頭の重みを味わえるのは寝入る寸前だけ。これでは、新しい枕を買いに行く他なくなってしまう。
こうなったら是が非でも心の距離を詰め、隣で寝坊する弦を見てやろう。千寿は決意を固め、むくりと起き上がった。
テーブルには出来立ての食事が並んでおり、ベッドの足元には今日の服一式が畳んで積まれている。気の利く弦は、スーツに毎朝エチケットブラシをかけるのも忘れない。
今朝も理想そのものな光景に感動し、「ご飯冷めちゃうよ」と優しく急かされた千寿はベッドを降りた。
遅刻寸前までベッドの中でのた打ち回り、栄養調整食品でカロリーを脳に与えながら家を出ていたのが遠い昔のようだ。
支度と朝食を済ませた千寿は、珈琲のお代わりとニュースの占いコーナーまで楽しんでから出社時間を迎える。
「弦、今日の予定は?」
何も言わなくても荷物を持って玄関まで着いてくる弦を、靴を履いてから振り返る。彼は千寿にバッグと弁当袋を渡し、ネクタイの歪みを整えてくれた。
「午前中は大学で、昼から夕方までバイト。それから買い物して帰るよ」
「友達と遊んでってええねんで。おっさんの世話ばっかしとらんと」
「自分でおっさんって言うのやめようよ……どっから見ても綺麗なお兄さんだよ」
また、それとなく話題を逸らされている。
千寿はわかっていたが、気付かぬフリで腕を擦って見せた。
「やめえ、寒い」
「あ、そう言えば今日雨降るって言ってたよね? 傘持って行った方がいいよ」
「夜からや言うてたやん。定時で帰るから大丈夫や。嵩張るし」
「……無理してない? 俺、待つの平気だよ」
「ちゃうわ。俺が人より仕事早いだけ」
その自画自賛を撤回はしないが、健気に待つ弦がいる部屋に早く帰りたいからだ、とは、甘ったるすぎてさすがに言えない。
「ほな行ってきます」
「ん、行ってらっしゃい」
二ヘラと綻ぶ笑顔にキスを返したくなる。
千寿は今日も本音と煩悩を腹の中に押しこめ、意気揚々と仕事へ向かった。
――だが定時を三十分越えた、午後六時。
ついさっきまで支部長の愚痴を聞くだけの残業をさせられていた千寿は、一階エントランスから到達の早まった雨雲を見上げていた。
「弦の言うこと聞いとったらよかった……」
打ち付ける雨粒はコンクリートの上で白い飛沫となり、その激しさを物語っている。自動ドアを渋々くぐった千寿は、幅の狭い庇の下でどんよりとしたオフィス街を眺めた。
「気い滅入るわ……」
千寿が靴の先から十五センチ先に待つ、濡れ鼠の未来を思って溜め息を吐いたとき。
「あ、千寿さん」
「ん?」
声のした方へ顔を向けた千寿は、そこに立っている弦を見つけて目を剥く。つい「なんで」と言いかけたが、イヤホンを外して近付いてくる彼の腕には食材の入ったエコバッグと、千寿の黒い傘が引っ掛かっている。把握材料としては十分だ。
「お前……いつからおったん」
「ついさっきだよ。行き違いになんなくてよかった」
差し出された傘を受け取る千寿は、にこやかな彼の言葉が嘘であるのをわかっていた。
弦は千寿の終業定時を知っている。行き違いになる可能性があるのなら、連絡くらい入れるはずだ。よって定時前には待機していたのだろうと推測するのは容易い。
しかし殊勝な彼を窘めることはしたくなくて、礼を言って傘を差し、遠慮する弦から買い物袋を取り上げた。
「ちょっと上司に捕まっとってなあ、遅なってごめん」
「ううん、俺が勝手に来ただけだし」
「電話してったらええのに」
「お仕事の邪魔になるじゃん」
「かまへんわ。わざわざ届けに来てくれとんのに」
「……えと、うん、まあそうなんだけど……」
歯切れ悪く濁し、心なしか背中を丸めた弦が何を思っているのか考える。
千寿の傘を持っているのは、一度家に帰ったからだ。では連絡も入れず、受付に傘を預けることもなく待っていたのは何故だろう。
こうして一緒に帰りたかったから、ではないだろうか。
千寿は疼く欲求のまま、平然を装って口を開いた。
「そや、お前と外出るん初めてちゃう?」
「え、うん、そうだね」
「ええなあ、こういうんも」
暫しキョトンとしていた弦が、嬉しそうに目尻を赤らめて首肯した。予想は当たったらしい。それが嬉しくて、千寿は調子付く。
「次の日曜も、丸一日バイト?」
「んーん、昼までだよ」
「ほな、一緒に行くか」
傘を叩く煩い雨音に紛れて、弦が小さく疑問符を口にした。ポカンと口を開ける表情は年相応にあどけない。
千寿は普段のニコニコ顔とは違う彼の素の表情を愛らしく思い、ニッと口角を上げた。
「俺の日曜のルーティーン、付き合えや」
日曜の午後、バイト終わりの弦を車で拾った千寿はその足で競馬場へやってきた。
初めて訪れた場所が物珍しいのか、目を輝かせる弦はあちこちに興味を引かれて中々進まない。好きに遊ばせてやりながら建物内を一通り案内し、軽食をとってから投票所へ向かう。G1レースのある今週はイベント目当ての家族連れも多く、混雑していた。
「もうすぐ三時半か。はよ買わな締め切られるな」
「千寿さんはどれ買うの?」
「メインレースだけや。お前もやるか」
「俺、競馬わかんない……見ててもいい?」
「ええよ。ほな、今度は挑戦してみいな」
さりげなく次回の約束を散らした千寿は、マークカードを取って書きこみながら、頭を悩ませる。
「……そや、まだ軸馬決めてなかった……」
「どしたの?」
手元を覗いてくる弦の顔をじっと見つめ、千寿は閃く。
「弦、好きな数字三つ言うてみ。一から十八までな」
「うん? えっと、じゃあ十六、二、七?」
「よっしゃ。今日はお前の運に頼るわ」
「え、そんなのでいいの……!?」
「ええのええの」
数字を順にマークし、今度は自動発券機で馬券を買う。三連単の一点買いなどという当てる気のない馬券だが、タイムリミットの短さや競馬初体験の弦を思えば、これくらいわかりやすいお遊びで丁度いいだろう。
「俺なんかの運じゃ、お金もったいない……」
「どこがやねん。俺とお前の初共同賭博やん。ワクワクするやろ?」
「賭けごとは二十歳過ぎてからじゃ……?」
「買ったん俺やから問題なーい」
不安がる弦を笑い飛ばした千寿は馬券を彼へ渡し、スタンドへ出てすぐ、右手の壁沿いで一息ついた。
「三連単やからな、気合い入れて応援せえよ」
「三連単って何?」
「馬券の順番通りにゴールしたら当たりや」
素直に頷いた弦は「そう言えば」と顔を上げ、ターフビジョンに目を向ける。
「千寿さんと初めて会った日の朝も、田辺さんに同じこと訊かれたなあ」
「なん?」
「好きな数字を三つ言ってみてって。十、六、四……だったかな。俺、適当過ぎだよね」
「ふうん……ん?」
千寿はハッと思い出し、財布に入れたままの万馬券を取り出した。そこにある数字を確認し、信じられない思いで弦の横顔を盗み見る。
何故、田辺は馬券の裏に住所を書いたのか。
ずっと考えていた疑問の答えに似た何かが、もう少しで尾を掴めそうだ。
弦は田辺が、「この馬券一枚で千寿が動くことを確信していた」と言った。だが、そんな不確定要素に頭のいい田辺が全信頼を置くだろうか。馬券が当たらなければ、千寿はマンションに行かなかったかもしれない。行かなければ、弦は一人で待ちぼうけだ。
しかし現に馬券は当たり、千寿は田辺の思惑通り弦と出会った。どうしてか、田辺と馬券に踊らされている感が否めない。
競馬は賭博だ。結果が出てみないとわからない。けれどもし、この馬券が当たる確信を田辺が持っていたのなら――?
「いや……まさかな」
胸中に浮かぶ仮定が、肌を粟立たせたそのとき、場内にファンファーレが響き渡った。
馬達が一斉にスタートを切り、激しく柴を蹴りながらコースを疾走していく。観客の熱気は徐々に高まり、先頭馬が最終コーナーを回ると地響きのような声援が轟いた。
「すごい、わ、わ、千寿さん見て、見て!」
興奮しているのか、弦は声を上擦らせて千寿の肩を叩く。先頭から十六、二、十。上位三頭の後をピッタリと追いかけるのは、七番の馬。弦の予想は、十六、二、七だ。
「んなアホな……」
瞬きもせず見つめる先で、七番の馬がぐんぐんとスピードを上げていく。そしてその勢いは衰えることなく――三位の十番をハナ差で抜かし、ゴールした。
十六番人気が三着に食いこんだせいで、スタンド内を外れ馬券が舞う。歓声と怒声が爆発したように混ざり、場内は騒然となった。
「マジで、当てよった……」
呆然と呟いて弦と顔を見合わせると、彼は唇を引き結んで興奮を隠している。その表情をきっかけに高揚感が湧き起こり――千寿は弦の頭を、思い切り撫ぜまわした。
「……っやったなあ! よう当てた!」
「うん嬉しい! 馬さん、カッコいいね!」
「カッコええのはお前やっちゅうねん」
はしゃぐ弦が満面の笑みで馬券を差し出してくる。千寿は意味を訊くまでもなく、その手を押し返した。
「これはお前のんやろ」
「え……? 違うよ、千寿さんのだよ」
「当てたん弦やから、弦のんや。ほんで、これもな」
田辺に渡された馬券も、弦の手に重ねて乗せた。払い戻しが可能な期間に田辺へ返すことができればと思っていたが、的中させた弦に返すのが妥当だろう。
「一緒に払い戻しして来い。貯金するなりパーッと使うなり、お前の好きにしたらええ」
じっと二枚の馬券を見つめる弦は酷く困惑していたが、やがて首を傾げながらも頷いた。
その日をきっかけに、千寿は弦を連れて頻繁に外出するようになった。仕事が早く終わった日は外食や買い物に。先週の日曜はいつものルーティーンを休み、映画館と水族館へ遊びに行った。
弦も少しずつではあるが、あからさまな遠慮をしなくなってきている。自分の希望を口にし、千寿の甘やかし癖を甘受して素直に喜ぶ姿は癒される。抱き寄せたいのを堪える苦行は、遠い昔に経験した片思いに似ていた。
静かな自宅でビールを片手に天井を仰ぐ千寿は、目を閉じて弦を思い浮かべる。そして甘酸っぱい感情を慰め――不貞腐れた。
「つまらん……」
同居を始めて一カ月。どうやら千寿の日常には、弦が不可欠となっていたらしい。
彼がゼミの勉強会で一晩家を空けると知ったときは平気だったが、一人の夜がこんなにも味気ないものだと思わなかった。
晩酌用の弦お手製焼き鳥を齧り、テーブル上の置手紙を見つめる。夕飯のおかずを温める分数や、予約してくれた湯張りが完了する時間、着替え一式の場所に明日の朝のことまで、事細かに連絡事項が綴られている。
「……もうこれ、ただの天使」
成人間近の男を指すには薄ら寒い表現だが、それ以外に妥当な比喩が見当たらない。あの手この手で甘やかしてもそれを当然と思わない謙虚さは非常に好ましく、募る好意に拍車をかけていた。
千寿が書き置きの下部にある「早く帰れるようにするね」という文字に鼻の下を伸ばしていると、ベッドに放った携帯が着信音を鳴らし始める。
発信者は今しがた千寿の脳内をジャックしていた青年で、すぐさま通話ボタンを押した。
「おう、どないしたん」
『あ、遅くにごめんね。あのさ、ちょっと見てほしい物があるんだけど、いい……?』
「ええで、なん?」
『俺の荷物にさ、茶封筒があるかどうか見てほしいんだ。持って出たはずなんだけど、探しても見当たらなくて……』
「待ってな。チェスト触んで」
耳に携帯を当てたまま、弦専用にした木製チェストの前へ移動する。だが引き出し内を探しても見当たらず、側面に掛けられたボストンバッグを開いた。物の少ない中に、大き目の茶封筒を見つける。
「あったで。紐で綴じとるやつやろ?」
『そう! 落としてなくてよかった……コピー取ってないから青褪めてたんだ』
「んまか。勉強会どないよ、頑張っとる?」
『うん。この間千寿さんがレポートの書き方アドバイスくれたじゃん? 教授がさ、性急さがなくなったって褒めてくれたよ』
「よかったなあ」
『うん!』
嬉しそうな弦を呼ぶ、学友らしき声が通話口の向こうから聞こえてくる。千寿は青春の一時に水を差さないよう、それからすぐに電話を切った。
「あ、おやすみ言い忘れた」
小さな後悔を胸に苦笑し、ボストンのファスナーを摘まむ。そのとき、茶封筒の下から覗く、褪せた深緑色の大学ノートに気付いた。
何気なく茶封筒をずらし、そこにあったタイトルを見て首を傾げる。
「飼育マニュアル? ……何飼うねん」
私物を勝手に触る罪悪感を振り払い、ノートを手に取る。使いこまれたそれは角が擦り減り、表紙の所々に薄く折り跡がついていた。
好奇心に誘われて表紙を捲った千寿は、眉を寄せる。そこには何故か、弦の名前から始まり、生年月日や身長体重、実家らしき住所、学歴などが綴られていた。まるで、飼育対象が弦だと言わんばかりに。
しかし暫くはまだ、友人間でふざけて書いたもの、で納得できる内容だった。だがページ数が片手を越えてから、あながち認識が間違っていないことを知る。
――粗相はしない。叩いても怒らない。主人に盲目。待てが得意。放置は慣れっこ。無駄吠えしない。連れて歩くには打ってつけ。強請れば貢ぐ。
――耳の裏が弱い。イラマは平気。緊縛は怖がる。痛みには反応しない。オナホとしては及第点。後ろは感じない。ラブドールとしては粗悪品。
――要調教、開発。
過激な文言が指すのは、どう考えても人間だ。一ページ目の個人情報と照らし合わせれば、それが弦であることは明白だった。
「……ん、やねん、これ」
歯を食い縛り、行き場のない苛立ちのまま唸り声を上げた。破り捨てたい衝動に駆られるが、僅かに残った理性が止める。
千寿はノートが悪質な冗談であることを願い、怒りを堪えてページを捲り続けた。
しかし仄かな期待は、全ページ中三分の二ほどの空白ページを挟み、裏表紙だけになって打ち砕かれる。
太マジックで大きく書かれているのは「予防接種済み」の文字。その意味を思案したのも束の間、視界が赤く染まった気がした。
下部には「捨てるときは次の飼い主を探すこと」と、赤字に二重下線で強調された侮辱があったからだ。
千寿は叩き潰す勢いでノートを閉じ、長い息を吐き出してから茶封筒の下へ戻す。
床に置いていた携帯で最新の着信履歴に発信すると、数コールで弦が出た。
『もしもーし? どしたの?』
「なあ、お前……」
飼育マニュアルってなんや。誰が書いた。なんでこんなもん持っとんや。いつから、人としての尊厳を踏みにじられとったんや。
訊きたいことは山ほどあった。しかし弦の声を聞いて冷静さを取り戻した千寿は、勢いだけで発信した己を恥じた。
「……いや、そろそろ寝よか思たんやけど、おやすみって言うん忘れとったから」
こんな話を電話でするべきじゃない。彼を傷付けたとき、すぐ抱きしめられる距離でないといけない。逸る気持ちを抑え、普段通りのトーンで誤魔化す。
すると弦はクスクスと、軽やかな吐息で千寿の鼓膜を震わせた。
『実は……俺もね、同じこと思ってたよ。お揃いだね、嬉しいなあ』
千寿は一気に体中の毒気を抜かれるような、甘い脱力感を覚えた。瞼を閉じると彼の柔らかい笑みが見える。さっきまで煮えくり返っていた腸はすっかり常温に戻っていた。
「……一緒におると似てくんねん」
『それ夫婦の話だよ?』
「なあ弦、俺のお願いも聞いてえな」
『ん?』
囁くように言った千寿は、今抱いている感情がどうか、彼も同じであれと願っていた。
「朝、電話で起こしてくれん? 顔見られん代わりに」
弦は一瞬口籠り、照れ隠しか、いつもの気の抜ける笑い声を立てた。
『うへへ……っ、えと、嬉しい。俺も寂しかったから……うん、もちろん』
「目覚まし、かけんと待っとるから」
『うん。ありがと、千寿さん』
幸福に満ちた声の「おやすみ」を、目を閉じて聞き入り、同じ言葉を返して通話を切る。
そのまま床へ転がり、両瞼に腕を乗せた。
「……絶対、ややこしいんやけどなあ」
不審なノートも、彼がここに来るまでの経緯も普通じゃない。狡い理性は走り出す感情にブレーキをかけるが、とうに加速して勢い付いていた愛しさを引き留めるには至らない。
弦に恋焦がれる気持ちは、誤魔化せないところまで成長していた。
千寿は「よっこらせ」と掛け声を付けて起き上がり、忌々しいノートの入ったボストンを睨んで嘲笑を浮かべる。
「見とれよ。お前は……弦に捨てさせる」
昔から、その場で足踏みをするのは苦手だ。
進みたい道も、すべきこともわかっているのなら、繊細なフリをして迷う必要はない。
「ややこしい程度で、手離したりするかい」
彼を想って囁きかけた言葉は、千寿自身が驚くほど甘ったるく響いた。
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