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3・期間限定のペット
あくる日、支部長室に呼ばれていた千寿は、定時からきっかり一時間後に退社した。オフィス街を歩きながら、凝った肩を拳で叩く。
つい十五分ほど前には、弦から帰宅を知らせるメッセージが届いており、駅前のケーキ屋に行くか思案している。問題は店内に足を踏み入れた千寿が、充満する甘い匂いに耐えられるかどうかだ。
最終手段としてマスクの購入を検討していると、背後からリズム良くコンクリートを叩く足音が近付いて来た。
「おーい、千寿! 待てって!」
振り返った千寿は、駆け寄ってくる酒井を見て立ち止まる。
「お疲れ。なんよ」
「聞いたぞ。すげえじゃん」
彼は乱暴に千寿の腕を叩き、誇らしそうに腰へ手を当てる。そうして続いた言葉は、先ほど上司から知らされたものと同じだった。
「お前、急遽本社に異動するんだって? オフィスがその話で持ち切りだったぞ」
「俺の才能を失うことに絶望しとったやろ」
「開発課の奴ら顔死んでたわ。でもなんでこんな急? 準備期間ほとんどないんだろ?」
「本社のサトリ新入社員が集団辞職やと。おかげでここに通うんも後一週間弱や」
「俺の部下、打たれ強い宇宙人でよかった……っと、ヤバイ、これから接待だから行くわ」
腕時計を見るなり慌てた酒井は、それでもはしゃいだ様子で「送別会してやるよ」と言い残して去って行った。
千寿は「飲みたいだけやろ」と、心にもない悪態を呟いて一人笑う。再び歩き出す道程は、もはや飽きるほど見慣れたものだ。
その日常も後少しとなれば寂しいものだが、栄転を祝福する仲間の顔は一層の自信をくれる。好きな仕事で認めてもらうのは有難い。
今夜は弦とたくさん話し、最後に異動の話を加えたとき、彼もまた笑顔を見せてくれることを願っている。柔らかい微笑みのまま、間延びした声で褒め言葉を形にしてくれれば言うことはない。千寿がそんな、甘い妄想に浸っていたときだった。
向かいから歩いてきた男が進路に立ち塞がり、千寿は一瞬爪先を迷わせたが道を譲る。
しかし男は何故か千寿の手首を掴んで引き留め、慣れ慣れしく顔を覗きこんできた。
「美人だけど、気の強そうなところはマイナスかな。僕は綺麗で従順な子が好み」
ジロジロと値踏みされる不愉快さに眉根を寄せた千寿は手を振り解き、返事をしないまま歩き出す。頭のおかしい人間とは関わらないに限る。余計な波風を立てる労力は無駄だ。
千寿はあからさまに歩を早めるが、ある名詞を聞いて足を止めるしかなくなった。
「ねえ、弦は元気? 千寿慶樹さん」
靴底が地面に吸いつかれたように動かない。数秒沈黙し、不審な男を振り向いた。
「お前、誰や」
白シャツと黒のパンツに、スッキリと整えられた焦げ茶の短髪。清潔感の漂う優等生然とした出で立ちの男は、精悍で男らしい顔を歪めて笑顔を作る。
「弦の初代飼い主、って言ったら伝わる?」
欺瞞に満ちた眼差しを隠しもしない男に、嫌悪感が溢れ出す。
「悪趣味やな。勝手に調べんといてくれる?」
「この僕がやっと日本へ帰って来たのに、弦が中々捉まらなくてさ。まさかこんな美人に養ってもらってるなんて、ねえ?」
「で、用は?」
「つれないねえ、せっかちなんだ」
「で、用は?」
「……あんた、弦とは大違い。あんたを説明するなら絶対、最初のページに可愛げがないって書くよ。後、観賞用には最適、かな?」
千寿の目が吊り上がる。脳裏を過ぎったのは、昨夜見つけてしまった気分の悪いノートの存在だった。
「もしかして、あれ書いたんお前か?」
「よくできてるでしょ。あれ見たら弦の生態が丸裸。便利だった?」
「……予防接種って、なん?」
「前の飼い主に訊いてないの?」
男の顔に浮かぶ優越感は、千寿の怒りを消すほどにくだらない。踵を返して歩き出すが、再び手首を掴まれて反射的に舌を打った。
「……っんやねん、触んな」
「怖。弦はそんな風に怒らないのに。まあ甘やかされて育ったらしくて、最初は甘えたがりで大変だったんだけどね、躾るの」
おおよそ同年代の男へ向けて使うべきではない言い草に、強く男を睨みつける。
男は「わかったって」と言って肩を竦め、手首を離した。
「知ってるよね。ワクチンって病原体そのものを弱体化させて作るんだよ。僕が何を予防したか……教えてあげよっか」
幸福な記憶を辿るように、男は子ども染みた眼差しを己の右手に注いで指を折る。
「誕生日は無視する、浮気現場に遭遇させる、適度に殴る。たまに甘やかしたげるけど、飴は少ない方がいい。上手にしゃぶれたときは、ちゃんと褒める」
頭痛がして、こめかみを押さえる。何も言わない千寿へ、男は上機嫌に続けた。
「三回苛めたら一度優しくキスしてあげるんだ。そうやって少しずつ慣らしてくとね、弦はすごく従順になった。まあ、元の素直な性格も一役買ってるだろうけど……どこに出しても恥ずかしくないペットになったっしょ」
「お前……好きな奴に、ようそんなこと」
「好き? 僕が? ヤダよ気色悪い」
千寿は男が吐き捨てた一言に絶句する。
「……今、なんて?」
「男と恋愛なんてゴメンだよ。けど、弦って結構役に立つじゃん? パチンコ連れてくと負けなしだし、また引き取ってあげてもいいかなって。そろそろ邪魔でしょ?」
口角を上げる男は、自分の行動言動に一切の罪悪感を覚えていないようだ。
千寿のスーツの胸ポケットへ、男が折り畳んだ紙を捩じこむ。取り出して見ればそこには、携帯電話の番号が綴られていた。
「用意周到な……」
「僕の親切心だよ」
一生かかっても、千寿は男に理解を示せない。それだけわかれば、この場から去る理由は十分だ。
「ふざけたことばっか、ぬかすなや」
手の中にある紙を躊躇なく破る。二枚に分かれた紙を重ね、また破り、再び重ね、破る。
可能な限り繰り返す動作を、男は止めるでもなく嫌味な笑みを浮かべて見ていた。
「へえ、結構勇ましいんだ」
「今後一切、弦に関わんな」
「僕はいいけど、弦はどうかな。僕に惚れこんでたし、っ」
紙屑を投げ付けられた男が顔を凶悪に歪め、舌を打つ。しかし背を向けた千寿に暴言を吐くでもなく、明るい声を張り上げた。
「そうだ。『うちの』弦によろしくね」
千寿の耳に、嫌味たらしい挨拶は届かなかった。ただ前へ、前へと弦が待つ自宅へ急ぐ。
帰宅した千寿は三和土に並ぶ弦の靴を見て安堵するが、部屋は暗く、物音一つしない。
「弦……?」
疲れて眠ってしまっているのだろうか。
声をかけながら廊下を進み、リビングの明かりをつける。すると、こちらへ背を向けて床に正座している弦が視界に飛びこんできた。
「返事してえな。……なんしとん?」
微動だにせず俯く弦の背後から、なんの気なしに彼の手元を覗く。どうやら携帯のメッセージアプリを開いて固まっているようで、即座に画面から目を逸らした。
「弦、弦て」
肩を叩いて名前を呼ぶと、さすがに気付いた弦が弾かれたように顔を上げた。
「は、え? あ、お帰りなさい!」
弦は明るい笑みの傍ら、左手で携帯画面を隠し右手で電源ボタンを長押しする。千寿はその行動を認識しつつも、何も言わず頭を撫でてやった。
「ただいま、お帰り。賢なったか?」
「多分ね。勉強、討論会、勉強の繰り返し」
撫でる手へ嬉しそうに頭を寄せる仕草を見ていると、昨夜見つけたノートと、それを書いた男の顔が浮かぶ。
本当は、何も知らないフリで弦を傍に置いておく方法もあった。そうすれば過去を話させることも、それによって傷付けることもない。だが千寿は、弦が好きだ。
好きだから知りたい、困らせる存在を遠ざけたい――そう思うのは、当然だった。
「弦、あんな……お前に訊きたいことが」
「あ、あーそうだ、ご飯作らなきゃねー」
切り出しかけると、弦が慌てて立ち上がる。隠しごとは下手なようで、動揺は明らかだ。
千寿は何かを察しているその様子を可哀想に思ったが、弦の腰を抱いて引き留めた。
「今日はええよ。後で弁当買いに行こ」
言いながらベッドに腰掛け、弦を隣に座らせた。彼は逃げる素振りこそ見せないものの、不安そうに「困る」と言う。
「何が困るん?」
「俺の仕事、減っちゃうから……」
よく見ればくっきりとした涙袋の上に、水気が溜まっている。千寿は堪らなくなって、ふわふわの頭を腕の中へ引き寄せた。
「泣かんでええやん。お前、家政夫ちゃうぞ」
「……じゃあ俺、何でいたらいいの?」
消え入りそうな声で言うから、頭で考えるより先に口を開いていた。
「何ってそら、お前……」
しかし我に返り、口ごもる。「恋人」と続けたいのは山々だが、それには弦の気持ちが伴わないといけない。勢いで押し切るための無鉄砲な未熟さは、とうに失っている。
千寿は弦の柔らかい髪に頬を寄せ、口説きたがる欲求をいなした。
「……慣れたって、言うたよな。そんなに捨てられてったんか?」
「な、に……いきなり……」
「弦は……なんで、こんな生活しとん」
腕の中で、ビクリと弦の肩が跳ねた。千寿は強張りを撫でて慰める。
「言いたないんやったら、訊かんとこ思てたけど。そうも言うてられへんなった」
「……どして?」
「弦が好きやから」
千寿の告白に顔を上げた弦の目が、まん丸でコロリと落ちそうなほど見開かれる。
まるで幽霊か何かでも見つけたみたいに、顔全体で「信じられない」と表現していた。
「なんで……?」
「なんでって。アカンの?」
「だ、だって俺だよ? 好きになってもらえる要素ないのに」
自分を卑下する言葉は撤回させたいが、千寿は戸惑った。弦には卑屈さがまるでなく、ただ本当に不可解で仕方ない、とでも言いたげだったからだ。
だとしたら好意をいくら言葉にしても、真実として届かないかもしれない。千寿はフラれるより悩ましい状況に溜め息を吐いた。
「それはまた今度な。もうええって言うくらいじっくり教えたるから」
「へあ、ああ、うん?」
「今はそれより、お前がなんでこんな生活しとんか、吐いてもらおか」
「ドラマの刑事さんみたいでカッコいいね」
「はぐらかすな。……逃がさんぞ?」
弦は気まずげに口を閉じる。しかし暫く沈黙した後、心許なさそうに千寿の腕の中から離れた。
「俺の初めての恋人は、高三のときついてくれた家庭教師の先生だったんだ」
おずおずと切り出した弦は、淡い溜め息を零す。
「俺、その頃やっと恋愛対象が男なんだって自覚してさ。受験勉強が手につかないくらい、衝撃で……気付いて相談に乗ってくれたのは、先生だった。先生もゲイだったらしくて、なんか付き合うことになったんだけど。先生が大学で働けることになって……引っ越すからって、ポイって捨てられちゃったんだよね」
「それ、まさか受験の真っ只中?」
「まあ、そう。でも問題はその後で……初彼に舞い上がってた分、ショックがヤバくて、親に話しちゃったんだ。親もさすがに戸惑ってさ、すごい、腫れもの触るみたいに接してくるように、なって……なんで言ったんだろうって、自分の浅はかさを呪ったよ。妹も多感な時期だったし、俺いない方がいいって思って家を出たんだ」
自分がつらいから、と言わない弦は、どこまでも人を優先する癖があるのだろう。希望をのみこむ我慢強さは、兄として育った性質かもしれない。
「でね、一人暮らしに慣れてきた頃……サークルの集まりである先輩を紹介されたんだ。……えっと、よくわからない内に付き合うことになっててね?」
「お前それ二回目……」
呆れる千寿の脳裏に、腹の立つニヤケ面が浮かんだ。確かめる術はないが、その先輩とやらはオフィス街で声をかけてきた男だろう。
「ほんで?」
「その人は……殴るし、お金にも時間にもルーズだし、浮気もするし、俺のアパート勝手に解約して家財売っちゃうし」
「ちょお、待って、思てたよりクズい」
思わず口元を引き攣らせるが、弦は苦々しく笑うだけで否定はしなかった。
「根っからの悪人じゃないとは思うんだけど。……でも先輩が、カナダの姉妹校に留学する代表生徒に選ばれたんだ。結果が残せれば、帰って来ないかもって……それでまあ、置いて行かれたんだけど、その代わり、俺の面倒を知り合いにお願いしてくれてて……その」
弦は一度伏せた視線で、怖々と千寿を見上げる。猫背になって頼りない姿は、千寿が怒っていないかを確認しているようだった。
「千寿さんに会うまで三人、俺を住まわせてくれた人がいたよ。皆すごくいい人で、優しくて……才能もあってさ。一人目は結婚が決まって、二人目は夢が叶って、田辺さんは」
「昇進が決まってニューヨークに栄転か。その度に捨てられたから、慣れた?」
コクンと一度頷いて、弦は俯く。
「皆、たった数か月一緒にいただけなのに、俺が困らないようにって次の人を探してくれた。俺は俺で、一人でもどうにかなるくせに、一人は寂しくて、ついズルズル……」
沈みゆく弦の頭を撫でてやりながら、千寿は様々な憶測を脳内で組み立てていた。そして飼い主面の傲慢な男が言った「弦をパチンコに連れて行くと負けない」という情報を加えれば、ある仮定が弾き出される。
家庭教師の就職先が決まったのを皮切りに、先輩とやらは留学、一人目の男は結婚、二人目の男は夢が叶い、田辺は昇進栄転、そして千寿も支社から本社への栄転が決まった。それも、弦と過ごすようになって数か月以内に。
嘘のような話ではあるが、弦が所謂アゲメンという存在だとしたら納得がいく。
そして田辺は、そのことに気付いていたはずだ。弦が適当に言った数字で買った馬券は、当たれば田辺の思うように物事が運ぶ。実際、万馬券に驚いた千寿はすぐさま書かれていた住所地に向かい、そして弦と出会っている。
彼は弦によって高まった運を使い、千寿を動かしたのだ。弦を大切に思うが故に。
「そんなこと、ありえんのか……?」
まるで夢物語のようで確認するには躊躇うが、辻褄は合う。
千寿が難しい表情で思案していたからか、弦は不安げに怖々と見つめてきた。
「軽蔑、した?」
千寿は薄く笑み、首を振った。
「んなわけないやろ。せやけど、気になることはある」
「何?」
「その家主らと、付き合うとった?」
「そんなわけないよ。あんな素敵な人達に、俺じゃ釣り合わない」
「ふうん。ほな、俺が口説くんは問題ないな」
「え、あ、あるよ!」
「なんでや」
両手で弦の頬を包み、軽く潰す。目が合うと、未だに薄すらと水気を帯びる瞳が泳いだ。
「だって……千寿さんに俺じゃ……」
「しょうもないこと言うたら頬っぺた摘まむ」
「や、や、頬っぺたって何それ可愛い……あいたたった!」
下手すぎる話の逸らし方をするから、一思いに頬を摘まんでやった。少しして解放してやると、弦は情けない声を絞り出す。
「ひ、酷いい……寄せたり引いたり……」
「あれや、お前。自分に自信なさすぎ」
弦は否定しなかった。
次々に捨てられた経験が、弦の心に影を落としている。誰かに尽くしたがるのは、誰かに必要とされたい、愛されたいと願うからだ。
「……まあ、ええよ。お前が信じようと疑おうと、俺の気持ちは変わらんから。信じれたとき、返事くれたら」
「でも、千寿さんは……」
遠慮がちに千寿の膝上へ手を置いた弦は、最後まで口に出すことなく目を伏せた。明らかに何かが引っ掛かっているくせに、それを千寿へぶつけようとはしない。
彼には彼なりの順序や、気持ちの整理が必要だろう。あの男との接触があったことや、異動の件まで今話すのは酷に違いない。
時間ならたっぷりある。
思うように口説けない歯痒さも丸ごと愛しく思う千寿は、弦の目元にかかる長めの前髪を耳にかけてやった。
「俺な、好きな奴を甘やかす癖があんねん」
「……?」
「多少の無理しても構うし、欲しいもんは買うたるし、我儘聞くん楽しいし、とにかく可愛がりたくてな」
「う、うん」
「そしたら段々と相手にとって甘やかされるんが当たり前になってきてな……めっちゃ疲れるんや。満タンやった愛情が空になって、一緒におんのがしんどなって別れる。勝手で、最悪な男なんや」
そんな千寿だから、わかることもある。
あの男が弦に施した根深い「躾」は間違っている。一方的に尽くすことを「義務」だと刷りこまれた弦が、可哀想だった。
「せやからお前が俺を好きになってくれたら、今度は与え合える関係になってみたい」
「……ごめん、よく、わかんない。優しくしてくれて、家に置いてくれる千寿さんに、俺がなんでもしたいって思うのは、与え合える関係じゃないの?」
「似とるけど、ちゃうな。……ゆっくり考えたらええ。待つし」
ちっとも嫌がらないから、今度は弦をしっかりと抱き寄せる。腕の中で頷いた弦が、消え入りそうな小声で「怒ってる?」と問うた。
千寿は嗅ぎ慣れないシャンプーの香りから弦の匂いを探すように、髪へ鼻先を埋める。
「明日可燃ゴミの日やろ。あれ、捨てとけよ」
なんのことかと、顔を上げた弦の目が丸まっている。純粋で、不思議なほど綺麗な瞳だ。
千寿は腕の中の男が、無邪気に幸福を知る日を深く願った。もちろん、傍にいるのは自分がいい。
「飼育マニュアル」
ただでさえ丸まっている瞳が、驚愕に大きく見開かれた。僅かに絶望すら漂っているように思え、穏やかな声で言い聞かせる。
「ごめんな。昨日たまたま見つけたんや」
「そう、だったんだ」
「もういらんやろ。捨てとけ、お前の手で」
私物を覗き見てしまった千寿を、弦は咎めなかった。その代わりにか、上着の裾が皺になるほど強く握り締められる。
「ごめんね、千寿さん」
か細い謝罪が何に対してか、推測する材料はない。だから千寿は、彼自身から胸の内を語ってくれる日が来るよう、自分より若干大きな男を大事そうに抱きしめた。
「謝るより、好きやって言うてほしいわ」
弦は素直だ。傍で愛情を注げば想いは通じる。好かれている手応えも十分だ。千寿はそう感じていたし、信じて疑わなかった。
――しかしそれは千寿の自惚れで、己への過信だったのだろうか。
GW休暇に入る前日の、夕方のことだった。
本社への異動を休暇明けに控えたその日、千寿は社の計らいで昼に退勤し、所用を済ませてから自宅マンションへ帰った。
そして玄関扉を開けてすぐ、座って靴を履く弦と出くわしたのだ。
「え、千寿さん……?」
ポカンと口を開ける弦の傍には、パンパンに膨らんだボストンバッグがある。瞬間的に、彼が出て行くつもりなのだと察した。
「……、お前」
住宅街を走る車のエンジン音や、買い物帰りの主婦グループの笑い声が遠くから聞こえる。自分の発した声さえも意識の外にあり、千寿は瞬きを忘れた。
「どこ行くねん。そんな、荷物持って」
「それ、は」
千寿の厳しい視線に晒されながら、弦は靴を履き終えて立ち上がる。
「えと、おめでと」
状況にそぐわない笑顔はよく見れば、張り付けただけだった。
「すごいね、本社に異動するんでしょ? さっすが千寿さん」
「待てや、なんで知っとんねん、まだ……」
疑問はしかし、苦笑した弦が答えをくれた。
「この間話した……先輩から連絡きてさ、知ってたんだ。なんか……ごめんね、調べるとか、勝手にしてたみたいで……俺のせい」
調べられていたのは知っていたが、あの男が弦にコンタクトを取っているかもしれない、という点を失念していた。どうも油断していたようだ。内心で舌を打ち、苛立ちを殺す。
「ほんで? ここ出て、先輩んとこ行く?」
「……」
「へえ……図星か。なんやねん、それ」
冷たく言い放った千寿から目を逸らし、弦が顔を歪める。いつもの笑顔が嘘かのように、甘い顔立ちが苦悶を表現していた。
「……かに、行くとこ、ないし」
「あ?」
「栄転、なんでしょ。異動したら、ここから……いなくなるんでしょ」
ポロリと零れた非難が千寿を冷静にさせた。
瞬時に計算を巡らせ、軽薄な態度を作る。
「せやったら、なんなん?」
「……っ何って、そしたら俺邪魔じゃん、なんで言ってくんなかったの? 待ってたのに、千寿さんの口から言われたら、そしたら俺は」
「今までみたいにニコニコ笑って、『じゃあね』とでも言うたんか?」
息をのんだ弦が、我に返ったように口を手で覆う。瞳に宿る狼狽は、己の失言を酷く後悔している。
けれど、千寿は安堵していた。
玄関内へ入り、後ろ手に扉を閉める。後ずさった弦は踵を段差に引っかけて廊下へ尻もちをつき、不必要な謝罪を零した。
千寿は彼の面前へ膝を着き、思春期の名残すらない滑らかな頬に指を這わせる。
「ようできました。言えるやん、文句」
「何、言って……」
「確かに休み明けから本社勤務や。けど俺は、お前を捨てる気ないから。……行くなや」
弦は何か言いたげに唇を震わせたが、声にしないまま下唇を噛んだ。千寿は噛みしめるそこを親指で撫で、顔を近付ける。
しかし唇同士が触れる寸前に、弱い力で胸元を押し返された。
「引き留め、て……くれるの……?」
どうしてか、弦が切なげに微笑んでいる。
そんなことは望んでいない。そう言われたような気がした途端、彼の心を手繰り寄せる言葉が見つからなくなった。
「千寿さんは……面倒見いいし、すごく優しいけど、それだけじゃ、そればっかりじゃ駄目だよ。馬鹿を見るよ」
「……何が言いたいねん」
「無理してほしくないんだ」
弦が立ち上がるのを、千寿は止めなかった。
愛情を伝える言葉も行動も、今の弦にとっては全てが「社交辞令」なのだと悟ってしまったからだ。
「無理しとるように、見えたか」
「疲れちゃう、でしょ。なんにも返せないのに、千寿さんは俺に優しくしてばっかだ」
「……それでもええって言うたら?」
「ダメ。お……れが、俺を、許せなくなる」
綺麗ごとは、彼を引き留めるほどの効力をもたない。額に手を当てて項垂れる千寿は、無意味な時間稼ぎを嘲笑った。
愛情とは見返りを求めるものか、求めないことか。哲学には明るくないが、千寿にはどちらも平等な愛に思えた。
弦に与えられた愛情で幸せに微睡む日がくることを願っている。しかし、ただ傍にいてくれればいい、と思う気持ちも嘘じゃない。
それでも、一つ断言できる。
千寿は弦が安心しきった顔で寄り添ってくれるだけで、嘘偽りなく幸福だった。
「……行ってまうんか」
ボストンバックを持ち上げた弦が、遠慮がちに千寿の頭を撫でた。広くはない玄関で、彼は千寿を避けて扉へ一歩近付く。
結局、千寿は彼の仮宿にしかなれなかった。
「……知らんかったわ。捨てられんのって、こんな悲しいもんなんやな」
背後で小さく、乱れた呼吸音が聞こえた。
零れ落ちた嗚咽のようなものが、都合のいい幻聴かどうか確かめる勇気はない。
こんなにあっさりと彼との別れがやってくるなどと、考えもしなかったせいだ。
それでも、愛しさが消えるわけではない。
「お前と……ずっと一緒におりたかった」
喪失感と共に、千寿の年上のプライドは影も形もなくなったようだ。
千寿は自分の見た目が人に「か弱そう」だの、「気位が高そう」だのという印象を与えると知っていたから、普段から図太くて自信家の、頼り甲斐ある男であろうとした。その理想に産まれ持った器用さが着いてきてくれたから、事実いつでも頼られる側だった。
だが、このつらさは取り繕えない。左胸の奥が痛むのは、そこに増え続けている愛情が渡す当てを失うことに怯えているからだ。泣き言を口にする情けなさより、襲いくる寂しさの方が容赦なく千寿を苦しめる。
その苦痛も、やがて聞こえた扉の開閉音で慰めを失くした。
「……やっぱり、好きになんの、向いてへん」
千寿はノロノロと部屋へ入り、ベッドへ倒れこんだ。
仕上がったプログラムのバグを探すときのように、弦に対する己の過ちをデバッグしていく。よかれと思ってかけた言葉も、喜んでほしくてやったことも、今となっては自己満足に思えて仕方なかった。
年上ぶった余裕の告白が、彼の心に届かなかったのも無理はない。格好つけて待つくらいなら、見苦しくても真摯な本音を囁き続ければよかった。弦と過ごす日々が無限であると思いこんでいた。千寿は恋に浮かれて、まわりが見えていなかったのだ。
千寿はたっぷりと時間を使って呆けた後、起き上がってバッグから小さな白い紙袋を取り出した。国内時計ブランドのロゴが印刷されたその中には、さっき買ったばかりの腕時計が収められている。
「誕生日やのに……祝ったれんかったな」
すっかり無用の長物となった贈り物を包装箱から出す。ゴミ箱へ入れるかどうか悩んだが、考え直して帰って来るかもしれない、という卑しい期待が躊躇いを生んだ。
仕方なくテーブルへ時計を置いた千寿の視線が、弦の木製チェストを捉える。ベッドを離れてチェストの前へ腰を下ろし、上から順に引き出しを開けていった。
空が三段続き、四段目には貸していたシャツが丁寧に畳まれていて無駄に傷付く。懲りずに一番下段を開けた千寿は、捨てさせたはずのある物を見つけて眉を寄せた。
シンプルな、深緑色の大学ノートだ。忌々しいタイトルは視界に入るだけで心苦しくなったものの、手に取って捲っていった。
以前と同じく弦の個人情報から始まるノートには、変わらず目を逸らしたくなる内容が並んでいる。千寿はどうしてか、書いてある内容を否定しようと躍起になっていた。
――食べ物に好き嫌いはない。シトラス系の香りを好む。色はブルーが好き。
千寿の知っている弦は、豆腐が嫌いだ。食べはするものの顔が引き攣っているし、醤油を多量にかけて味を誤魔化している。
シャンプーを買いに行ったときはローズ系の香りばかりに興味を示していたし、服屋に立ち寄ったときは自ら「パステルピンクが一番好き」だと言っていた。
その他にも、千寿の認識と相違する記述はいくつもあった。妙な優越感で、口元が綻ぶ。
「あの男、弦のこと、なんもわかっとらん」
弦と過ごしたのは、たったの一カ月半だ。
きっと、今後も一緒にいればもっと色んな弦を知れただろう。それこそ、何故このノートを「置いて行った」のかも。
静かに読み進める千寿は、白紙のページに差しかかったところで新たに書きこまれている丸文字を見つけた。
「……アホめ」
何度も、追加された情報を読み直す。
繰り返し読んだ後で、込み上げる喜びに泣かされそうになり、目を閉じる。瞼の裏にいる弦は、屈託のない笑顔で笑ってくれた。
――千寿さんが好き。
弦の字で綴られた短い告白は、千寿自身が過ちだと結論付けた行いに花丸をつけ、項垂れている場合じゃない、と背中を押す。
千寿は記憶を漁り、瞼を開いた。
急いでスーツのポケットから携帯を取り出し、蘇った番号へ発信する。コール音はたったの二度で途切れた。
『誰?』
「ああ、千寿やけど」
その男は一瞬無言になり、嫌そうな声を絞り出す。
『……あんた、僕の番号破り捨ててたよね?』
「職業柄、英数字には強いねん。十一桁くらい一回見たら暫く覚えとるわ。それより……」
千寿には、思い通り物事が運ぶ自信があった。根拠を付け足すのであれば、この男が自尊心の高さを隠さないことと、弦の気持ちが未だ千寿の傍にあることだ。
「弦が家出したんやわ。多分そっち行くやろから、住所言えや。迎えに行く」
『僕が正直に言うと思う?』
「言うやろ。お前は」
聞き直さずに済むよう、手元にメモとペンを用意して唾をのむ。
訪ねて来た弦を、プライドが高い男は拒まない。見限られた千寿を嘲笑い、弦を手中に収めた気になるはずだ。
そんな男が、自分と千寿のどちらかを弦に選ばせられる舞台を嫌うはずない。わかりやすい優劣は、彼に快感を与えるだろう。
賭けたのは、弦との明日だ。ギャンブルは運よりも、情報と統計が大切なのだと教えてくれたのは、出会った頃の田辺だった。
だから、このヤマは外さない。
案の定、男は上機嫌で喉を鳴らし――千寿の望み通り住所を口にした。
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