1・千の寿と幸福のおすそわけ

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1・千の寿と幸福のおすそわけ

 千寿慶樹(せんじゅ けいき)の日曜日にはこの数年、ほぼ毎週揺るがないルーティーンがある。  朝は行きつけの喫茶店へ向かい、モーニングセットを食べながらスポーツ新聞片手に競馬の予想を立てる。満腹になったら競馬場へ車を走らせてレースを楽しみ、帰路にあるスーパー銭湯で風呂を済ませてからコンビニで夕飯を買い、帰宅するのだ。  友人は「二十代とは思えない」だの、「顔と生活スタイルが不整合」だのとうるさいが、他人からの評価で私生活を見直すほど千寿は繊細な性格をしていない。繊細なのは女性も羨む肌の白さと、人より多い黒子、そして睫毛の長いアンニュイな顔立ちだけだ。その儚い印象も、自他共に認める口の悪さが台無しにしている。もちろん、改める気はない。  週のほとんどを仕事と残業に費やす千寿には何年も恋人がおらず、休日を少ない趣味に注ぎこんでも文句を言う人はいない。  だからこの日曜も飽き飽きするほど平和に、怠惰に消費されていくはずだった。 「荒れとんな……」  喫茶店を出てから気まぐれに家電量販店を冷やかした千寿は、いつもより遅い時間に競馬場へやってきた。スタンドの最後列に座り、投げ捨てられた外れ馬券が踏まれて汚れていく様を見つめる。今日のレースはことごとく人気馬が沈んでいるようだ。  深夜までの休日出勤だった千寿はまだ疲れが残っており、パドックを見ずに競馬新聞記者の予想に乗っかる形で馬券を買ったのだが失敗だったかもしれない。  メインレースへの期待が薄れたところで、背後から誰かに肩を叩かれる。振り返るとそこには、ふくよかな顔に人の良さそうな笑みを浮かべた、年上の友人が立っていた。 「やあ、慶樹くん」 「おう、田辺さんやん」  千寿が左隣を指すと、田辺は春先だというのにハンカチでひたいの汗を拭きながら腰掛けた。 「久しぶりだね。元気にしてた?」 「田辺さんこそ。最近どこにも顔出さへんかったやん。みんなで心配しとってんで」  競馬場や馴染みのゲイバーで、毎週のように顔を合わせていたのは去年のクリスマス前までの話だ。約三カ月めっきり姿を見なかったが、一先ずは元気そうで安堵する。  だが四十手前のわりにハリのある横顔は、困ったように苦笑を作った。 「それがさ……ちょっと、なんていうか、ええと……お願いがあるというか……」  言い淀む素振りを見て、千寿は田辺の肩を軽く叩き、コース内に視線を投げた。 「ええで、急いてへんし、ゆっくりで。大抵のことは手え貸せるし」 「……頼もしいね。君くらい潔くて、男らしい性格だったら、ぼくは……」  田辺は神妙な面持ちで目を伏せ、千寿の手を両手で優しく包みこんだ。 「慶樹くん。やっぱりぼくは、君がいいよ」  丁度背後を通りかかった中年男性が、見てはいけないものを見たかのような顔で足早に去る。その様子を横目に、千寿は苦く笑った。 「どないしてん急に。照れるわ」 「慶樹くんは素敵な男性だよ。色白で色っぽいし、仕事はできるし……まあ、生活能力の低さと喋ると台無しなとこは愛嬌だよね」 「ちょお、褒めながらディスんのやめへん?」 「でも、面倒見がよくて責任感が強くて、人を大切にできる……そんな君じゃないと駄目なんだ」  田辺は千寿の手に、一枚の馬券を握らせた。  それに疑問を発するより先に、男の表情には切なさが浮かぶ。 「ぼくじゃ駄目だったけど、きっと君なら……無責任でごめん、信じてる。……さようなら」  祈るように千寿の手をひたいへ近付け、そっと解放する。そしてそのまま、田辺は席を立ち去ってしまった。 「え、……え?」  残された千寿は唖然と田辺を見送るが、馬券を見下ろし、裏返して眉を寄せる。 「……なんこれ?」  そこには住所と携帯番号が書かれているが、一頻り首を捻っても憶えがない。 「っていうかこの馬券、まず当たらんやろ……全盛期完全に過ぎた馬やん」  独り言に被さって、メインレース出走のファンファーレが響き渡った。  視線の先で馬達がゲートへ入り、鼻息荒く頭を上下に動かしている。  そして一斉に、スタートを切った。  ――ピピピ、ピピピ、ピピピ。  甲高い機械音に誘われて、枕元の目覚まし時計を力強く叩いた。弾みで床へ落ちた機械が黙りこむ。この行動のせいで数か月に一度は時計が壊れるのだが、心地良い眠りを邪魔する犯人には感謝以上に腹立たしさが勝ってしまう。特に休み明けの月曜は、怠さも相まって手加減ができない。  千寿は芋虫のように布団の中で俯せになり、寝惚け眼でベッドのヘッドボードから煙草とライターを取る。フィルターを銜えてオイルの減ったジッポを握ったとき、自宅に漂うはずのない香ばしい匂いに気付いて漸く目をきちんと開いた。  そして何気なく部屋を見回し――遅刻に気付いた朝よりも、勢いよく飛び起きた。 「な、おっ……はあ!?」  片付け下手な千寿の部屋は、残業続きの生活も合わさって荒れ放題だったはずだ。  しかしテーブルの上を陣取っていた空の弁当箱や灰皿に山盛りの吸い殻はなく、床に脱ぎ捨てたカッターシャツの代わりにきちんと座布団が敷かれている。  乱雑に積まれて埃を被っていたDVDや雑誌も、整頓されてテレビ台代わりのスチールラックに並べられ、愛用のスーツはハンガーで吊るされていた。  だが最も驚くべきは、片付いた部屋の有り様ではない。  千寿には使いこなせないカウンターキッチン内から、見知らぬ青年が、これまた見憶えのないフライパンを持ってこちらを見つめている――これ以上の驚愕があるだろうか。 「あー、目覚まし、壊れちゃったかなあ」 「は? え、いや、お前は……?」  口から煙草が落ちたのにも気付かない千寿は、皿にオムレツを移す青年を指差してパクパクと口を開閉する。完全にパニックを起こし、一切の現状がのみこめていない。  だが青年は首を傾げたかと思うと大きく頷いて、ニパッという効果音がつきそうなほどに無邪気な笑みを見せた。 「やだなあ、千寿さん面白ーい」  男は機嫌良さそうに流行りの歌を口ずさみながら、キッチンとリビングを数往復してテーブル上へ朝食を並べる。配膳が済むと、満足げにテーブルを挟んだ千寿の向かい側に腰を下ろした。 「おはよ、俺の飼い主さん。昨日のこと忘れちゃった?」  ――飼い主さん。  満面の笑みで言い放たれ、寝起きで曖昧な千寿の記憶が瞬く間に色形を取り戻す。 「……あ、ああ、そうや、昨日……!」  田辺に渡された馬券は信じられないことに見事的中し、万馬券へと姿を変えた。返すべきだが、田辺も、馬券裏の番号も繋がらず困り果てた末に、千寿は綴られていた住所へ車を走らせたのだ。  辿り着いたのは高層マンションの一室だった。その玄関前で、いくつかの荷物を抱えて座りこんでいた不審な青年が、彼だ。 「行くとこない言うから……連れて帰ったんや、俺が」  しかし不可解な状況に脳が順応できず、即席の寝床を用意した千寿はそそくさとベッドに入った。朝から心臓が飛び出しそうなほどの動悸に襲われる羽目になったのは、何もかもを後回しにしたツケだ。 「思い出した? 千寿さん、お人好しだよね」  図星を指された千寿は頭を掻き、朝食の匂いに誘われて座布団へ降りた。タイミングよく男が「どうぞ」と言うから、遠慮なくトーストを齧る。 「ほんで、なんなん? 簡潔に状況説明して」 「軽く掃除して、洗濯して、コンビニで買い物して朝ご飯作ったよ」 「アホかお前、ちゃうわ。飼い主ってとこ」 「あ、そっち?」 「そこ以外に何があんねん……」  キョトンとする男は今時の若者というより、垢抜けた青年という印象だった。緩く波打つ明るい茶髪は後ろで結える程度に長さがあるものの、汚らしさはなく洒落ている。  ピアスにネックレス、腕時計にブレスレットと、アクセサリー類のデザインは威圧的だが、その全てを穏和で愛嬌のある甘めの顔立ちが中和している。やや垂れ気味な目と涙袋が妙に色っぽく、こんな状況でなければ一度むしゃぶりついてみたいくらいだ。  そんな風に値踏みされているとは露知らず、青年は考えた末に首を傾げた。 「っていうか……田辺さんに言われたからマンションまで来てくれたんじゃないの?」 「なんも聞いてへんけど。あんなとこで座りこんどる奴、ほって帰られんやん」 「いい人すぎて怖い……」 「喧しいわ、ほっとけ。ほんで?」 「んっとねえ、俺、田辺さんに捨てられることになったんだけど。田辺さんが『千寿さん里親になってね』って意味で引き合わせてくれたはずなんだよね。ホントに何も言ってなかった?」 「捨て、……はあ? 里……いや、ホンマになんも、これ渡して消えたから」  千寿が財布の中に仕舞っておいた馬券を渡すと、彼はその裏面を見て笑う。 「これ、俺の番号だ」 「嘘つけ、繋がらんかったぞ? 田辺さんも繫がらんし、めっちゃ困ったっちゅーねん」 「田辺さん名義だから解約して、新しいの買ったんだ。もう迷惑かけられないしね」  あっけらかんと言いのけた男は馬券を千寿へ返す。「捨てられた」と言うくせに、どうも楽観的な態度だった。 「意味わからん……なんで田辺さんの元彼を回収せなアカンねん……」 「違うよ。お世話になる代わりに家のことしてただけで、付き合ってない」 「ん? ああごめん、お前ノンケやった?」  田辺と一緒に住んでいたと言うから、てっきり同類だと思っていた千寿は慌てて謝る。  しかし青年は気にした様子もない。 「んーん、今は女の子無理だから違う」 「ふうん……で、田辺さんどこ?」 「今頃はニューヨーク支部で副支部長になってるよ。すごくない? 超栄転!」  夢見がちな少女のように恍惚とした表情で、男は自分の頬を両手で包む。  ゲイ同士で暮らしていたが付き合ってはいない。捨てられたが気にしていない。離れ離れになったが悲しくない。男の反応を統括するとこうなるが、全くもって理解に苦しむ。  千寿は持ち帰った青年が変人である確信を得て、痛むこめかみを指先で揉んだ。 「つまり田辺さんにお前を返すんは無理で、お前は宿無しってことやな……?」 「そういうことになるね」  千寿はサラダを咀嚼しながら項垂れた。  いくらなんでも見知らぬ男を自宅に住まわせるのは非常識極まりない。だが脳裏には、田辺の切実な表情と言葉がチラついていた。 「田辺さん……不親切やわ……」  リラックス効果を求めて珈琲に口を付けると、青年はテーブルに肘を着き、千寿の顔をやけに愛らしい上目遣いで覗きこむ。 「田辺さんがね、千寿さんは口が悪いけどすごくいい人だって言ってたよ。俺に酷いことしたり、つらく当たったりしないから安心していいって。ホントだったね」 「ちゃうかもしらんぞ」 「ちゃうくないよ。田辺さんはその馬券一枚で、千寿さんがマンションに来るって確信してたんだから。あの人、意外と他人を信用してないタイプだったのに」 「はあ……あそ」 「ふふ。でも大丈夫だよ、すぐ出てくから。迷惑かけたりしない」  行く所がないと言ったくせに、男はのほほんと微笑んでいる。  千寿はカップを置き、腕を組んだ。田辺に倣って千寿を無垢に信用する青年が危なっかしく、放り出すのは躊躇われる。 「でもな……」 「ホントに平気だから、そんな顔しないで。慣れてるし」 「なんに?」 「捨てられんのに」  聞き流すには重苦しい言葉だ。他人事のような冷静さには、染みついた諦めが濃く漂う。要は千寿に、何も期待していないのだろう。  平穏な日々を過ごすためには、彼の意思を尊重するフリで不穏分子を排除すればいい。  しかし、昔から「拾う」のは得意だが、「捨てる」行為に激しい抵抗を感じる千寿は、選択肢が一つしかないことを自覚していた。 「……まあ、とりあえず、おりや。こんなとこでも、路頭に迷うよりマシやろ」 「田辺さんいないから気にしなくていいよ。きっと、どうとでもなるし……」 「もう、アホかお前。黙って頷いとけ」  友人の中で一番誠実で思いやりのある田辺が、「君じゃないと駄目だ」と頼ってきたのだから、一蹴できるはずない。初対面の男を一人居候させるくらい、友人の頼みなら屁でもないのだ。 「こういうときはなあ、ありがとう、言うとったらええねん」  青年は暫く千寿を不思議な生物でも見るような目で眺めていたが、やがて破顔する。 「へへ……っ。うん、ありがと千寿さん」  それはそれは無邪気で、愛嬌のある魅力的な笑顔だった。  その日の昼過ぎ、会社の喫煙ルームで食後の一服をする千寿は、青年が急遽タッパーに詰めて作った弁当を思い返していた。厚焼き玉子なんかは母親が焼いたものより千寿好みで、味を反芻すると涎が垂れそうになる。  産まれてこのかた料理という作業に嫌われ続けている千寿はつまり、久方ぶりの手作り弁当に感動していた。この分だと用意してくれるらしい夕飯も期待できるだろう。 「しっかしなあ……ええんか、これ」  独り言の合間に紫煙の輪を吐き出して遊んでいると扉が開いて、同期入社で営業部の友人、酒井が入ってきた。 「よう、我が社のエースプログラマー。今日のパンツ何色?」 「はー……。ふんどしじゃ、ボケ」 「その面倒臭そうな顔、お前に憧れてる女子社員に写メしていい?」 「ええけど、夜道歩くときは気い付けや」  男は快活な笑い声を立ててから、千寿の隣で煙草に火を点ける。  掴みどころのないふざけた男だが、不思議なほどに馬が合う。観察眼が優れており、千寿の性癖を言い当ててもなお、全く態度を変えないところも気が置けない理由だろう。 「前言うとった新入社員の教育、どない?」 「面白いよ。宇宙から日本に来て日が浅いんだって思うようにしたら、腹も立たないし」 「苦労しとんな……」 「千寿こそ、またソーシャルのヘルプで午前様続きだったって? 開発課の頼みの綱って言われてるらしいじゃん」 「断る理由ないし、俺、仕事早くて正確やから問題ないやろ」 「言い回しだけは可愛げがないな」  酒井は舌をベッと出してお人好しをからかい、お猪口を摘まんで呷る仕草をする。 「そんで本題。久々に飲みに行かない?」 「奢りならええで」 「俺のほうが薄給なんで無理ですう」 「白々しいですう。……あ」  千寿はおどけていたが、イレギュラーな青年の存在を思い出した。居候許可はしたものの、名前も知らない他人を自宅に置いて飲みに行くのは如何なものか。それに、夕飯も食べると言ってしまっている。  仕方なく刺身と日本酒の妄想を掻き消し、酒井に向かってムッツリと口を尖らせた。 「やっぱまた今度でええ? 早よ帰らな」 「いいけど、何、家で誰か待ってるとか?」 「……まあ」 「あら、慶ちゃんてば破廉恥! ……また面倒に巻きこまれてるわけじゃないよな?」  心配そうな酒井の顔に、つい苦笑する。 「またってなんや。失礼な」 「んん? 一昨年、彼氏メンヘラ化させて監禁されそうになったのは誰? 助けたのは誰? 他のトラブルも時系列順に言っとく?」  しなを作り、パチパチとわざとらしい瞬きで迫ってくる酒井へ、千寿は反論できない。  知人友人、更には親兄弟にまで「お人好しで世話焼き」だと形容される千寿は、加えて「恋人には特に甘い」という、ある意味悪い癖を持っている。  そのせいか、初めは千寿好みの頑張り屋で健気な恋人がどんどん我儘になり、傲慢になり……監禁未遂はさすがに一度だけだが、ヒモ化やストーカー化は慣れるほどで、その度に大変な思いをして別れてきた。  色恋沙汰から積極的に遠ざかっていた理由は忙しさだけでなく、己の恋愛下手を自覚したからだ。 「まあ……事情があんねやて。……あーもう、お前そのワクワクした顔やめえや」 「だって気になる。話すまで許さなーい」 「いやーんキモーい……近いっちゅうねん」  好奇心に満ちた酒井の顔を押し退け、灰皿へ煙草を放る。その手で二本目に火を点け、千寿は昨日からの出来事を話した。 「――……やからな、美青年が俺の帰りを待っとるわけよ」 「一応訊くけど漫画の読みすぎ?」 「しばくぞ。……頼まれた以上、追い出す気はないんやけどな。わからんことだらけで、正直対応に悩んどるんやわ」  困り果てる千寿を眺めていた酒井は、わざとらしく手の平に拳をポンと打ち付ける。 「食って付き合っちゃえば?」 「なんでやねんお前アホか」 「ちなみにお前の好み的に見た目は」 「ドストライク」 「よし決定!」  呑気な同僚の額をジッポの角で打つ。大袈裟に痛がるフリは無視だ。 「そういうのはもうええねん。疲れた」 「お前が甘やかし過ぎなんだろ。普通でいいじゃん」 「お前やって、可愛いなあ思たら滅茶苦茶に甘やかすやろ」 「え、全然? 飴チラつかせて鞭打つのが楽しいんじゃん」  爽やかな笑顔と台詞の似合わなさに、千寿はさりげなく酒井から距離を取る。 「ドクズめ……まあ、暫く様子見てみるわ。悪い奴やなさそうやし」  酒井が小声で「俺にも優しくしてー」と呟くのを聞き流しつつ、まずは今夜、夕飯でも食べながら彼の名前を訊こうと決める。  しかしその夜――千寿が会社を出たのは、日付が変わる寸前だった。  納品直前のプログラムが動作しなくなり、チームスタッフ総出で残業をこなした千寿は、疲れ切った身体をタクシーに乗せて自宅マンションへ帰り着く。  部屋がある六階の廊下からは、閑静な住宅街が見下ろせる。歩く人どころか明かりの灯っている家も少ない景観は侘しく、不貞腐れつつ凝り固まった肩を軽く回した。 「……さすがに寝とるわなあ」  青年と話す計画は後日に持ち越すしかなく、悶々としながら鍵を開けて部屋へ入る。室内は暗く、人が起きている気配はなかった。  一人暮らしにはかなり手広なワンルームだが、その間取りに仕切られた寝室はない。青年を起こすのは忍びないが電気を点けるしかなく、手探りでリビングの壁にあるスイッチを押した。  千寿は一瞬の眩しさに目を眇めたが、ふとテーブルを見て驚く。 「嘘やん」  手付かずの料理が並ぶテーブルの隅で、青年が腕枕に顔を埋めて眠っている。床には開いたままの参考書があり、ダラリと垂れた左手の先には黒いダンベルが握られていた。 「……マジか」  片手で両目を覆い、呟いた。胸に競り上がる感情は少年時代、段ボールの中で鳴きもせずに震える子猫を見つけたときと似ている。  当時の千寿は、子猫を見捨てられずに服で巻いて連れ帰った。以来十五年を共に過ごした愛猫の最期を看取った千寿は、より一層健気な生き物に弱くなったのだ。 「俺、こういうの、アカン……」  いじらしい様を見てしまっては、どうしても庇護欲をかき立てられる。千寿は男の傍にしゃがみ、気付けば頭を撫でていた。 「おーい青年。起きー」  染めているにも関わらず、男の髪は柔らかくて触り心地がいい。風呂には入ったようで、湿り気のある毛先を指に巻き付けて遊ぶ内、彼はゆっくりと目を開いた。  ぼんやりと瞬きを繰り返す青年の腹から、控えめに空腹を訴える音がする。その音にビクッと肩を跳ねさせた男は、勢いよく上半身を起こした。 「うぁ、ごめん、寝てた!」 「お、おう」 「お帰りなさい千寿さん、ごめんね、すぐご飯温め、っ……!?」  余程慌てているのか、立ち上がった男はダンベルに爪先を引っかけ、蹲って痛みを堪えている。  憐れに思った千寿は丸まった背中を撫でてやり、ダンベルをテーブルの下へ転がした。 「そない慌てんでもええやん」 「で、でも俺、寝てたし……」 「待っとってくれたんやろ? むしろ、ごめんは俺の台詞やし、ありがとうやし」  少し頼りない涙目が、不安そうに千寿を振り返る。 「怒んないの?」 「俺そんな顔しとる? 何に怒れ言うねん」  千寿が首を傾げると、青年は恥ずかしげもなく真っ直ぐに目を見つめてくる。やがて彼は、熱された砂糖が溶けゆくように、なんとも甘く匂い立つ笑みを浮かべた。 「……ん、そだね、千寿さんだった」 「? せやで」 「じゃあ一緒にご飯、食べてもいい?」 「当たり前やん。こんな時間まで待っとってくれて、ありがとうなあ」 「へへ。すぐ準備するね」  締まりのない笑顔で何度も頷く青年は、足の痛みを忘れたかのように立ち上がり、料理の盛った皿をキッチンへ運ぶ。  千寿は謙虚な台詞と嬉しそうな表情がツボに嵌り、床を叩きたい気分で胸を押さえていたが、彼の参考書を手に取った。裏返してみると、丸みを帯びた字で名前が書かれている。 「宇喜多、弦……」  口の中で呟き、参考書を閉じてダンベルの横に並べて置く。 スーツを脱いだ千寿はシャツをいつものように床へ放りかけたが、その手で脱衣所の洗濯籠へ入れに行った。  そうこうしている間に準備された夕飯は、理想を具現化させたような和食だった。  サワラの塩焼き、きんぴらごぼう、青菜の和え物に根菜の煮物。そこに具沢山の味噌汁とツヤツヤの白米が添えられるのを見た千寿が唾をのむ。 「……食うていい?」 「どぞー」  二人して手を合わせ、黙々と食べ進めていく。空ききった胃が半分ほど満たされた頃、千寿は食べるスピードを緩めた。 「なあ、ちょっと訊いてええ?」 「う? うん、もちろん」 「弦は大学生?」 「そうだよ。ここから電車で三十分ほどの……俺、名前言ったっけ?」 「さっき参考書の裏見た」 「ああ、なるほどね」  箸を置いた弦は、丁寧に頭を下げる。 「ご挨拶が遅れました。宇喜多弦(うきた ゆずる)です」  非常識な生活を送っているにしては、礼儀正しい所作だった。不躾か、と一瞬頭を過ぎったが、構わず問いかける。 「実家には帰らんの?」 「うーん、帰らない……かな」 「親と仲悪いん?」 「悪くないよ、多分……連絡もとるし」  弦の表情を見る限り、彼が親を嫌っているわけではなさそうだ。  だが千寿は経験上、セクシャリティについて親と折り合いが付けられていない彼らが隠し持つ、罪悪感や悲痛を知っている。それは弦にもあるように思え、「帰らない」のではなく「帰れない」のかもしれない、と感じた。 「どれくらいここにおるつもりなん?」 「んー、千寿さんに捨てられるまで……?」 「ふわっとしとんな……ほな、出て行きたい思たら言うように。ほんで、家のもん買ったら領収証置いといて。清算するから」 「うん。他に気を付けることある?」 「さあ……初対面の男と生活したことないし」 「はは、そりゃそっか。追々だねえ」  ケラケラと楽しそうに笑う弦は食事を再開させてから「あ」と零す。急いで咀嚼し、食べ物を胃に落としてから切り出した。 「ねね、俺も聞いていい?」 「ええよ。なん?」 「千寿さんは関西の人?」 「そやで。就職するときこっちに出て来てん」 「大学にも地方の子はいるけど……みんな、標準語だよ? 千寿さんは訛り抜けないの?」  興味を抱いて輝く若者の視線に晒され、千寿は若干の情けなさを覚える。 「抜けへん言うか、抜けんように気を付けとるって言うか」 「……?」 「標準語喋る自分想像しただけで寒気する」  耳に入る分には問題ないが、自分の口から彼らと同じ言葉と発音が出るのはむず痒い。  想像して鳥肌が立ち、感覚を消そうと躍起になって腕を擦る。小声で「なんでやねん」と繰り返し、口直しする千寿を見て弦は目を細めた。 「ははっ、面白いねえ。じゃあ次は……千寿さん、下の名前なんていうの?」 「慶樹」 「ケーキ? 美味しそうな名前!」  言われ飽きた反応に、溜め息を吐く。 「ちゃうわ。慶事の慶に、樹木の樹で慶樹」 「ふんふん……画数めっちゃ多くない?」 「それな。三十一画の名前は責任感強くて、寛容で包容力があるんやと。……他の三十一画考えてほしかったわ」  名付けてくれた両親の心遣いは有難いが、この名前のせいで幼少期に洋菓子扱いをされ続けた千寿は甘い物が苦手になった。感情に味覚が寄り添ってしまった結果、今ではスイーツ全般に敵意を持っている。  先日オフィスで強制的に食べさせられた饅頭の味を思い出して吐き気を催していると、弦は吐息を漏らすように笑んだ。 「ふふ、いいじゃん、すごく響きが綺麗だよね。苗字も名前も、幸せいっぱい! って感じがする」 「ああ、千の寿な。よう言われるけど、まだ幸せ百回くらいしか来てへんわ」  こう言うといつも周囲には「ど厚かましい」と笑われるのだが、弦は何が楽しいのか首を左右にリズムよく傾げ、ふへへ、と意味のわからない笑い方をした。 「じゃあ後、九百回も幸せになれるんだね」 「お前ポジティブやな……普通は欲張りやって言うのに」 「そうかなあ? いいじゃんね、いっぱい幸せになったほうが」  どうも調子を狂わされてしまった千寿は、ニコニコ顔の弦に釣られて自身も微かに笑んでいた。自覚し、キュッと顔を引き締める。 「ゆーて、お前の苗字もそうやん。宇喜多」 「そそ、宇の字には家とか、屋根とかの意味があるでしょ? その下でたくさん喜びがあるから、俺の名前はその喜びをたくさんの人に譲ってあげられるようにって意味なんだって。高校の弓道部で出会った両親の意向で、弦って漢字になったらしいよ」 「お前は名前の通り育った感じするな……」 「千寿さんもね!」  嬉しそうに語る様子から、嫌うどころか両親を慕っている気持ちが伝わってくる。素直さや謙虚さは、大切に育てられたからなのだろう。  千寿は、苦笑して腹を括った。  酒井には手を出せとそそのかされたが、共に暮らす相手が恋人である必要はない。千寿は衣食住の環境を提供し、弦が家事をするなら利害の一致という言葉で落ち着くはずだ。  つらつらと同居への言い訳を考えていると、その間ぼんやりと見つめられていた弦が首を傾げる。そして何かを思いついたように指を銃の形にし、千寿を撃つ仕草を見せた。 「届け、千寿さんに会えた俺の喜びっ」  パチンと放たれた華麗なウインクを見た瞬間、千寿は反射的に両手を顔の前に出した。 「甘い。その程度じゃ俺の障壁は割れへん」 「防がれた!」 「十年早いんじゃ小童が」 「十年経ったら俺おじさん……」 「あ? 今なんぼ」 「十九。あ、でも五月には二十歳になっちゃう……」  しくしくと泣き真似をする弦を他所に、千寿は「未成年……」と零す。  自分が未成年の頃の気持ちなどとうに忘れているのに、九つも年下の弦とうまくやっていけるのか、少し不安になった。
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