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終・君と恋するルーティーン
千寿の日曜日を支えるルーティーンには新たに、月に一度は必ずバイトの休みをもぎ取ってくる恋人の存在が付加された。
日曜の朝だけは弦に家事をサボらせ、二人でコンビニへ向かう。そこでスポーツ新聞と朝食を買い、自宅でまったりと競馬の予想を立てる。怠惰な朝を満喫した後は競馬場へ車を走らせてメインレースを楽しむと、スーパーで夕飯の買い物をしてから帰宅し、食事を済ませて一緒に風呂へ入る。寝るときはもちろん千寿が弦に腕枕をするのだが、ここ最近は立場が逆になることもあった。
恋人になって正式に同棲し始めてからの弦は、生活費をきちんと入れたり、飲みに出掛けた千寿を心配して迎えに来たり、横にいる酒井に笑顔で敵意を向けたりと、目覚ましく一丁前の雄へ成長している。
千寿は弦が時折見せる男臭い顔に胸が高鳴るという心臓疾患を発症したが、なんにせよ、充実していて文句の一つもない。
隣で目覚める弦の存在は、この先ずっと続く幸せに欠かせないのだ。
「よっしゃ。完璧や」
競馬場にやってきた千寿は、発券機の前で仁王立ちし、高らかに宣言した。
「今日もええ日にすんで」
「それ毎回言ってない?」
「喧しい。俺にだってそういうときはある。やっと秋のG1戦や……気合い入っとんで」
馬券を買い終えた千寿は、いつものように弦を連れ、スタンドの立ち見スペースで手摺りに身を預けた。
久しぶりのG1レースを心待ちにするファンで、広々としたスタンドはごった返している。それはまるでカラフルなボールプールのようで、一思いに飛びこんでみたくなった。
千寿が意味のない妄想を繰り広げている間、弦は手摺りから身を乗り出してレース中の馬を見つめている。賭けているわけでもないのに、ピンクが好きだからという理由だけで、ピンクのブリンカーを装着した馬を応援する横顔が馬鹿みたいに可愛い。
「頑張れー、もうすぐゴールだよー!」
「あーあ、スタミナ切れや……体力つけやな」
「千寿さんもつけなきゃね」
「なんで?」
「いつも先にバテちゃうよ?」
こちらを向く純粋な表情とは裏腹に、彼が指しているのはセックスの話だ。
千寿は手刀を弦の額に軽くぶつけ、小声で叫んだ。
「んなもん、おま、お前の体力が無尽蔵なだけや……!」
「そうなの?」
「俺は知っとるぞ。手え空いたら何食わぬ顔でダンベル持ち上げとるやないか。暇になったら筋トレはするし、走りこむし……そんなんに俺が着いていけるわけないやろ、アホ」
うつ伏せに転んで携帯を触っているかと思えば、投げ出した両脚に分厚いアンクルウエイトを巻いて交互に上下していたりする。
はたまた煮物を作っているかと思えば、待ち時間でスクワットをしていたこともある。
ただでさえ丁寧で熱心な弦のセックスに、鍛えられた筋力と若い体力が追加されたらどうなるか、想像も容易い。要は毎回、千寿がわけもわからずトばされて寝落ちするまで貪られてしまうのだ。
一昨日の金曜から土曜にかけても体験した濃厚な交わりを思い出し、妙な気恥ずかしさを覚えた千寿は「まあ、そういうことやから」と、話題の終結をチラつかせる。
しかし難しい顔で手摺りの禿げた塗装を見つめていた弦は、悩ましげな溜め息を吐いた。
「そっか……千寿さんのためにも体力つけなきゃって思ってたけど……そればっかじゃダメだったね」
「お、おう。そうや」
「千寿さんは出しちゃうと疲れて寝ちゃうから、出せないように技も磨くね」
「ちゃう! そこももう十分やから!」
「はは……っ、大丈夫だよ、冗談」
ケラケラと楽しそうに肩を揺らす弦は、千寿へ一歩、距離を詰める。
「ちゃんと手加減するよ。千寿さん、本社に通うの朝早くて大変だもんね」
「……別に、そんなん気にせんでええけど」
「俺、千寿さんと幸せになりたいから。どっちかが我慢するのは、違うもん。そうでしょ?」
得意げな弦が眩しくて、半端なく愛しい。
彼は千寿が手をかけて可愛がれば可愛がるほど、無邪気に愛情を返してくれる。春先に出会い、木枯らしが吹くこの頃まで傍で過ごしていても、日々愛情は増えゆくばかりだ。
「そうやな。よく出来ました」
「褒めて」
「しゃあないな」
弦は手摺りの上で両手を重ね、甲に頬を乗せる。願われるまま頭を撫でてやると、垂れた目尻が幸せそうに更に下がった。
「今日は千寿さんの馬券、当たるといいね」
最初こそ大なり小なり博打運が上がっていた千寿だが、弦が傍にいても最近はそうでもない。それは恐らく、弦のアゲメンパワーが千寿の人生に注がれているからだろう。
「別に、当たらんでもええけどなあ」
「大丈夫、千寿さんにはまだ九百回も幸せがくるんだから。俺の運もあげるねー」
頭を起こして千寿の手を取った弦は、どこぞで聞いたことのある呪文を唱える。効き目は期待できそうにないが、突拍子もない面白さは満点だ。
「おう、なんか当たりそうな気いしてきたわ」
「やったー、千寿さんを一回幸せにできた」
満足げに言うから、運を譲られたらしい手の平をじっと見つめる。
毎日いくつもの幸せを彼からもらっているのに、これ以上の幸福を与えられては幸せが何か、麻痺してしまいそうだ。
一年後にはどうなってしまうのか、五年後は、十年後は。考え出すとキリがないほど、千寿は弦との未来を思い描くことができる。
だったら千寿にとって、弦は正しく「一生ものの相手」なのだろう。
「……もう、ええよ」
「ん? 何が?」
「俺のこと、幸せにしようとせんでええよ」
ゆっくりと手を握って開き、無防備な弦の手を取る。周囲の観客は寄り添っている男二人組に興味なんか示さない。皆、自分に勝利の女神が微笑むことを願うばかりだ。
だから千寿は、言葉の意味を図りかねている弦にそっと顔を寄せる。
広大な土地を有する場内に、メインレースのファンファーレが響き渡る。
澄んだ秋晴れの下、繋いだ手に力をこめた。
「お前がおったら死ぬまで幸せやし。やから俺の残り八百九十九回の幸せ、全部やるわ。そしたらほら、……二人共幸せやん?」
地響きと共に出走馬がゲートを飛び出すが、千寿も、弦も、お互いしか見ていなかった。
潤みゆく綺麗な瞳は伏せられ、小さな声が「うん」と呟く。
千寿は手を離す代わりに弦の肩を抱いて、先頭を走る馬へ目を向ける。どんな奇跡があろうと馬券は当たりそうにない展開だったが、少しも不満はない。
「帰ったらノート書くわ」
「なんて?」
「弦が俺のプロポーズに頷いたって」
色褪せたノートは、今や千寿の私物と化している。毎日数行ずつ弦について書き綴った結果、残るページは後数枚だ。
いつも照れてそれが視界に入らないよう努めている弦は顔を赤くして、不満げに千寿を流し見る。
千寿は悪戯心が擽られ、目を眇めて笑んだ。
「どないしたん、顔赤いで。ウブなん?」
「ホントさ……千寿さんってさ……」
「おう、なん?」
さて、どんな可愛い悪態が聞けるだろうか。
千寿は高揚するが、今度は耳元に顔を寄せてきた弦の囁きで、自分も顔を火照らせる羽目になった。
「……お前、いつの間にそんなクッサイ台詞言えるようになったん」
「えー、顔赤いよ? ウブなの?」
「もうホンマ、帰ったら覚えとけよ」
手摺りに置いた腕へ額を預けると、頬を弦の指が突く。目を向けると、視線が合うだけで彼の表情が華やいだ。
「うん、忘れない」
――生まれ変わっても幸せにするよ。数えてる暇がないくらい、たくさん。
弦は千寿を赤面させて勝ったつもりだろうが、彼の茶髪から覗く耳朶もまた、赤い。
二人はぎこちなく顔を背け合ったが、レース結果に湧き立つスタンドを、手を繋いだままどちらともなく飛び出した。
飽き飽きするほど平和に、怠惰に過ぎていく日曜の幸福は、来世の終わりまで続くらしい。千寿の未来は安泰だ。信じ難い夢物語も輪廻転生も、彼となら叶えられそうな気がする。
千寿は弦の手を引いて歩きながら、振り返って声なく「好きやで」と言った。
人混みの中で、弦は笑う。
「俺は愛してるよ」
それはそれは無邪気で、愛嬌のある愛おしい笑顔だった。
END
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