セイリング

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「ついてない」  いつからからだろう、この言葉が私の口癖になったのは。  こんな言葉口癖になんかしたくないのに、いつからだろう・・・。  春の雨が窓を打ち付けている。洗濯物が溜まっている。洗濯機はずっと調子が悪い。牛乳は賞味期限を過ぎていた。彼氏からは1週間連絡が来ない。鏡を見ると、大きなくまができている。 「ついてない」  私はそう言わざるをえなかった。その言葉を発することにより、それが悪い呪文のように自分自身を苦しめる。しかし言わないと自分自信が破裂してしまうような気がする。そしてまた呪文を唱える。私はずっとこのような事を繰り返しているような気がする。  今日は(いつもだが)何もかも忘れて布団に逆戻りしたい衝動にかられたが、そういう訳にもいかなかった。  今日は・・・いや、今日も会社だ。  私の名前は佐久間清だ。『きよし』じゃない。『せい』だ。これでも一応21歳の女性だ。もちろんこの名前のせいで幼少期には、キヨシ、キヨシと馬鹿にされ、いまだにあだ名はキヨだ。  しかしそんな事、今は気にしていないし、あだ名も何だかんだで、愛着を持つことができた。私が望むものはいつだって1つだけ、もうちょっとの幸せなのだ。  もうちょっと目が大きければ、もうちょっといい仕事場だったら、もうちょっと彼氏が優しければ、つまり私は『ついてない』のである。     体を起こし、服を着て、薄い化粧をし、満員の電車に乗り、会社に向かう。電車の窓からは、満開を過ぎた散り始めの桜が見える。  4月のこの季節、新しい1年に胸をわかせている人もいるだろうが、私はまた同じような退屈な1年を繰り返さないといけないのかと、うんざりした気持ちでいた。  つまらない映画を2回も3回も見るような、そんな憂鬱な気分だ。   私の仕事は、経理事務で、つねにパソコンに向きっぱなしだ。でも腰痛と肩こりを別にすれば、仕事内容はそれほど苦ではない。上司の機嫌を取ったり、骨肉の覇権争いをしている男にくらべればOLという身分は居心地が良かった。こんな時だけは女性でよかったと思う。みえすいた嘘笑いを浮かべる事なく、できるだけ自分に正直でいられる。それは私に残されたわずかな美徳でもあった。  でももちろん嫌な事は当然のようにある。 「佐久間さんって、ちょっとおしいよね」  私より2歳か3歳年上の、会社の先輩社員が私の顔を、何か見聞するかのようにジロジロと見ながらそう言った。  私は「はい?」と面長な、あまり機敏とはいえない馬のような彼の顔を見て言った。 「いやね。もうちょっと顔になにかが加わっていたら、そこそこ美人なのにと思ってさ」と彼は写真を撮るように、手で四角を作りそこに私の顔を重ねた。  私はどう答えればいいかわからず、「はぁ」とあいまいな返事をした。 「もうちょっとなにか努力してみたら?化粧もファッションもそうだけど、なにか習い事とかして、自分鍛えてさ。そしたら絶対、佐久間さん人気でると思うよ。俺が保障する」  彼は自分の言いたいことを言うと、上司が向こうから歩いてくるのを察知し、そそくさと自分のデスクへと戻っていった。  私はお前に言われなくても、私なりに頑張っているし、私になにか足りない事はとっくの昔に理解している。お前は少しどころかまったく足りていないだろうと、勿論心の中で思った。そんな事言える度胸も、破滅願望も私には無かった。  ただ心の奥にため込むしかなかった。  仕事が終わり、帰りの電車に揺られ、私は電車の窓に映った自分の顔を見ていた。どんよりと暗い表情をしている。携帯を開けても彼氏からの連絡は今日も来ていない。  付き合い始めて1年、連絡は徐々に減り、そっけないものになっていった。そしてついに私からメールを送っても返ってこなくなった。  私が悪いのだ。私が愚痴を言いすぎたり、甘えすぎたりしたからだ。彼氏の器に対し私の負のオーラは大きく、こぼれてしまったのだ。入りきらずにこぼれてしまったものが、今の私なのだ。器に入りきったものは優しい思い出になっている。私はその器に入った綺麗な思い出を見て何とか生きているようなものだった。  私は窓に映る自分の顔を見ているうちに、涙が出そうになった。どうして私はこうなってしまったのか、もうちょっとなのに。でもなにをどうすればいいのかわからない。私は周りにばれないように、そっと目頭を押さえた。 『ついてない』  私は、彼氏宛てのメールにそう打ち込んで、急いで削除した。
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