アクセラレーション

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アクセラレーション

僕は周りよりちょっと顔がいい。 そして僕と同じくらい顔がいい先生と、 高校1年生の時に出会った。 京大で物理を勉強していたことは聞いたけど、それ以外のことを先生は話さない。なんとなく触れてはいけない気がして、僕たち生徒は敢えて質問しなかった。 そのかわり噂は沢山あって、前の学校で生徒に手を出したとか、実はゲイだとか言われていた。如何にも高校生が考えそうな話ばかりだ。 だけど、例えこの噂が本人の耳に入った所で、何も反応しないのが先生の性格だった。 目立つ生徒にフレンドリーに接する教師がとにかく嫌いだったから、僕はその素っ気なさがとても気に入っていた。 高校2年の文理選択で、僕は物理を選んだ。目立つ奴、コミュ力高い奴、そんな奴らばっかりの文系に行くなんてあり得ない。 先生と僕は同じ山手線で帰るから、たまに遭遇する。一つ隣の駅に住んでいるらしいことは 風の便りで聞いた。もちろんお互い一言も喋らないし、先生が同じ車両に乗りそうなら、隣の車両に移った。決して嫌いなわけじゃないけど、僕は先生と必要以上に距離を縮めるのが好きじゃない。 だからその日、授業中に先生が僕の名前を呼んだことも、目があったことも全く想定外だった。 黒板に下手な電車の絵を描き、教室を見渡した先生と目が合った。「じゃあ、例えば田中がものすごいスピードで走る電車の中でボールを投げたとしよう。」 「なにそれ?」思わず吹き出した僕に、「いや、そんな状況あるかな」と頭を掻きながら先生が言う。眉毛をハの字に曲げ、困ったような笑い方をしている。 「ともかくその時、ボールに働く力はどう言う風に考えるんだ?」と、今度ははっきりと僕の目を見ながら聞く先生に、一番前の席の僕は小さな声で「反作用として加速度分が並行成分としてかかるんじゃないかと思います。」と答える。 周りは全く気にしていないようだけれど、僕は先生がこんな風に誰か一人の生徒に向かって話しかけるのを見たことがない。先生の声はよく通る方ではないし、視線もメガネのせいでどこを見ているのかこちらからだと読みにくい。だとしても先生は今、確実に僕に話しかけている。 その日の帰り道、ものすごいスピードで走る電車に乗っている間、僕は先生のことを考えた。考え始めたら止まらなくなり、気づいたら降りる駅を通過していた。戻るには 反対ホームに来る電車に乗れば良いだけだが、その日はなんだかそのまま帰る気分じゃなかった。五反田の駅で降りて改札を抜け、北口に出た。 右手10メートル前を先生が歩いている。 気づけば僕は先生を呼び止めていた。 「ここに住んでいるんですか?」「お前は違うよな?」意地悪く質問を返す先生は、普段より幾分柔らかい印象だ。 先生は僕に、帰りたくない理由も聞かず、追っ払いもせず、何も言わなかった。僕と先生は駅から5分の焼鳥屋で腹を満たし、バッティングセンターで3ゲームずつ投げた。特に何を話した訳ではないけれど、周りの誰も知らない先生のプライベートを今 知り得ているのだ!という優越感が何より楽しかった。 マシンから出てくる豪速球に 派手に空振りしている。ものすごい速さで来る球に対して、先生もものすごい勢いでバットをスイングする。たしかに風を切る音はするのだけれど、それはボールが過ぎた1秒後で、カスリもしない。 僕も先生もお互いの下手さを野次り、笑い転げた。ネット越し、隣から見る先生は、いつも見ているより10歳くらい歳をとっていて、先生というより疲れた30代の男の人だ。髭が薄っすら伸び、夕日が肌をより一層荒々しく見せている。 僕はその晩、先生の家に泊めてもらった。この時間が少しでも長く続いて欲しかった。友達の家に泊まると連絡すると、親が驚いていた。 明日も早いから、と言って 先生は床に布団を引いて、あっという間に寝てしまった。 僕は いつも先生が寝ているベッドに腰掛けて、何回かシーツを撫でた。そして、今更になって妙にこの状況に緊張し始めた。 電気を消し布団を被ると、先生の匂いに包まれた。柔軟剤とタバコと、知らない香水の匂いもする。あぁ ダメだ、この匂い。身体中の脈があり得ないほど速くなっているのも感じる。 こんなに泣きそうになっている僕の後ろで 先生は寝息を立てている。悔しくなった僕は、先生の布団に無理矢理入った。 辞めろと諭す先生を、僕は興奮と高揚を湛えた眼で遮る。何か言いたいのだけれど、全く言葉が出てこない。抗えない力のようなものが、僕の理性と秩序を後ろへと押し遣る。 次の瞬間、先生がぐるりと体の向きを変え、こちらを向いた。僕の目の前に先生の痩せた鎖骨が露わになる。そして僕を見下ろすと、先生はケタケタと笑い始めた。そしたらなんだか僕もおかしくなってしまって二人で笑った。笑ってないと泣いてしまいそうだったから、僕たちはずっと笑っていた。 僕は先生とセックスして、それからベッドに戻った。 夢より浅い記憶の中で、さっきまで僕を包んでいた匂いを思い出して、枕に顔を埋めた。 先生はその次の年から地方の有名校に転任した。僕たちよりもっと頭がいい奴らを教えるらしい。学年全体が受験モードになってきて、クラスも理系の奴らだけを集めたのに変わった。 物理は別の先生に変わって、分かりやすくなった。 あっという間に夏が来て、一年が過ぎていく。 ものすごいスピードで走る電車は、加速度を増し、いつのまにか行き先を「第一志望合格」へと切り替えた。 後にも先にも先生と二人きりになることはなかったし、先生が僕を授業で指してくることもなかった。
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