16人が本棚に入れています
本棚に追加
兄の荷物は、軽自動車に余裕で収まる量だった。
「家具も家電も、咲也が入居する部屋に住んでいた人が譲ってくれたの。同じ大学の四年生」
ぱんぱんに膨れ上がったスポーツバッグを父に手渡しながら、温子さんが笑う。助かるわ、と、しみじみと、幸せそうに。
うっすらと陽が射す花曇りの空も、風のないうららかな気候も、すべてが絵空事のようで、まるで実感が湧かない。きびきびと立ち動く家族をぼんやりと眺めながら、弥生はずずっと鼻をすすった。
「弥生ちゃん、大丈夫? 今朝は花粉症がひどいわね。大変だから、中にいていいわよ」
うん、と、曖昧に微笑みを返し、腫れぼったい瞼に指で触れる。よかった、春で。泣き腫らした顔も、花粉症だとごまかせる。
「咲也は、準備できたのかな」
車のドアを閉めた父が、のんびりとつぶやく。咲也くん、ではなく、咲也、と。いつから、呼び捨てに切り替えたのだろう。私たちが「家族」になって、ようやく一年――すでに、記憶が曖昧になるほどの歴史が築かれていたとは感慨深い。私はまだ「温子さん」と、彼女もまた「弥生ちゃん」と呼ぶ距離感だとしても。
「あたし、見てくる」
鼻声で答えて、家の中へと戻りかけた弥生の足元を、飼い猫のキキがすり抜けていった。
足音を立てて階段を駆け上がり、開け放されていた咲也の部屋を覗きこんだ。カーテンを開け放した部屋には淡い旭光が降り注ぎ、がらんとした空間を白く浮かび上がらせている。
「……どうしたの?」
部屋の中央で立ち尽くす彼は、いつも持ち歩いているリュックを背負い、出発準備完了の出で立ちである。つむじが二つあるために上手くまとまらないボサボサの髪も、重そうな黒縁眼鏡も、何を考えているのかよくわからない無表情も、いつものまま、咲也は振り返った。
「ないんだ」
「……なにが?」
放心したような彼は、弥生から目を逸らし、ぐるりと部屋を見回した。掛布を外されたベッドと、本棚を埋め尽くす文庫本(咲也は歴史小説とミステリーが好きだ)は、置いていくらしい。これからは、兄の部屋が弥生の読書時間を過ごす場となりそうだ。秘かな楽しみを発見した妹を背に、咲也は呆然と呟いた。
「俺の、マフラー」
最初のコメントを投稿しよう!