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子供のころ、俺は料理が苦手だった。
そうと自覚したのは小学校の調理実習でのことだった。
俺の両親はともに著名なシェフで、「料理人の子」として俺はクラスでも認知されていた。両親のことをそれはもう周囲には自慢したし、作文の宿題には三ツ星シェフと呼び声高いふたりの仕事ぶりを書き、賞をとったりもした。
――ねぇ、終夜くん。これやって。
だから調理実習で、ジャガイモの皮むきを班の女子から頼まれたとき、俺は愕然としてしまった。
包丁を握り周囲の期待の視線を浴びて、ざらつく芋を前に凍りつく。
そのときになってようやく気づいたのだ――これまで一度も料理をしたことがなかったのだと。
両親は仕事でいそがしく、調理を教わる機会はなかった。ふたりとも自身のコンクールや店の切り盛りで手いっぱいで、俺はその料理を口にしこそすれ、家で包丁を握る機会がなかった。
クラスメイトたちが「すごいものが見られる」と目を輝かせて集まってくる。
できないとは言えない、道は断たれていた。
(俺は、俺は――)
ふいに場面がきり変わり、卒業制作の展示会場になった。
俺の作品が煌々と目の前に輝いている。虹色に光るガラスの白鳥シャンデリアと、取り囲むたくさんの人々。
美南しのぶが人波から出てきて、にやけ顔で哄笑した。
「こんな駄作見たことない! ひどいデザインだ、ゴミだよゴミ! 業界全体に使えないデザイナーだと吹聴しよう!」
鍛代社長が「ほう」と横で冷たく頷いている。
「なるほど、世界に名だたるミイナが言うなら違いない。我が社で雇おうかと思ったが、忘れてくれ。ミイナが否定したデザイナーを使うわけにもいかないからな」
(えっ!? ちょっとま――)
取材に来ていた禿頭の記者が「業界の面汚し、世界のミイナが認めた無能さ」と熱心にメモしている。
あちこちでカメラのフラッシュがたかれ、俺は不祥事を起こした芸人のように写真を撮られ、それが世界へ光の速さで拡散されていく。
(やめろ、やめろ違う! 俺はできる、俺はっ)
――がっかりやわぁ、つぐちゃん。
九谷がひどく失望した顔でそこに立っていた。
俺の尊敬する幼なじみが、もっとも忌避すべき瞳でこちらを見ていた。ひどくつまらないものでも眺めたように、そんな蔑むような目で。
(あ……)
足元が奈落の底のように崩れ、俺は暗闇へと真っ逆さまに落ちていった。
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「っ……!」
「あ、起きた」
冷たさに飛び起きると、頭がくらくらした。
きんと冷えたタオルがおでこに当てられている。
見回すと、かなり広々とした家の玄関だった。広めの靴脱ぎ場と壁かけミラー、ソファーで頭をおさえる自分が縦長の鏡に映っている。
靴脱ぎに使うための横長のソファーへ俺は寝かされていた。
蝉しぐれが遠く聞こえる室内は適切に冷やされて快適だった。外との気温差が見知らぬ場所への違和感をかきたて、俺はしばらく固まっていた。
「大丈夫?」
甲高い声で聞いたのは、金髪に青い瞳の青年だ。
二十歳くらいだろうか、彫りの深い日本人離れした顔立ちをしている。
飾りけのないシャツにダメージ・ジーンズ、シンプルかつお洒落な装いで、青山あたりに行けばこういう格好の美容師がいるなあと、俺はぼんやり連想した。
「誰だ?」
青年はきょとんと瞬きでかえした。
その瞳が一瞬、虹色に輝いた気がした。
よく見れば、彼の瞳はモルディブの海のような水色なのだ。光の加減でどういうわけか、アルミホイルのように輝いて見えたらしい。
日本人ではありえない色に魅入っていると、青年は真顔で答えた。
「ルカです」
「え、なに?」
大きくて青い目が舐めるように俺を見つめていた。すべらかで白い頬をゆっくりと動かし、ていねいに彼は言葉を発する。
「僕の名前、ルカです。あなたは、ミイナの知り合い?」
動きに合わせて金のピアスがしゃなりと揺れている。
(そうだ、美南しのぶの家に来て。インターホンを押して、それから)
それから、どうしたのか。
ルカが「ごめんなさい」と顔をうつむかせた。
「知り合いが来たと思って。ペットボトルを投げたんだ。そしたら命中して」
「あ、いや……ペットボトル?」
そういえば、突然水入りのペットボトルが降ってきた気がする。まさかそんなものが落ちてくると思わず、ろくに避ける暇もなく頭で受けてしまったが。
(なぜそんなことを?)
疑問はつきないが、それより聞くべきことがあった。
「それでその美南、――先生は?」
ルカは無表情な顔をすこしだけ動かした。弓形の眉が下がり、海色の目が困惑に揺れている。
「留守。もう少しで帰ってくるけど」
「そ、そう。ここで待たせてもらってもいいか?」
彼は表情をすこし凍りつかせたが同意した。自分のせいで倒れた相手を炎天下、外へ放り出せなかったのかもしれない。
「中のほうが涼しいから。どうぞ」
とっさに靴を脱ごうとすると、なぜか制されてしまった。
「いいよ土足で。汚いから」
彼も室内なのに靴をはいたままだ。土足移動を前提とする家もあるが、この家はどう見てもそうじゃない。靴を脱いであがるべきフローリングを、彼は土足で歩いている。
「こっち」
じゃっかんの気持ち悪さをおぼえたが、俺は言われた通りに靴のまま進んでいった。
「おじゃましまー……す」
なぜ土足でいいのか、開いたドアの先を見て悟った。
部屋が汚い、汚すぎる。
ありとあらゆるゴミ、衣服、がらくた類が床を埋めつくし、足の踏み場もない。
キッチンつきリビング・ダイニングなのだろう、そういった面影はあった。
真ん中あたりに物置と化したゴミだらけのテーブルが、奥に流しのシンクが少しだけ見えている。
テーブルの上にコンビニ弁当の食べかすやメロンパンの袋、くしゃくしゃのレシートなど、とにかくゴミと思われるものが乱積し、奥の流し台は目を覆いたくなるほどの有り様だった。生ごみと汚れた食器の腐乱臭もひどい。部屋中をコバエがぶんぶん飛びまわり、すえた臭いが鼻をつく。
足もとで何か動いた気がして反射的に飛び上がっていた。冗談じゃない。
「っ、な」
とっさに言葉が出なかった。
(そうか。これが噂に聞くゴミ屋敷)
ゴミまみれの床を踏みこえたルカが無表情に振りむいてくる。
「お茶いる?」
「へぁ!? いい。です」
この部屋で出される茶など飲みたくない。
ルカは不思議そうに「待ってて」と奥の部屋へ消えた。
(吐きそう)
この空間にいることに耐えられない。全身がかゆくなり、とっさに鞄の中から白いゴム手袋を取り出していた。潔癖の嫌いがあると友人の九谷に日ごろ揶揄されているが、そうでなくともこれはきつい。
窓を開けようと何気なく部屋を見回して、脱ぎ散らかされた靴下や空いた酒瓶、ストローつきのパックジュースがオブジェのように積まれているのを目にし、ますます気分が悪くなった。
(なぜだ。掃除という概念はないのか!?)
ゴミはゴミ箱へ、使ったものは戻す整理する、掃除機をかける、そういったことを――ていうかゴミくらい捨てろよ!?
「あぁ~、これ無理だわ」
体がかってにカタカタ震えだし、あと数分放置されたら叫び出しかねない半恐慌状態に陥ったころ、ルカがようやく戻ってきた。その手にライターとキャンドル。
「え。ちょっと待て」
目の前の光景に俺は素で突っこんでいた。
ルカはライターでキャンドルに火をつけた。ゆらめくロウソクの小さな炎を、あろうことか燃えやすい服や紙が散らばる不安定な机の上にバランスを取るよう、そっと置く。
「暗いから。明るくしようと思って」
「いや危ねぇ!」
「だいじょうぶ」
ルカはまた新たな炎をべつのキャンドルに灯し、今度はそれを床へ放置する。
タラリと垂れるキャンドルのロウも許しがたいが、火の横に丸まった紙ごみがあるのは脅威だ。このままでは確実に火事になる。照明デザイナーの家から出火なんて、それが世界のミイナの事務所だったなんて、おそろしく洒落にならない。
床に置かれたキャンドルから目を離せないまま「電気は?」と聞くも答えがなかった。不審に顔を上げ、俺は再びぎょっとさせられた。
「待ておい。お前それで、どうする気だ」
ルカは台所で青黴がびっしり生えた雪平鍋をしげと眺めていた。もう片方の手に袋麺を持ち、疑問そうに鍋を見つめている。
「まだいける?」
何が、とは口にするまい。というか、どうすれば鍋にかびが生える、洗わずに放置していたのを使う気か!?
自分のなかで何かがぷつりと音をたてて切れた。床のキャンドルを吹き消し、机の火もついでに消してゴミ山を踏みこえその手から鍋を奪いとっていた。
「掃除」
きょとんとしたルカに向かい、静かにかんで含めるようにもう一度。
「掃除だよ。やり方くらいわかるだろ」
「どうすればいい?」
「は」
(ハァ? 何を言って、こいつ俺と同じ人間か!?)
「ああああもうっ! っ、ゴミ袋は?」
ルカは大きな青目を瞬かせている。じゃっかん怯えたように台所の隅を指さした――ゴミ袋がゴミの山に埋もれていた。ゴミ山をはじき飛ばしゴミ袋を引っ張り出し、俺は頭をかきむしった。
「貸せもう俺がやるから!」
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