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 美南(みいな)しのぶが帰宅したのは、それから三時間も後だった。 「ただいまー。ルカ?」  彼は戸口で固まっていた。  ちりひとつなくとはいかないが、前よりは各段に綺麗に磨かれた床、テーブル、物の片付けられたソファーに台所。  世界のミイナは茫然と、ドアのところで立ちすくんでいた。  今日もシルクハットと燕尾服姿で、チャップリンみたいな装いだった。茶のサングラスを外すと、彼はお化けでも見たみたいに何度も目をしばたかせる。 「おかえり、ミイナ。お客さん」  ルカが青いガラステーブルに三人分の食器とグラスを並べて、台所に立つ俺を示した。  はっとしたようにミイナは何か言おうとしたが、俺が晴れやかに先を制してやった。 「先日はどうも、浦沢芸大の終夜(よすがら)です。お話したいことがあり何度かお電話さしあげたのですが、どうにも繋がらず、直接訪問させていただきました。あ、待たせていただく間にルカさんに許可を得、すこしばかり室内を整えておきましたが、お気になさらず」 「きっ」 「き?」  俺はわくわくと返答を待っていた。綺麗になった部屋に感動しているのかもしれない、いや礼には及ばないさ。  ここまで片づけるのには苦労した。ルカは手伝ってくれたが、ゴミ屋敷からゴミを取り除く作業があれほど苦痛だとは、俺は想像したこともなかった。  ミイナは口を開閉させ「俺の、……服はっ、書類は……!?」とあたりを見回している。 「ああ、ご心配なく。あちらに」  よくわからない物は部屋の隅にまとめてビニール袋に入れてある。  本当はすべて捨ててしまいたかったが、さすがに何かわからないものをかってに処理するのはまずいと思ったのだ(ルカは全部捨ててもいいと言ったが)。  慌ててゴミ袋に駆け寄ったミイナはうめき、安堵のため息をついている。  ルカが「どうしたの?」と人懐っこくミイナの見ているものを覗きこんだ。 「ッ、ルカ! いつも言ってるだろ、知らない人を家にあげちゃだめだ! 不審者、変質者だったらどうする!?」  ミイナはものすごい剣幕だが、ルカは無表情のままだった。 「だって、ミイナのこと知ってるって。それに」  ちらと俺を見る視線に申し訳なさそうな色がある。きっと俺の脳天に水入りペットボトルをヒットさせたことを悔いているのだろう。  香りたつトマトパスタを調理しつつ、俺は気にするなと手をふってやった。 (そういえば、聞きそびれたけど)  ルカはなぜ水入りペットボトルなんてものを投げたんだろう。 (誰かと間違えたって言ってたな)  炒めたガーリック・トマトの甘い香りが充満し、空いた胃袋を刺激する。  すでに陽も暮れきり、時刻は八時過ぎになっていた。夕飯にしては多少遅いかもしれない。  仕上げにバジルと塩コショウで味つけると、ミイナは俺を指さし叫んでいた。 「なんだ、何なんだあいつは! なぜうちの台所で料理をしてる!?」 「僕が頼んだの。お腹空いたし、なにか作ってって」 「夕飯、いつも用意してるだろう?」 「だって。ミイナが買ってくるのコンビニ弁当ばっか。たまには手作りがいいよ」  その言葉に世界のミイナは顔を歪ませる。どうやら巨匠はルカにはほとほと弱いらしい。  出来上がったトマトパスタを皿によそいつつ、俺は「ふむ?」と首をかしげていた。  そういえばルカはミイナとどういう関係なのだろう。スタッフという雰囲気でもないし、ミイナの息子とも思えない。ルカは大学生くらいだが、ミイナの言動はずいぶんと過保護な気もする。 「はい、できましたー。あ、すいません。材料は適当にその辺から拝借しました」  いい匂いに顔を輝かせるルカと、その横でしかめ面のミイナ。あまり似ていないし、ふたりはどう見ても親子じゃない。 (歳の離れた兄弟って感じかな。どちらかといえば) 「ミイナ、食べよう?」  ルカが餌をねだるように呼びかけるとミイナはうめき、それでも席についた。言われるがままだ。不審そうに俺を見ているが、ルカの意に反する気はないらしい。 「そうだ。部屋が綺麗になったから、もう使えるね」  席を立ったルカが部屋の隅にあったスイッチを押した。  じんわり温まるように室内の空気が四隅から均等に光を帯びていった。  天井を仰ぎ見ても照明の姿はない、白色蛍光灯もペンダントライトも、おまけに据え置きの照明ですらこの部屋には見当たらなかった――不自然だ。ここは名だたる照明デザイナー、美南しのぶの家なのに。照明がひとつもないはずがなく、現に部屋は明るくなった。姿は見えなくともどこかに設置されている。  ようく目を凝らし、俺は答えを見つけた。 (なるほど、間接照明か)  ソファーの下。家具と床のわずかな隙間、そして天井近くの棚の上。  目につかない場所に仕こまれたオレンジの光が、ほんのりと空間を暖めている。  光にむらはなく均等で質感は驚くほど柔らかだ。配置の妙もそうだが、俺はその風合いに舌を巻いた。  照明デザイナーにとって、明るい光をつくることはさほど難しくない。器具の照度を上げて輝度を高めていけばそれでいいからだ。問題は自然でまろやかな光の作成にある。 (これほど自然な光をつくれるなんて)  ミイナの明かりは春の午後の木漏れ日や、穏やかな秋の月光に似ていた。  人の目が照明だと判別できるぎりぎりのライン、ふくよかな光で部屋が満たされている。 (一般的な照明の使い方じゃないな)  照明は天井につけてふり注ぐ光を垂直に受けるもの。  加えて家庭用の電球は通常とても明るく、多くは白色光になっているものだが、この部屋の明かりは暖色でずいぶんと暗い。  棚の上にある照明を見やると、白天井に投光することで明るさをぼかし、まんべんなく光を薄める手法がとられている。部屋全体の空気を光でくるむような設計は、明るさに慣れた目には暗すぎるだろう。  食卓に座し手元へ視線を落とすと、見えるか見えないかくらいの絶妙なさじ加減だった。スマホの画面を開けばかなりまぶしく見えるはずだ。  俺が周囲を眺めていると、ミイナが「あぁー」と咳払いした。 「それで。きみは何しに来たの?」 「先日の。浦沢芸大での、俺の作品を憶えていらっしゃいますか?」  ミイナは遠い記憶を呼びさますよう目を細めた。憶えてないならそれでいいと思ったが「ああ!」と指を鳴らした。 「わかった、僕が壊したゴミ・シャンデリア。弁償しよう、いくらかな?」 「ゴッ、……ぐ」 (こいつまた! 自分こそゴミ屋敷の住人なくせに)  思わず飛び出そうになった罵声を必死にかみ殺した。今日はその評価を撤回させるためにわざわざやって来たのだ。あの作品が気に食わないなら、他のデザインで納得させればいい。なにせ俺には今までの実績と、コンテストで評価の高かった数々のデザイン例がある。  机の下からファイルを取り出していると、横で黙々とパスタを食べていたルカが唐突に話を切り出した。 「ミイナ。このお兄ちゃん、雇ってよ」 「ん」 「え?」  俺は出しかけていたファイルを片手に固まった。  『このお兄ちゃん』が自分のことだとはわかったが、雇うとは――? (美南しのぶのデザイン事務所で働く、ってことか?)  悪くない。いや、とても魅力的な話だ。  鍛代社長からの引き抜き話に勝るとも劣らない、世界のミイナの事務所で働けるなんて、照明デザイナーを志す者にとってはこれ以上ない話だ。  知らずゆるみかけた俺の顔を見もせずに、ミイナは憮然とパスタを口へ運んでいる。 「きみ、料理はできる?」 「ええ。両親がシェフなので、そこそこ」 「ふん。まあ味は確かなようだ。ルカも気に入ったみたいだし」  ミイナの視線の先でルカが袋鼠のように頬を膨らませ、パスタをかきこんでいる。  ミイナは「非常に気に食わないが」とため息をついた。 「君さえよければ、うちで働いてくれないか。給金ははずむ」 「そ、それって」 (俺の才能をやっぱり見直してくれたってことか?)  いや、なにかがおかしい。まだ持ってきたデザインを見せてないし、ミイナはさっき俺の作品を「ゴミ」と呼ばわったばかり。それなのに急にデザイン事務所へ雇うと言いだすなんて。齟齬の答えはすぐに明らかになった。 「うちの家政婦として雇いたい」 「へぁ?」  俺は半笑いのまま、口をぽかんと開けていたと思う。  ミイナの方も「ん?」と怪訝な顔になっている。 「ごらんの通りうちは人手が足りてない。前に雇ってた」 「アンコ」とルカ。 「そう。アンコも辞めちゃったし。ルカの面倒を見る人間が必要なんだ。どうだろう、君さえ良ければ、いい条件で仕事を頼みたいが」  俺はちょっと考えた。  ミイナの憮然とした顔と、横にいるルカの期待にみちた視線を受けて、テーブルの下からファイルを取り出した。 「……その前に、これ見てもらえます?」 「ん」  ミイナは受け取ったファイルの束を眉を寄せ、パラパラと眺めた。  そこには俺のつくった照明デザインの説明と受賞したコンテスト名、詳細な写真の数々が、誰がつくったかを伏せた状態でまとめてある。 「どう思われます?」  ミイナがどう答えるか。もし少しでもプラスの評価があれば、俺の目的は達成されたことになる。  真剣にファイルを繰るミイナに俺は期待をよせていた。 (この前はわからなかったかもしれないが、俺の実力は本物。そうだろう?)  今度こそと固唾をのんでいると、ミイナは呆れ顔になった。 「駄目だな。これすべて同じ人間の作品だろう? 照明の基本をまったく理解していないよ」  ただの光るゴミだとミイナは断言した。 「なんで。どうしてです? そこにあるのは、いずれも全国規模のコンテストで優秀な成績をおさめたものばかり。明らかにデザインを認められている……」 「デザイン?」  はっ、とミイナは鼻で笑った。 「照明はただ灯せばいいわけじゃない。そんなことも分からない人間が、コンテストで優秀な成績だなんて笑わせる。――ふん、よく見ればどれも鍛代が主催するコンテストじゃないか。だからこんな、わけのわからない結果になる」  照明デザインの世界において、鍛代社長の関わるコンテストは多い。  なにせアルテミス・コーポレーションは国内随一のシェアを誇る照明会社だ。当然、関連する行事も多く、照明といえばどこかにアルテミス・コーポレーションの影がある。  けれどそれは同時に、日本一のシェアを誇る会社から認められた、お墨つきを得たということにはならないか。それをだめだと否定する根拠は何だ。 「たとえばこれ」  ミイナが示したのはリビング用に設計したペンダントライトだ。  大きな蓮の花びらが、グラデーションで虹色に輝くようにデザインされている。 「この写真。ざっとだけど、リビングの明るさは千ルクスってとこかな。うす曇りの屋外と同じくらいだ。なのに照明の明るさはその五倍はある。調光設備も良くないし、これじゃ明るすぎるよ」 「待ってください。明るすぎるって、大体そんなものでしょう? それくらいの照度は必要だし、その作品は部屋のインテリアとの調和を図ったものです。明るさ云々ではなく、デザイン性こそが」 「きみ、あの芸大で照明のこと勉強してたんだよね。すくなくともシャンデリアを作ってたんだから」 「は、はい。そうですけど?」 「いったい何を学んできたの?」  バサリと、机の上にファイルが乱暴に投げ置かれた。  ルカが険悪な雰囲気におろおろと、フォークをとり落として慌てている。  俺はテーブルに乱雑に広げられた写真の数々を眺めていた。  宝石のように輝くシャンデリア。モダンなペンダントライト、提灯型の据え置き照明――すべてコンテストで優秀賞を取った、俺の誇るべき努力の結晶たちだ。それなのに。 (断言できる、俺の作品は完璧だと)  これまでの行いに関して恥じるところはひとつもない。   デザイン、設計評価、全部が最高で、その実績こそが俺の成果だ。  揺れそうになる内心を両こぶしに握りとどめ、俺はミイナを睨みつけた。 「何を学んだかって、照明についてです。俺は今日まで照明デザインの勉強をしてきました」 「違うね」  ミイナはにべもない。 「断言できるけど、きみが照明だと思ってたものはただのゴミだ。こんなクズみたいな照明を崇めてるうちは。明かりを光るインテリアにしているうちは、照明を作ってるわけじゃない。君は意図せず、理解しないままに光る有害な粗大ごみを作っている」 「……意味が、わかりません。あなたが仰っていることが」  俺の握りこぶしは、机の下で怒りと混乱に震えていた。  自分が努力し認められてきたことを「ゴミだ」とけなされる。もうこの時点で美南しのぶという存在を切り捨て、帰ってもよかったかもしれない。自分の作品やデザイン性はひろく世に認められているし、なにも偏屈な巨匠ひとりにけなされたって、たいしたことないじゃないか。  けれど「完璧たれ」と常に言い聞かせてきた数十年間の積み重ねが、俺にさらに口を開かせた。 「じゃあ、あなたの言う照明って、いったい何なんですか?」  百歩譲ろう。もしミイナに言い分があるのなら、それは一体なんだ。 (俺の照明をゴミと言う、その根拠は何なんだよ!?)  瓶ビールをあおったミイナは「ふうん」と目を眇めている。 「なんでそんな。ん、ひょっとして」  ミイナはニヤリと嫌なかんじに笑い、こらえきれないとばかりに噴き出した。 横でルカが止めようかどうしようかという表情をしている。食事の手はすっかり止まっていた。 「ははっ、なるほどねぇ。これぜんぶ君の作品? 自信作だけもってきて売りこもうとしたわけか。でもこれじゃあねぇ」  かえす言葉もなくテーブルを睨んでいると、ルカが気づかわしそうに言葉をはさんだ。 「そんなひどいこと言わなくても。僕はいいと思うよ、そのライト」 「はあ? ルカお前、本気で言ってるの。お前だって、こういう手合いに苦しめられてきたんじゃないか。こんなゴミみたいな照明をつくるやつがいるから、街がピカピカぎんぎん明るくなるんだぞ。十分に夜は明るいのに、何もわかってないこいつらが夜をイルミネイトして、無駄なライトアップをつくってる」 「それは、……」  ルカは言葉を探すように濁していた。  俺は怒りで全身の感覚がなくなりはじめていたが、それでもミイナの言い分にはどうしても納得のいかない部分があった。 「明るいことの、なにがいけないんですか」 「んん?」  ミイナは余裕の笑みだった。瓶ビールをあおる上機嫌な彼は、けれど俺の次のひとことに固まった。 「街が明るければ綺麗で、みんな喜んでくれるでしょう。夜が明るくて困る人なんて、この世にいないと思いますけど。それに、照明デザイナーって、街を明るくするのが仕事でしょ? あなただって夜を明るくする一員なのに」  照明とは暗闇に光をともすものだ。 (明るくなければ意味がない)  ミイナは笑みをひっこめた。すうと冷たく凍るまなざしで瓶ビールを静かに置く。 「やっぱり君に照明の仕事はつとまらない。もう無理だから止めにしなさい」  凍てつく視線でミイナは真っ直ぐに俺を射抜いていた。これまでの雰囲気とはまるで違う、触れれば切れそうな怒りを湛えている。 「君には才能がない。明るさに敬意を示せない者に、照明の仕事は無理だ」  迷惑だからやめろ、と。ミイナは冷たくそう吐き捨てた。
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