ひとりでパ・ド・ドゥは踊れない

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「私、このまま誰にも抱かれずに死んでいくんだぁ!」  アキコさんがわぁん! と泣き出したとき、驚きとともに、かすかなげっぷが出た。  最近、土曜日の大人バレエのレッスンのあとは、大通公園に面したお稽古場から、みんなで歩いて極楽湯に行く。湯上がりには、近代美術館そばの古い一軒家へ向かう。一人暮らしをするくらたまさんの家で、宴会合宿のようなことをするのだ。めんこい言い方をするなら、パジャマパーティーだ。  新年一発目の今日は、キムチ鍋。各世代の女五人で、五百ミリリットル缶ひとりあたり三本。レンジで温めた紹興酒や大容量サイズの気軽なワインにシフトして、さらに持ち寄ったおつまみで、ウダウダと喋り倒していたときだった。張ったお腹と、アルコールが回った脳と、ぼんやりした思考と、かすかな共感と危機感。アキコさん、私、安住眞里依も既に約八年、誰にも抱かれてません。そう思うのと同時に、キムチ臭が消化器を満たし、鼻に抜けた。飲み過ぎで、食い過ぎだった。  くらたまさんが箱ティシュをアキコさんのそばに置くと、キッチンでホカホカのおしぼりを作り、しゃくりあげるアキコさんに「ホレ」と渡した。 「アキコ、それは偉大なる第一歩だ」  ママ山さんが言い、紹興酒が入ったぐい呑を、顔の前でちょいと上げた。  何で、こんなことになったんだったかな?  今日の宴にはいない、アラサー女子の葵ちゃんに彼氏ができて、めくるめく愛欲に溺れるようなそぶりを見せてきた、という話題をママ山さんが振り、ちょうど三十歳の美音ちゃんが、かつてどうでもいい男のセフレ担当になっていたが、今はほのかな片思いを楽しむシングルになって、よかったよかった、みたいな話の展開からだった。さらに、どのクラスの誰それがセックスレスの悩みからとった大胆な行動の話とか、ママ山さんの充実した、叶姉妹風に言えばセルフプレジャーの中身まで。完全個室の恐ろしさだろうか。興味深くも、うっかりするとえげつないエロ話がピークに達したときだった。年末に四十歳の大台にのったアキコさんが、実は、年齢イコール男性経験ゼロ歴なのだ、とカミングアウトしたのだった。そこからママ山さんの緻密なインタビューがスタートし、「どうすんの?」と確信に迫ったところで、わぁん! となったのだった。  くらたまさんが紹興酒を温め、白ワインに切り替えていた美音ちゃん以外のぐい呑みに足した。  ママ山さんがアキコさんのぐい呑みに、静かにザラメを入れ、飲むように促した。  アキコさんは特別ブザイクだとか、性格が悪いとか、臭いとか、年齢イコール男性経験ゼロ歴になる四十歳の要素は、少なくとも私には見受けられなかった。地元の老舗企業の総務部に勤務し、どちらかといえばおとなしい印象だけれど、着替えのときなどのさりげない気配りや、安心できる雰囲気は、よいお嫁さんになる可能性が十分に感じられた。  人のことだから、そんな風に肯定的に思えるのだろうか。  私だって、気がつくと二十七歳の失恋以来、誰にも抱かれてない。アキコさんと私の間には、イチとゼロという差はあるかもしれないけど、三十五歳の今まで、ノーセックス・ノーラブだ。  ママ山さんがアキコさんに、とうとうとポジティブなアドバイスを続け、美音ちゃんがこれでもかっ、と頷き、くらたまさんは一歩引いて眺めていた。  ママ山さんとくらたまさんは、ぶっちゃけ相当なおばさんだ。それでもバレエを習っている人は、どこかしら年齢不詳な感じがする。少女っぽさ、少年ぽさ、潤い、艶っぽさ、茶目っ気、天然さ。そういうのが、おばちゃんという器から、チョロチョロとはみ出してる感じがする人が多い。そして、そういう人は、クラスの中でリーダーシップを発揮するというのか、奇妙に目立つ。例えば、ママ山さんとくらたまさんのように。  ママ山さんとくらたまさん、最後に誰かに抱かれたのは、いつなんだろう。ぬるくなった紹興酒を飲み干すと、美音ちゃんが「そろそろ」と腰を上げ、私もそれをきっかけに帰ることにした。  火照るほどに暖かな家から一歩出ると、一瞬にして凍てついた夜の空気に包まれた。くらたまさん宅での宴会中に、静かに雪が降ったらしかった。街灯に照らされた地面は、ラメのパウダーを撒いたようにキラキラと新雪が輝いていた。冬は寒いし、雪が積もるしで嫌がる人も多いけど、私は札幌の冬が好きだ。今年も逢えたね、としみじみ思う。清潔な空気。雪の結晶の輝き。音は雪に吸収され、夜は静寂に包まれる。雪は塵を掃き、たくさんの星が私を覆うのを感じる。呼吸のごとに凍てついた空気を身体に取り込み、鼻水をすすりながら、雪降る冬を、心と身体、丸ごとを使って感じ取る。今、という時間を。  くらたまさんの家を後にし、美音ちゃんとさらに西側に歩くことにした。美音ちゃんは私の家に向かう途中の大きな通りでタクシーを拾って帰るのだ。 「アキコさん、これからどうなるのかな?」  美音ちゃんがつぶやく。  アキコさんは最終的に「愛し、愛される男に抱かれ続けたい!」と宣言した。わんわん泣いて、腹の底からそう叫び、ママ山さんが「ヨシ!」と言って、アキコさんを抱きしめ「俺に任せれ!」と言った。え? ママ山さんが俺なの? と、一瞬疑問が湧いたが、人称が俺になっちゃうのは、ママ山さんの常だ。 「アキコさん、すごい勇気を奮ったよね」  私はあの場で、強く宣言できなかった。片栗粉を踏むような、きゅっとした音が足元から聞こえる。 「きっとそういうのは人それぞれで、別に、してもしなくてもいいんだろうけど、でもね」  いっとき、美音ちゃんは振られた男のセフレに甘んじていた。今はその男とは縁を切り、地元出版社の編集者として忙しい日々を過ごしながら、人脈を築き上げ、その中のとても素敵な人に、今は片思いをしているのらしい。 「でもそういうのって、したいと思うなら、やっぱりしたいし、特別なこと、かつ、日常的で大切なことな気がする」  小さな頃からバレエを習い、心も身体も健やかに育った美音ちゃん。造作の美しさはもちろん、まっすぐな眼差しや、放たれるオーラみたいなものが本当に健やかで、いい子だな、と思わずにいられない。 「うん」  私は頷くだけだった。ちょうど空車のタクシーが通りかかり、美音ちゃんは乗り込み、去っていった。満開の笑顔を残して。  したいと思うなら、やっぱりしたいし、特別なこと、かつ、日常的で大切なこと。  私も、やっぱりしたいんだ。そういうこと。  瞬く星を仰ぎ見ながら、凍てついた地球の丸ごとを吸い込むような気持ちで、そう思った。  ベッドの中で、自分の身体に触れるのが好きだ。お風呂上がりにマッサージオイルなんかでケアをするのとは違う。ボディケアは真剣勝負だから。寝る前にベッドの中で本を読み、本の世界にどっぷりお呼ばれして、そのまま意識が遠のいていくのも好きだけれど、温かく、ふわふわな自分の身体に触れるのも大好きだ。目を閉じて、呼吸を深くし、手が、指が、赴くままに、ゆっくり、ゆっくり。自分の身体が、まるで大切にしているぬいぐるみみたいに愛おしく、心が落ち着いていく。落ち着いた心は、やがて静かな集中に向かう。温かく、とろみを帯びたところにたどり着き、あとは私がどんどん遠くなり、宇宙に浮くような、自分が別の生命体になるような、そんな反応が生まれ、発熱し、幸福な死を迎える。  それで一日が終わり、翌朝には新しく生まれ変わった私になる。  ひとり暮らしの時間が好きだ。時折、三十五歳にもなって、こんなことでいいのか、と、痛みにも似た感情に、ほんの一瞬だけとらわれなくもないけれど、きっとひとり暮らしは、私に向いているんだと思う。札幌の西の郊外に母が住んでいて、ずっと二人で暮らしてきたけれど、母が再婚するのを機に、ひとり暮らしを始めた。二十九歳のときだった。母のパートナーは一緒に暮らすことも勧めてくれたが、さすがにいきなり、知らないおじさんと一緒に暮らす気にはなれなかった。私が五歳のとき、日常の風景から父が消えた。今は名古屋に住んでいる。再婚して、妻も子もいる。家族を再構築しているのだ。  朝はラジオが起こしてくれる。目覚まし代わりにセットして、軽快なおしゃべりと音楽が流れる。少しベッドでゴロゴロして、日曜日がスタートする。家事と呼べるほどのこともしないけれど、必然的に身に着けざるを得なかったスキルが、私のひとり暮らしをスムーズにしている。お湯を沸かすとか、果物を切るとか、器を用意するとか、そういうささやかな動きひとつひとつに集中し、楽しさを見出す。感じること丸ごとが喜び。トイレで排泄するときの、得も言われぬ快楽さえも、私を構築する喜びの源のひとつ。例えば母の家のトイレを借りたとき、こんな風には排泄に集中できない。出し切ったときに湧き上がるバカバカしいほどの嬉しさ。子どもの頃には感じ得なかった、子どものように無邪気な喜び。  儀礼的に思う。いい歳して、こんな風でいいのかな? と。  でも多分、そんな疑問は単なる形式と儀礼で、私自身、あんまり興味がないんだろう。  空気の乾燥を防ぐために、リビングに設置されたヒーターの近くに洗濯物を干す。部屋の中に水の粒子が少しずつ飛び、湿度が上がる感じが肌に伝わる。その潤いに、頬のあたりが安心する。  年末調整業務がピークを過ぎたものの、明日からもまた目まぐるしい日々が始まる。平日の家事負担が少なくて済むように、いくつかの常備菜をつくり、ちょっとだけ街に出かけて、買い物をしよう。大通の図書カウンターで予約していた本を受け取り、元気があったらシアターキノでレイトを見よう。健やかな日曜日は始まったばかりなのだ。  正社員の事務職という肩書に憧れて、三十二歳のときに、札幌では大きい規模の会計事務所に就職した。八階建ての自社ビルの三階が主な職場だ。税理士法人・社労士法人・経営コンサルタント・会計部門と大きな業務グループがあり、私の席のひとつがある三階は、その四つのグループの、どれにも属さない。三階は「女性部屋」と呼ばれている。パソコンで添付メールを送れない女王格の部長以下、二五名の女性正職員とパートタイマーが、給与計算のアウトソーシング業務と、その他、主に会計部門のアシスタント業務を請け負っている。  入社したときには、そのコントみたいな設定に驚いたものだが、「女性たち」と呼ばれることにも、係長以下の男性職員が女性部長の許可なしに三階フロアに入れないことも、もうすっかり慣れてしまった。一階受付の当番や社長への朝昼のお茶出し、イベント時のコンパニオン業務や、物品管理、その他の雑用も請け負うけれど、力仕事については基本的に「一年生」と呼ばれる新入社員の男性の仕事だし、繁忙期以外は残業禁止だし、コンプライアンス上、自宅に仕事を持ち帰ることも許されないので、結果的にプライベートも保たれるのは魅力的だ。一般的な道内企業の事務職より給与額も多い。絵に描いたような、理想的な事務職の正社員だ。昼休みは一時間と就業規則に書いてあるけれど、実際は十二時半から掃除が始まるから、実質三十分。目まぐるしい日々だけれど、会社から一歩出れば気持ちは切り替わるし、忙し過ぎてイジメのようなことも滅多に起きない。さらには女王部長が必要悪として全員の敵の役割を担っているから、人間関係のいざこざも、……少なくとも私の周囲では、ほぼ起きない。  せっかく美術系の大学まで行ったのに、経理事務なんて、と、ふとしたときに思わなくもないけれど、私は暮らして行かなくてはならぬのだ。  新卒時の就活では、ちょっとのんびりし過ぎたのか、道内のデザイン事務所や印刷会社は採用なしか、不採用だった。道外に出る、という意識はハナからなくて、結局、全国区の雑貨店の契約社員になった。いくつかの転職があり、失恋があり、雇用経済危機を迎え、今の会計事務所に落ち着いた。口コミサイトでの評判は芳しくなかったけれど、それがかえって私の好奇心とチャレンジ精神に火をつけた。結果的に経済は安定し、コツコツと積み重ねていく仕事に向いていたおかげで、公私ともに充実した暮らしができるようになった。古い賃貸の1LDKマンションだけれど、近代美術館や大通公園にほど近い都心に住み、バレエのお稽古に通ったりできる。  愛し、愛される誰かに、抱かれない程度の欠損があるくらいだ。  しんしんと雪が重なる日曜日は、静かで、私好みの時間が流ていく。  会計事務所の年明けは五月だ。一月は年末調整。これは実務面では主に女性たちが行う。その他、法定調書の作成と、償却資産税の申告を一月末までに行い、二月十六日からスタートする確定申告に向けて、クライアントにさまざまな確認や準備をするなどし、三月十五日には、男性職員はいったん真っ白な灰になる。この頃には退職希望者が上司に相談する件数が増加するので、おじさんたちのストレスが増す。確定申告が一段落すると、次は三月決算企業の年次決算業務が入り、ピリピリする男性が増える。春の大型連休が過ぎる頃には、退職希望者は有給休暇取得に入り、新卒入社の研修も一段落。男性職員の肌ツヤも回復する。  だから、冬の会計部門は、ちょっと痛い。雰囲気が。  こんなに多忙なのに、容赦なく雪は降る。クライアントは札幌市中心部ばかりではなく、道内の端まで及び、ほぼ車で移動しなくてはならない。道路事情は悪いし、何より夜の間にドカ雪が降るので、若手男性職員は天候次第で早朝出勤を余儀なくされるのだ。業者に依頼することもできただろうに、経費節減の情報を顧客に提供するような商売だからか、こんなときの人使いは荒い。イライラしている男性職員のそばでアシスタント業務につくために、私はさまざまなおまじないを駆使し、せめて自分のオーラまわりくらいは、クリーンで甘やかにしておく。  私が女性部屋での給与計算の他、会計部門のアシスタント業務に携わる会計四課は、五十歳過ぎてもまだ童貞の噂がある田中部長、銀婚式を迎えても奥さんが大好きな宇野次長、マラソンに情熱を捧げる古谷課長、ススキノの発展に貢献し過ぎてスッカラカンな長田課長代理、イケメンでファッショナブル、笑顔を絶やさず、物腰も柔らかいことから、女性たちの人気ナンバーワンの池辺係長、そして比較的ハンサムで頭も切れ、将来も有望視されているのに、いつも不機嫌に貧乏ゆすりをし、幾何学的なシルバーフレームの眼鏡の奥の眼光が鋭く、実はふたりくらい殺ってるのでは? と女性部屋で恐れられている入社三年目の山崎氏の、合計六名で構成されている。  コミュ障な田中部長はともかく、殺伐とした女性部屋を出て、会計フロアで業務をするのは、女王部長の気配もなく、平和で、いい気分転換になる。田中部長も、コツさえつかみ、こちらから上手に質問をすれば、必要な情報は得られるから、かえって静かに業務に集中できていい感じだ。時折、池辺係長と親しくしていると、他の女の子から嫉妬ビームが飛んでくるくらいで、まあそれも、対処法は心得ているから、うまくかわせている。面倒臭いのは山崎氏で、この人の不機嫌さ、どうにかならないものだろうか。  彼の関与先の給与計算の担当女性が泣かされるのは、もはや風物詩のひとつだ。言っていることは事実で正論なのだが、貧乏ゆすりの威圧感と共に、顔と、声と、言葉遣いが、お互いに気の毒なほどの不一致を見せる。ペーペーの山崎氏のデスクは、女性アシスタントの共有デスクの隣だから、なおさら、ここに座らざるを得ない女性は恐怖にさらされる。  そんな恐怖の山崎氏が、周囲一メートル四方に不機嫌を撒き散らしながら、雪かきから帰還した。眼鏡のレンズが曇り、上気した頬で、肩で息をしながら、面倒臭そうにコートを脱ぐ。目元が切れ長で、声が低く、動作の音が大きいのが常に不機嫌そうに見える要因なのだろうか。 「……マリエ、何やってんの」  八歳も年下で、職場で、彼女でもないのに、気だるそうな呼び捨てだ。 「午後から池辺係長に同行するから、その準備」  山崎氏は、深いため息のような空気の振動で返事をした。  私は女性部屋で「猛獣使い」と呼ばれている。山崎氏の不機嫌に動じないから、だそうだ。  猛獣を扱うのには、ちょっとしたコツがある。事実と感情を切り分けること。山崎氏が殺りたてホヤホヤのていで近寄ってきたとしても、実際、殺ってきたわけではない(と、信じたい)。言葉遣いに鋭利な何かを感じるようなら、それは自分に向けられているのか、もともとその程度のボキャブラリーしか持っていないのか。そのあたりの判断が、猛獣使いと犠牲者の分かれ道なのだ。忙しい職場だし、そんな猛獣にかまっていられない。  段取りを指差し確認し、ヨシ、と納得したところで、視線が気になった。山崎氏が、財布を落としたかのような茫然自失の表情で、こちらを見ていたからだ。あるいは、さっき殺った相手に、致命傷を追わせるのを怠ったか、現場に証拠になるものを置いてきてしまったのかもしれない。 「どうかした?」  とっさに訊くと、 「……何でもねえ」  山崎氏は忌々しげにそうつぶやき、席を立った。  頼みますよぉ、と呆気にとられていると、ポン、と肩を叩かれた。 「じゃ、行こうか。俺、先に車温めておくから、第二駐車場に来てね」  隙なく爽やかな池辺係長が完璧な笑顔を見せ、颯爽と去った。何でこうできないかな、たったこれだけのことじゃんよ? 私は荷物をまとめ、オーバーコートとブーツを取りに、更衣室へ急いだ。  クラシックバレエを始めて、もうすぐ二年になる。アンガールズの決めポーズというか、捉えられた宇宙人というか、およそバレエとは呼べないポーズからスタートしたけれど、レッスンはいつも楽しみだ。ちょっと子どもに戻る。  プリエ・プリエ・グランプリエと、お決まりの呪文のような順番でバーレッスンが始まる。ようやく周囲の人たちを見ずに、先生の説明に集中して、振りを覚えられるようになってきた。先生の言う通りに身体を使うと、鏡に映った自分が、スッと伸びるような、美しい姿勢で立っていることがある。けれど驚きと喜びは、次の瞬間には「あれ? 次、何だっけ」の焦りと嘆きに変わっている。そんなところまで面白い。キャリアが長い人たちのことを「大きいお姉さんたち」と呼ぶところも、背筋を伸ばして引き上げるときに「胸元に光るネックレスを、二階席のお客さまにまで見せびらかすように!」と例えるのも、いちいち非日常で、愉快だ。 「マリエさん! 歌い過ぎない! もっとクールに!」  気持ちよく踊ると、いつも言われてしまう。身体の中が音楽で満たされてしまうと、手足は正確なポジションを通らずに、勝手気ままに暴走してしまうのだ。  クールに、クールに。  その日のレッスン終わりまで、その言葉を頭の中で反芻し続けた。 「で、葵。メロメロの愛欲の行方はどうなったのよ」  レッスン終わりの飲み会は、くらたまさん宅ではなく、串鳥でもなく、ママ山さんが軟骨つくねを所望し、美音ちゃんと私が「生肉!」と駄々をこね、炭火居酒屋・炎になった。塩ユッケの大を真っ先に注文し、あとはみんながバランスよく選んでくれた。つくねのページを眺めていると、つくねという言葉がゲシュタルト崩壊を起こす。  つくねつくねつくねつくねつくねつくね。  生つくねスープで胃を温めたら、ひたすらビールを流し込む。喉が痛むほどの強い炭酸の刺激がたまらない。  カシスオレンジのグラスを頬に当て、葵ちゃんがくねくねを身をよじらせた。 「なんかぁ、ひっきりなしに、かわいいかわいいって言ってくれるしぃ、気がついたらいろんなところをナデナデしてくれるしぃ」  くねくねがぐるんぐるんに変わるほど、葵ちゃんが全身から悦びを発していた。 「ヤリまくり?」  と、ママ山さん。 「もう、気がついたらくっついてるんですぅ」  全開で悶える葵ちゃんは、既に異次元の人だ。その悶えに乗っかって、全員がテーブルをバンバン叩いたり、キャーキャー叫んだりする。この話題、完全に酒の肴だ。 「葵、あんたね、ヤリまくってんなら軸が取れるから、ピルエットもダブルと言わず、トリプルも軽いよ!」 「あ、それわかる!」  ママ山さんに次いで、叫んだのは意外なことに美音ちゃんだった。  一瞬、全員が静まり返り、美音ちゃんに集中した。美音ちゃんは頬を赤らめ、顔の前で手をブンブン振りながら、 「あ、いや、どうかな~」 と言い捨て、ビールを一気に飲み干した。 「どっちやねん」 と、ママ山さんとくらたまさんが同時に突っ込んだ。 「なんだかんだ言って、骨盤底筋群なんですよ」  鍛高譚のお湯割りをチビリとやっていたくらたまさんがしみじみ言い、そうだ! とママ山さんが酔っ払いっぽく同意し、続けた。 「コンスタントにちんちんが入ってたらさあ、骨盤底筋群を意識して使うじゃん? そしたら必然的に自分の軸がどこにあるか感じやすいじゃん? 継続的なメイクラブはさあ、大事なんだよ、いろんな意味で」 「尿もれ防止とかね」  くらたまさんがおかしそうに笑い、ママ山さんが睨みつけた。 「……いいセックスは心身の健康に不可欠だよ」  チャンジャでチビチビ飲みながら、くらたまさんが感じ入った。 「じゃあ、私、今、すっごく健康ですぅ」 「そうだバカヤロー」  なんだろうね、この混沌は。塩ユッケを美音ちゃんとコソコソ奪い合いながら、目の前のエロばな劇場を眺めていた。 「そういえばさ、あの、ものすごい公務員、最近来ないじゃん」 「由貴ちゃんのこと?」  くらたまさんが応え、みんながつくね串をくわえながら、ママ山さんに集中した。  由貴ちゃんというのは、先生たちが惚れ惚れするほど上手な人だ。ピルエットは当たり前みたいにトリプルだし、グラン・バットマンはバンザイの手のひらの位置まで脚が上がる。踊るときの表情も、ほんの四十秒のアンシェヌマンでさえ、舞台の上で踊ってるみたいだ。華奢に見えるのにきれいな筋肉がついていて、いつも手早くきれいなシニョンをつくっていた。ザ・バレリーナ、みたいな人。年の頃は、美音ちゃんと私の間くらい? いってたとしても四十歳手前、といったところだろうか。でも、その由貴さんが、ものすごい公務員って、どういうことだろう? 「ねえ、ママ山さん。そのものすごい公務員の『ものすごい』は、どこにかかるんですか?」  タイミングよく美音ちゃんが訊いた。 「全部、だよね? くらたま」 「そうだね」  くらたまさんは、みんなのグラスの空き具合を確認し、店員さんを呼ぶボタンを押し、話を続けた。 「由貴ちゃん、実家は東京で、小さい頃から日本を代表するようなバレエ団の付属スクールの選抜クラスに通ってて、海外のバレエ学校にも、ロイヤルかどっかのサマースクールとか、短期のセミナーに何度か行ったことがあるっていうのは、本人から直接聴いたことがある。実際に長期の留学とかスカラップとかの話もあったらしくて」  すげー! と私たち三匹のこぶたが同時に感嘆の声を上げた。 「まあ、でもその話は大学受験のときに、バレリーナと大学、どっち取る? みたいな話で流ちゃって。東大とか早慶とか、忘れちゃったけど、いい大学に進んで」  店員さんがそれぞれの飲み物を運んできた。 「で、ものすごい公務員になった、と」  ママ山さんが生ビールをジョッキ三分の一まで流し込み、続けた。 「その『ものすごい公務員』って、何ですか?」 「そんじょそこらの公務員じゃないってことよ」  ママ山さんがつくね串に食らいつきながら答え、くらたまさんが続けた。 「あ、あれだ。キャリアとノンキャリって言うじゃん」  三匹のこぶたのうち、私と美音ちゃんは合点がいった感じでうなずき、葵ちゃんはポワン、とした顔のままだった。 「……お前ら、誰にでも、この話、べらべら言うなよ?」  葵ちゃんの目が好奇心に輝き、くらたまさんがママ山さんに鋭い視線を一瞬向けた。美音ちゃんば身悶えしながら、 「いやだ~、聞きたくないです~」 と、言った。それでもママ山さんの話は続いた。 「由貴ちゃんがうちのバレエ教室に通い初めたのって、彼女がうつ病で休職してるときだったんだよね。まあ、ものすごい公務員だから、うつ病にもなるだろうさ。で、何度か一緒に飲みに言ったとき、ベロンベロンになりながら本人が語ってたんだけど、こう、性欲の抑えが効かなくて」 「性欲の抑えが効かなくて!」  葵ちゃんが目を見開いた。 「ネットゲームで、セフレ募集」  なにそれー! と三匹のこぶたたちが叫び、くらたまさんがあらまあ、と呆れた表情を浮かべた。 「アタシ、詳しくはわからないけど、ネットゲームってさ、チャット機能があるじゃん。あれでね、最初は一緒に戦うんだって。でね、そのうちエロいほうに話が進んで……」 「エロいほうに話が進む?」  葵ちゃんは興味津々、他の三人はどんどん眉を潜めていく。 「で、『リアルでも会いませんか』って」  全員がテーブルをバンバン叩きながら嬌声を上げた。 「問題はここからさ」  その一言を合図に、テーブルが静まった。  話はこうだ。由貴さんがネットゲーム経由でセックスの相手を片っ端から捕まえ、ヤリまくっていたある日、性行為のようすをこっそり動画に撮った男が現れた。その動画はネット上にアップされ、ネトゲ世界で由貴さんがヤリマン美女として有名になってしまい、現在、由貴さんは行方不明。行方不明といっても、バレエ教室の中で「最近、由貴ちゃん見ないね」と噂になっている程度で、事件かどうかはわからずじまいだ。ママ山さんの分析では、東京の実家に帰ったんだろう、と。  三匹のこぶたの長女の私から順番にため息をついた。 「……ものすごい公務員なのに」 「……あんなにきれいに踊れたのに」 「……リベンジポルノって」 「結局のところ、血流が問題なんだろうな」  くらたまさんがごぼうチップスに手を伸ばし、みんなもそれに習った。 「血流?」 「それか便秘」  プッと美音ちゃんがごぼうチップスを口から吹き、ママ山さんに叩かれた。 「便秘かもね」  ママ山さんが言い、再び、こぶた三匹の顔に疑問の色が浮かんだ。 「女の子とセックスの問題って、さまざまなパターンと原因があるんだよね。もちろんメンタルとか、育成歴とか、そういう要因も大きな影響があるんだけど、意外と血流が関係しているのも大きいわけ。血流から派生して、便秘とか」  こぶたたちは、くらたまさんの次の言葉を待った。ブーフーウーみたいに。 「マインドとボディって、すごく複雑に絡み合っていて、マインドにボディが引きずられることって、確かに多い。でも、ボディからのアプローチで、結果的にマインドとボディが整う、っていうのは本当によくあるし、とても大切なこと」  首を傾げた葵ちゃんの全体が、どんどん傾がっていく。 「あんたたちだって、うんこ出たらスッキリするっしょや」  ママ山さんが葵ちゃんの前にあったカタラーナに手を出した。 「憎からず思っている相手とのセックスは、便秘も解消するし、骨盤内の血流も上げて、低体温も解消される。そもそも、あんなにうんこに近いところを物理的に刺激するんだからさ。セックスはみだらというか、ふしだらというか、奇妙な罪悪感がつきまとう人もいるけどさ、決して悪いことではないんだよね。いろんな問題はあるにせよ。原則としては種の保存につながる重要な行為なわけだし」  気がつくと、葵ちゃんの目からはらはらと涙が転がっていた。 「私、今、すっごく幸せかもぉ。ダーリン、大切にしよぉ」  最後の一杯を、みんなで乾杯した。  美音ちゃんが代表して会計を済ませてくれているときに、ふと思い出した。 「そういえば、アキコさん、あの後、大丈夫でした?」  くらたまさんとママ山さんに問うと、葵ちゃんが、え? なになに? と興味津々で私に抱きついてきた。 「アキコは、大丈夫、な、くらたま?」  ママ山さんが葵ちゃんを羽交い締めにし、私から剥がした。 「そう、それはまた、別のお話」  くらたまさんは、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた。  店舗ビルから一歩出ると、入店前とは別の国みたいに、街は猛吹雪になっていた。鋭く凍てついた雪が、容赦なく私たちに打ち付けた。私たちは女子高生みたいな嬌声を上げながら、おしくらまんじゅうでもするように、地下歩行空間へ急いだ。  二月に入り、社内でバレンタインチョコの配布が完了すると、確定申告のシーズンに突入した。全員のテンションがハイになり、学校祭の前日みたいな空気が社内を包んだ。三月十五日までは、普段、一時間以上の残業を禁止されている女性たちも、夜九時までの残業が許されるようになった。業務量はクライアントの提出書類の状況に左右され、バレエの平日クラスに行けない日が出てきた。七時頃には男性たちの一部が空腹を訴えるので、時々セイコーマートのホットシェフを買いに行く非公式業務が追加された。既婚の宇野次長と古谷課長以外は、ほぼ毎日、残業食を摂った。  しばらくの間、というのは最初の一週間くらいまでは、全員が真剣に、集中し、美しいと称賛してもよいくらいに気持ちよく業務に当たっていたが、残業が重なり、業務が錯綜し、ドカ雪が降ると、男性たちの疲労が重なり、肌がたるみ、脂でギラつき、ヒゲが濃くなった。  ススキノマンの長田代理も、下半身が活性化できていないのか、顔はギラギラ、全体的にはカスカスな印象になり、ハイブランドのショップスタッフのように隙なくおしゃれな池辺係長も、時折かすかに部屋干しの匂いがかすめるようになった。眼鏡の殺人犯・山崎氏に至っては、血しぶきが似合いそうな佇まいで、周囲の男性たちに手綱を締められていた。部長、次長、課長は早めに帰宅し、早朝出勤する工夫を始めたのが三月に入った頃で、私は残りの若手三名と残業をすることが増えた。  おじさんたちが帰宅後、困ったことが起きた。  なぜか性の武勇伝大会になってしまうのである。  集中して確認する作業を終え、頭を使わず手を動かす段になると、飲み屋でもないのに、エロ座談会がスタートしてしまうのだった。  四課の女性アシスタントは私のほかに、残業NGのパートのマダムと、泣き虫一年生女子の三人で、必然的に残業は私が男性に同席することになる。定時内に担当の給与計算を済ませ、夕方近くになると女性部屋から移動するわけだが、ホットシェフを食べ終え、一時間もすると、エロ話がモヤモヤと四課島を漂った。  口火を切るのは、安定の長田代理だった。集中して業務にあたり、集中力が途切れると、猫のように大きく伸びをし、ススキノいい店・ヤレる店について、山崎氏にレクチャーをするのだった。山崎氏は表情を変えず「へえ」「いいっすね」「あ、それヤバいわ」「かなり萎えます」などと、まんざらでもないようすで相づちをうち、池辺係長は菩薩の微笑みで、ふたりの様子に聞き耳を立て、気分転換に輪の中に入ることもあった。  それにしても。男の人の、なのか、長田代理の、なのか、飽くなき性への探求は果てしない。入店したての子を指名するのか、ベテラン格の人気ナンバーワンを指名するのか。長田代理は、身長低めのぽっちゃり系、バランスよくグラマラスなのが好みらしかった。時折、有名AV女優が入店することがあって、一度試してみたら「確かにかわいかったけど、行為は大したことなかった」そうだ。  一方、山崎氏は「俺、ドM」だそうで、一瞬、あら、意外、と思ったけど、ひたすら女性に身を任せるのみ、というのは、案外いばりんぼ、というのか、さもありなん、と感じなくもなかった。  では女性職員の好感度ナンバーワンの池辺係長は? といえば、クライアントに連れて行かれるキャバクラがせいぜいで、自分が真っ裸になるような店には、プライベートでは、まず行かない、とのことだった。  やれやれ。  時折、流れで女性用風俗があったら行くか、と、矛先がこちらに向くことがあったが「知りません! 行かんわ!」と言い捨て、黙らせた。  それでも問題提起として、会話に加わらずに妄想してみた。例えば、バレエの宴会メンバーと、キャッキャ言いながら女性用風俗に行くところを想像してみた。店の前で大騒ぎする先が続かなかった。  帰宅して、ひとりのんびり過ごす時間で、続きを想像してみた。  ひとりでこそこそススキノの店に行く自分を想像してみた。とすると、写真パネルから相手を選び、メニューを選び、個室に案内されるのだろうけど、そのステップが面倒そうで、妄想はそこで止まってしまった。  仮に、とっても好みで、ものすごく優しくて、テクニシャンで、みたいな、いわば最高の風俗王子が出張で、家やホテルに来てくれるとして、という妄想をしてみた。サービス後、そもそもそういうサービスは、先払いなのか後払いなのかわからないけれど、仮に後払いだとして、料金を支払うときが辛そうだな、という結論に達した瞬間、過去の感覚がリアルに蘇った。  二十七歳、最後に抱き合った人には、妻と子どもがいた。  私は彼の中で、自分の身体が美しく曲線を描くのを知り、身体と心が発する熱と蒸気を知った。抗いようのない吸引力と、甘美な罪悪感。それは悲しみなのか、喜びなのか、自分でもまったく判断がつかなかった。逢瀬のあと、ふたりだけの世界から、日常に戻る瞬間、彼の中から私の存在が消えるのを感じ取るのが、いつもいつも悲しかった。それが私の中の何かを損ねていることに、別れてからも、しばらくは気がつかなかった。  久しぶりに、くしゃみのような泣き方をした。悲しみと恐怖がマーブル模様を描きながら、私に覆いかぶさってくる。何分か、何秒か、制御不能な号泣があり、喉の痛みや皮膚のほてり、目元の過剰反応や鼻詰まり、身体の震えが一気に襲ってきた。苦しみと、得体の知れない快楽。嘔吐や下痢に、ちょっと似ていた。出ていく、ということは、きっと浄化されている、ということで、私は本能でその肯定的な効果を知っていた。おでこの中心めがけて、細い光が差してきた。光に撃ち抜かれた瞬間、私は正気を取り戻し、ひとつの願望を思い出した。  しゃくり上げながらキッチンに立ち、抽斗から食事用のスプーンを取り出した。スプーンを右手に持ち、頬骨の上に当てた。涙の粒は目頭と目尻の両方から転がり、なかなか匙の部分に入らない。なかなか難しい、とスプーンの位置をいろいろ試しているうち、泣き止んでしまった。  ほんの数滴の涙が、匙の上に残った。 「これっぽっちかあ」  スプーンの上の涙は、頬を伝うのと同じく、まろやかに塩っぱかった。  ダメージと、満足と。浴槽にたっぷりお湯を張り、フランキンセンスのバスソルトを入れてかき混ぜた。鎮静効果の高い芳香が浴室いっぱいに広がる。バレエを習い始めたこの二年で、私の身体は引き締まった。体重は彼に抱かれていた頃と、ほとんど変わらない。でも、服のサイズはひとつ下がったし、あの頃より若々しいというのか、動く、踊る身体に変化した。つやつやの膝小僧。ふっくらと柔らかな二の腕、そこから続く脇、乳房。ふわふわと、温かく、柔らかで、甘い匂いを放つ、凝縮された命。そっと触れ、手触りと重さを確認した。明らかに生きている女の、それだった。眼を閉じて、呼吸を深くしてみる。そっと湯をかき回し、その延長線上で自分の身体を抱く。身を任せていると、シルバーフレームの眼鏡が光った。一瞬、自分が濃いゼリーのようなものに深く入り込んだ感覚に襲われ、溺れるように背筋を伸ばし、眼を開けた。 「違う!」  戸惑いと、情けなさが、愉快さに包まれ、私は湯上がりの犬のように、頭を振った。  絶対に会社を休めない日に、生理一日目が当たった。  私の生理は、いつも一日目がしんどく、二日目は量が多いだけで、三日目以降は、身体がどんどん軽くなるパターンが多い。一日目のしんどさもまちまちで、動作が緩慢になる程度で済むときもあれば、貧血や腹痛・腰痛がひどくて、布団から出られないことも多い。  念の力なのか、今の会社に入って一年くらいすると、一日目は週末の休日や帰宅時間直前に訪れるなどし、業務に支障が出ることはなかった。昨日の夜から、妙にしぶしぶとお腹が痛く、トイレットペーパーがほんのり赤く染まってはいた。明日か、明後日か、と思っていた。昼休憩後、ハッとしてトイレで確認したら、ショーツに鮮血が広がっていた。常備していた替えのショーツを履き、ナプキンを当て、腰と下腹にカイロを当て、悔しさを感じながらお守りのように持ち歩いていた鎮痛薬を飲んだ。幸い薬はすぐに効き、鈍痛は残ったものの、貧血と戦うだけでよくなった。給与計算業務を済ませ、会計四課の女性三人で分担していた業務を取りまとめ、殺気立つ会計フロアへ壁伝いに移動した。途中、嘱託のおじいちゃん税理士先生に、 「おう! 安住さん! ……なした?」 と、心配された。笑顔らしき表情を向けるだけで精一杯だった。  残業食の買い出しは、腰痛を理由に、山崎氏に代わりをお願いした。舌打ちが聞こえそうな眼差しを向けられたが、代わってくれた。  帰っていいよ、とは言ってもらえない日だった。男性職員の多くは、この日ばかりは日付が変わる瞬間まではいるだろう。四課は比較的順調だとは言え、私を九時に帰しても、その後、全員が残業を続けるはずだ。八時を過ぎて、上役から一人ずつ、部下の進捗を確認し、帰宅していった。 「じゃ、安住ちゃんも、悪いけど」  おじさんたちは言い残し、出ていった。  この時間の常で、長田代理から口火を切った。 「俺さぁ、テンガの最強なヤツ買ったの!」  池辺係長と山崎氏はパソコンのディスプレイに向かっていたが、明らかに心を緩め、長田代理の話に耳を傾け初めた。  したっけさぁ! の言葉に続いたのは、こういうことだった。男性用のアダルトグッズを買った。それは過去最高にストロングな効果があるもので、気持ちが良いか悪いかと言えば、刺激が強いだけで、ちっとも気持ちが良くなかった。長田代理が残念そうに言い終えると、ふたりは笑い、池辺係長が続けた。この手の話で池辺係長がのってきたのは、初めてかもしれない。 「僕はマイハンドがやっぱり最強。それより、ローションが大事」  いつもなら、半分耳を傾けて、どこかしらふむふむと聞き入るのに、この日は不愉快極まりなかった。体調の悪さが影響したのだろうか。いや。違う。実体験こそないけれど、これは明らかに他愛ないエロトークではなく、間接的なレイプだった。こめかみのあたりに痺れが広がり、全身がいつの間にか冷水に浸けられたような感覚に陥った。子宮が強烈に収縮するように痛み、ナプキンに熱い液体が広がる感じがした。目の前は貧血のときに瞬く星でいっぱいになった。吐き気も限界だった。最悪だ。 「安住さん、もう帰んな」  山崎氏が立ち上がり、私のデスクにあった書類を確認し始めた。 「いいスよね?」  山崎氏が男性ふたりに睨みをきかせると、長田代理が 「わ、あずみん、顔、真っ白! いいよ、帰んな!」 と、慌てながら言った。  曖昧に首を振るのが精一杯だった。視線の端に、キョトンとした池辺係長が見える。 「俺たち三人とも送ってくのは無理だけど、タクシーなら帰れるべ?」  山崎氏は相変わらず殺戮後の血みどろ感に溢れていたけど、眼鏡の奥から放つ柔らかな光は、私の心と身体を温めるのに十分だった。  怒涛の確定申告シーズンが終わり、決算処理までつかの間の休息が訪れた。三月に入ってから来られなかったバレエのレッスンは、振替受講をし、レッスン料のもとはとった。集中してスタジオに通うと、ちょっとしたダンサーみたいだった。キツい生理は浄化力が高いのか、その後は身体が軽くなる。歌いすぎないように、クールに振りをこなした。それでも身体が音楽を奏で始めると、大きく踊りたくなる。 「マリエさん、特別レッスン出る?」  レッスンが終わり、全員がフラフラになって着替えていると、美音ちゃんが訊いてきた。特別レッスンとは、どうやら東京から有名男性ダンサーが来るレッスンらしい。 「いや、私、ついていけないから」  私が遠慮すると、美音ちゃんが珍しく食らいついてきた。 「いや、マリエさん、絶対に受けたほうがいいよ! すっごく楽しい。なんかね、手を動かすときも『神さまに、大切なものを差し出すように!』とかってね、いちいち楽しいの! ね、ママ山さん、ですよね?」 「そうだわ、なんも、出ればいっしょ。基礎クラスと、ヴァリエーションクラスと、パ・ド・ドゥクラスってあるからさ。私、全部出るよ」 「基礎とヴァリエーション、キャンセル待ちって、さっき先生がおっしゃってましたよぉ」  葵ちゃんがメイクを直しながら入ってきた。 「じゃ、今からじゃ、パ・ド・ドゥクラスだけかい」 「ですって!」  パ・ド・ドゥかぁ。なんだか、とても遠い世界のことのように感じる。パ・ド・ドゥとは、男女ふたりの踊りのことだ。オデットとジークフリートとか、ロミオとジュリエットとか、ジゼルとアルブレヒトとか。観るのは好きだけれど、自分が踊るなんて、まったく想像がつかない。 「リフトとか、されたことないから無理」  私が言うと、 「いや、ここにいるの、みんなされたことないから!」  ママ山さんが周囲を見渡した。 「パ・ド・ドゥ踊れるのなんて、貴重だよ? それに、うちら向けのクラスだから、リフトなんかまずやらないし、プロムナードでぐるーっと手を引かれながら一回転して終わりさ」 「マリエさん!」  葵ちゃんが私の前に立ちはだかった。 「いいですか? パ・ド・ドゥっていうのはセックスと同じで、男の人がいないと踊れないんです! 私たちみたいな大人のクラスは、発表会でも、チームに分かれて群舞で踊るか、どんなに上手でもソロでしか踊れないんですよ!男がいなきゃ、パ・ド・ドゥもセックスもできない! こんなチャンス、逃してどうするの?」  葵ちゃんが、きっぱり言い切ったのと同時に、ママ山さんと美音ちゃんが葵ちゃんの口を塞ぎ、羽交い締めにし、小声で諭した。 「……こら葵、そういうのは酒の席で言え!」  山崎氏の日帰り出張に同行することになった。旭川のクライアント先の担当者の異動が決まり、ぜひ私に挨拶がしたいと言ったらしい。女性職員が市外に出張することは、この会社ではまずないのだが、旭川なら日帰り圏内だろうということと、先方の担当者が山崎氏の前任である古谷課長にまで、私をよこすように依頼した。たかが給与計算だったが、ひとつひとつを丁寧に片付け、疑問点等の確認のコミュニケーションが高く評価され「ぜひ、安住さんに直接お会いしたくて」となったらしい。女王部長の許可も出て、私は山崎氏が運転する車で旭川に向かった。  約束の午後三時にクライアント先につき、異動する担当者とその上司の温かな歓待を受けた。会社の近くにあるお菓子屋さんで買った焼き菓子を渡すと、他のスタッフたちまで喜んで集まってきた。山崎氏を見ると、きちんと笑顔だった。猟奇的でもなく、皮肉っぽくも、ぎこちなくもなかった。  後任担当者へのレクチャーと、その後のお茶会で、クライアント先を出る頃には会社の定時の時間になっていた。山崎氏は会社に電話をし、自分は社に戻るが、私は最寄り駅で下ろして直帰させる、と報告し、電話を切った。  道中もカーラジオから流れる音楽と軽快なおしゃべりのおかげで、気詰まりすることはなかった。特に会話も交わすことなく、札幌へ向けて車は走り出した。路面は冬独特の凍てついたジャリジャリ感があったが、山崎氏の運転は上手だった。深く呼吸するようになめらかで、負荷がないブレーキとアクセルさばき。四課の中では一番運転上手かもしれない。私は池辺係長と同行することが多いけど、彼の運転はなぜか酔ってしまうことに、山崎氏の車の助手席に乗ることで気づいた。 「マリエ、俺、ダメだわ」  大型ショッピングセンターのイルミネーションが見えてきたとき、山崎氏がつぶやいてぎょっとした。私、免許ないですけど。 「ちょっとショッピングセンター寄らせて」 「トイレ?」 「いや、激烈に眠い。……ヤバい」  山崎氏は大型ショッピングセンターの駐車場に車を止めた。クライアント先を出てすぐにコンビニに立ち寄り、飲み物を買っていたから、もう買い足すものもない。山崎氏は手で顔を覆い、こすりあげるようにしていた。確かに激烈に眠い人の顔だった。 「……三十分経ったら起こして」  山崎氏は座席のリクライニングを倒し、眼鏡を外して目を閉じてしまった。目を閉じた顔は清潔そうというのか、ちょっとした仏像のようにも見えた。まいったなあ、と思いつつ、これまでの怒涛のような繁忙期を思い返すと、彼がようやくここで一息つけるようになったことに、ほっとした。  低い山並みの際には夕方の名残の光が残り、季節は少しずつ春に向かっていることを示していた。爪のような細い三日月がその稜線に消えかけていた。名前はわからないけれど、大きな星がまたたき、時間の経過とともに小さな星々が浮かび上がる予感を孕んでいた。 「……マリエさあ」 「ん?」  かすれた声で呼ばれた。 「……ヤリたい」 「はぁ?」 「……声、デケぇ」  デカくもなるよ! と興奮した。 「何を!」 「……セックス」 「長田代理と、打ち上げにススキノで豪遊すりゃいいじゃん」 「……やだ」 「知らないよ!」 「……マリエとヤリてぇ」  憤慨して山崎氏を睨みつけた。彼は目を閉じたままだった。寝言だったのかもしれない。なら、内容はともかく、罪は問えそうにない。 「……眠てぇ」 「寝れ!」  少しして、かすかな寝息が聞こえてきた。冗談というものがわかってないのだろうか、この子は。閑散期には、ちょっと揉んでやらなくてはならない。 「……俺も、普段はこんな風に言わない。……ちゃんと、少しずつ池辺係長みたいに爽やかさをアピールして、LINE交換して、そうやって少しずつ距離を縮めて、かわいいとか、付き合ってとか言う。……でもマリエは俺、ダメだわ。会社の人間だし、一緒に仕事してるし、別に社内恋愛がダメとか思ってるわけじゃないけど、いや、そういうんじゃないんだわ。もうダメ。マリエとヤリた過ぎて、……ダメ」  そんなこと言われても、だった。くさくさした気持ちで窓の外を眺めた。ひっきりなしに車が出入りし、遠くに家々の灯りが見えた。一瞬、限りなくいびきに近い呼吸が聴こえ、途絶えた。 「……マリエとヤって、確かめたいんだわ、俺、多分」  かすれた声が、夢うつつを彷徨うかのようだった。 「何を?」 「……なんで、こんなにマリエとヤリたいのか、ヤればわかるんだと思う。……それでわかんなかったら、マジでクソだわ」  この子の不機嫌は、単純に語彙量の問題かもしれない。 「……わかるのは、好きとか嫌いとか、恋とか愛とか、そういうのもよくわかんないくらい、ぐちゃぐちゃで激しいってこと。今までマジで辛かった」  辛かった、という言葉から、山崎氏が本当に私を求めていることが伝わった。辛かったのだ、この子は。 「……寝な。ちゃんと起こすから」  そう伝えると、大きな深呼吸がひとつ聞こえ、寝息に代わった。  窓の外の夜の向こうに、いくつかのパ・ド・ドゥを眺めた。男性か、女性か、そのどちらかを消して。途端に不自然で、寂しかった。その寂しさに、落涙さえした。ソロはソロだし、パ・ド・ドゥはパ・ド・ドゥでなくてはならなかった。  私はパ・ド・ドゥを踊ってみたいんだ。山崎氏も。  スマホのアラームが鳴り、山崎氏に声を掛けた。やや血の気の失せた顔で山崎氏は顔をしかめ、さらに眼をギュッと閉じた。 「……てぇ、ら~、ららら、山崎拓斗、てぇ、ら~、ららら山崎拓斗、ゆーめーえーとぉーつぅーづぅーくぅーみぃーちぃいいい、やっまざきぃ」  山崎氏は、目を閉じたまま、力なく歌い出した。何のおまじないだろう。真言には続きがあった。 「すたんどこえてだきゅ~うわぁ~、はるかなゆめえとつぅ~づく~、いけやま~ざきぃ~、あらたなぁ~じだいを~、かっとばせぇ~、やぁ~まざきぃ」  スタンドで打球でかっ飛ばせなので、野球で打者に対する真言だ、ということはわかった。この子は毎度、こんな起床の仕方をしているのだろうか。真言は二度繰り返されたが、身を縮めるだけで起き上がらなかった。 「三十分経ったよ」 「……お願い」  さっきのヤルのヤらないのの後で、少し身構えた。 「……ゴーゴースワローズって、言って」  意味がわからない。でも注文には応えた。 「……もういっぺん。てか、繰り返して」  山崎氏が運転してくれなくては札幌に帰れない。私は言われるがまま、何度もゴーゴースワローズと唱えた。回を重ねると、山崎氏も一緒になり、前奏のようなフレーズを歌いながら、ゴーゴースワローズと唱えた。 「よし、起きた。行くべ」  山崎氏は満ち足りた子どもみたいな笑顔を向けた。眼鏡を掛けていない山崎氏と眼を合わせたのは、これが初めてかもしれない。山崎氏は、プロ野球の東京ヤクルトスワローズに関連したらしい歌をいくつも口ずさんだ。さっきの話は、寝言だったのかもしれない。 「さっきはごめん。あれはよくなかった」  滝川を過ぎた頃に、落ち着いた声で山崎氏がつぶやいた。 「でも、俺の中ではぶれてないんだよね。決算期過ぎたら、俺、マリエを抱くわ」  対向車の明かりにシルバーフレームを光らせながら、山崎氏は前を向いたまま言った。身体の中で、温かな液体が、甘く揺れる。私はこの場にいちばんふさわしいセリフを考えた。 「ゴーゴースワローズ」  山崎氏は一瞬沈黙し、 「ゴー! ゴー! スワローズ!」 と、ファンファーレのあとに唱えた。  幸福な高揚感の中で、車は札幌に向かって走り続けた。 了
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