きみのマフラーになりたい

2/7
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
「いらっしゃいませ」  空はどんよりと曇っていて、いまにも降りだしそうだった。  年が明けてしばらくは、ただでさえ多くない客足が鈍る。新学期が始まる前や、冬物のコートをしまう頃が、クリーニング屋の繁忙期だ。 「こんにちは。制服の上下を、お願いしたいのですが」 「こちらですね。お預かり致します」  百貨店にお勤めのタカダさんは、ベテランの女性販売員だ。  ふくよかな体型を包みこむ紺色の制服二着を受け取った僕は、カウンターに広げて状態を確かめる。  取れそうなボタンはないか。綻びはないか。ポケットに入っているものはないか。クリーニング受付の基本であり、これを怠ると、クリーニングに出したらシミがついたなどというクレームの元になってしまう。 「いま、お預かりでしたら、明後日には仕上がります」 「わたし、週末まで休暇でね。日曜の夕方に取りにいってもいいかしら」 「わかりました。夜八時まで営業しておりますので、お待ちしております。お休みなんですね。どちらに行かれるんですか」 「ちょっとね、オーストラリアまで旅行に、ね」 「いいですね。向こうはいま、真夏ですか」 「そうなのよ」  タカダさんは嬉しそうに声を弾ませている。旅行って誰と行くんだろう、と気にはかかるが、僕が聞くことでもない。 「いつも、ありがとうございます」  ひとしきり、旅行の計画を喋って、タカダさんは出ていった。  二着の制服を店のハンガーにかけると、タカダさんの使うアトマイザーの香りがした。化粧品の匂いと混じるそれを嗅ぐと、瞬時にタカダさんの顔が思い浮かぶ。我がことながら、パブロフの犬もびっくりだと思う。  僕はアイロンが途中だったワイシャツに戻る。  仕事の内では、この作業が一番好きだった。服の皺を伸ばし、新品同様になる瞬間は気持ちがいい。父の代から使っているアイロンは、古くて重たい。負担になるので、右手首のサポーターが欠かせないが、これが一番使い勝手がいいので仕方ない。  小さな小さなクリーニング屋は、父の代から続く常連のお客さんたちに支えられている。駅前には大手チェーンのクリーニングもあるが、うちの店を選んでくれるお客さんを失望させるわけにはいかない。  どんなお客さんも、大切なお客さんだ。  心をこめて、丁寧に。  先代店主である父は、クリーニングの技術は素晴らしかったが、それ以外のことは心許なかった。なにしろ、値段のつけ方が適当だ。  同じ服を出しても、毎回、値段が違うのよね、と常連に笑われたことがある。苦笑いで頭を下げるしかなかった。ボケているわけではないのに、実際に適当だったのだ。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!