きみのマフラーになりたい

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 狭い店内には普段から様々な匂いが混じりあっているが、僕の犬並みの嗅覚は、その人の匂いを確実に嗅ぎわけていた。  石鹸を思わせる整髪料と、メンソール煙草の匂い、それに付き合いなのか、時々は飲み屋の匂いがする。  僕自身は酒も煙草も嗜まないが、煙草を吸っている人の匂いは嫌いじゃない。  二十代の半ばから後半、僕と同じくらいの年に見えるが、他にはなんの共通点も見当たらない。  学生時代にはスポーツをしていたであろう、筋肉質のがっしりした体格で、特に足が長い。右手のほうが少しだけ長い。テニスだろうか。かなり打ちこんでいたはずだ。服はその人の体型を如実に伝えてくる。セミオーダーメードのスーツでも、文字通り、手に取るようにわかってしまう。  青白い顔で腺病質、いまどきの女性よりも背の低い僕が、できればこうなりたかったという理想のすべてを体現したような、その客の名前は、コウサカさん。 「すみません。すっかり、遅くなってしまって」 「いえ」  僕はコウサカさんから引換証を受け取って、名前を確認するフリをする。小指の先が少しだけ触れた手のひらは、氷のように冷えている。コウサカさんは脱いだ革手袋を小脇に抱え、濃い青色のマフラーを巻いているが、コートを着ていない。冬はいつもその格好で、店の前を行き来している。 「降ってきましたね」 「ええ。傘持って出て、正解でした。今晩は積もりますかね」 「どうでしょう。うちの店の前は、雪が積もると溶けないんで困るんですが」 「雪掻きは、大変ですよ。俺の田舎のほうじゃ、二階まで積もるんです。高校の頃なんて、三階の校舎から校庭一面の雪に向かってダイブしてました。もう、あんなことは、やれませんけどね」  初めて聞くコウサカさんの地元の話をもっと聞いていたかったが、あまり引き止めるわけにもいかない。僕は預かっていた細かなストライプの入ったダークグレーのスーツに保護用のビニールを掛けて、手渡した。 「このお天気ですから、もう一枚、袋を掛けしましょうか」 「いえ、大丈夫です。すぐ近くですから」 「ありがとうございました。お足元が悪いので、どうかお気をつけて」  コウサカさんは大きな体で仕上がったスーツをかばうように抱え、傘をさして帰っていった。ほんの数分の間に、白い粉のようだった雪は目に見えるほどの塊になっていた。濡れたアスファルトを踏むと、みぞれのようになっている。  吐く息が白く流れる。顔に雪がかかり、瞬時に水滴となる。自分の頬が少し熱くなっていることに気づく。  僕は看板をしまって、表のシャッターを下ろし、ガラス扉の鍵を閉めた。  コウサカさんの住所は知っている。  初めて来店した時に、書いてもらったものがある。けれど、その場所まで行ってしまうと、言い訳ができなくなりそうで、足を向けたことはない。ストーカーだと思われるのが恐ろしい。自意識過剰だとわかっているけれど。  鍋の底みたいに錆びた町の、古ぼけた商店街の外れの小さなクリーニング店。  この狭い店こそが、僕の唯一の居場所なのだ。ここで生まれ育ち、死ぬまでここにいるだろう。他に行く所なんてない。  仕事は大変だけれど、目の前にいる客に必要とされていると思えば、つらくはない。狭い店内を埋めつくす衣服は、僕がここにいていい理由を与えてくれるように感じる。たくさんの服の匂いに包まれていると、自分は一人じゃない気がする。  電気を消して、二階にある自室に戻ろうとしたところで、それに気がついた。
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