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薄暗い店内のカウンター脇にある、パイプ製の赤い丸椅子の上。
そこには、僕でも知っているくらい有名な海外ブランドのロゴが入った、小ぶりな紙袋が置かれていた。
騒ぎだす心臓を抑えるように、左胸に手を当ててから、浅葱色の紙袋をそっと持ち上げる。拍子抜けするほど軽い、冷えた包みだった。
指紋がつくのも恐ろしいので、取っ手の紐をつまみ上げて蛍光灯にかざしてみるが、中身が透けて見えるはずもない。
カウンターに置いて、ゆっくりと深呼吸をした。うしろを振り返るが、シャッターは完全に閉まっている。僕の行動を咎めるような人目はない。なにしろ、中身がわからない以上、対応すら決められない。
「このままには、できない、だろう?」
自分に言い聞かせるように独りごちて、指の腹を使って、紙袋の中身を取り出す。それは、僕が思っていたのと寸分違わない、紙袋と同じ浅葱色をしたビロード張りの小箱だった。
息をするのも忘れて、小箱をそっと開く。
僕が最初に思ったのは、高そう、だった。
流行にもお洒落にも縁のない男には、相場など見当もつかないが、小さくないダイヤらしき石の嵌った銀色の指輪が、安物のはずはないだろう。
「そりゃ、そうだよ」
紙袋はよく見ると、底の角の部分が少し湿っている。雪が降り出してからやってきた客、外の冷気をまとったままの忘れ物と言えば、コウサカさんしかありえない。
「あんなイケメンのスポーツマン、彼女の一人や二人いて当然じゃないか」
人気のない店内に、かすれた独り言が響くほど惨めなことはない。
同時に、コウサカさんの忘れ物にショックを受ける自分にも驚いていた。
どうにかなりたいと思っていたわけじゃない。
僕はクリーニング屋で、彼はお客さん。時々、利用してくれる。それだけでよかった。
彼の世界と僕の世界は、交わることはない。
これまでも、これからも。
馴染みの客でいてくれたら、それでいい。けれど、結婚したら、奥さんとなる女性は、こんな流行らないクリーニング屋には来ないだろう。そもそも、いまよりも広い家に引越しするんじゃないか。会社員であれば、急な転勤だってありえる。
当たり前の事実に、いままで思い至らなかった。
今夜限りで、コウサカさんとは、もう会えないかもしれないのだ。
「いやいやいや。まずいよ、これは」
婚約指輪を、このまま置いておくわけにはいかない。いまから、走って追いかければ間に合うだろうか。大切なものなので、お届けにあがりました。そう言えば、不審には思われないだろうか。いや。
やっぱり、怪しい。
忘れ物を走って届けるクリーニング屋なんて、聞いたことがない。
「普通は、電話だよ」
忘れ物をお預かりしているので、近いうちに、お立ち寄りください。
一番、自然だ。正しい対応だ。パニックになっていた自分に呆れる。コートを引っ掛けて、走ろうとしていた自分の愚かさ加減にうんざりする。
「どれだっけ、番号」
コウサカさんは、僕が引き継いでからのお客さんだ。一冊前のファイルを引っ張り出して、カウンターでめくり始める。
暖房を切った店内は急速に冷えだしていた。指先がかじかんで、紙がうまくめくれない。慣れ親しんだ洗濯糊の匂いが、急に鼻につくように思えて、閉口した。
「これ?」
走り書きされたコウサカさんの名前と住所、電話番号に目をこらす。インクがにじんで判読しづらい。5なのか、7なのか、それとも9か。
すべて言い訳だ。
僕が、電話をかけたくないのだ。
どうすれば、かけなくていいのか、そればかり考える。
室温はますます下がっていく。無様なクシャミをもらした僕は、一番卑怯な方法に出た。
今晩は、忘れ物に気がつかなかったことにした。
シャッターが降りて、鍵のかかった店内だ。明日の朝、開店時間までに対処法を考えればいい。
飴色の柱時計が、僕を責めるように低い音で鳴った。
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