きみのマフラーになりたい

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きみのマフラーになりたい

 嗅覚には自信がある。  ものには独自の匂いがある。時間を経て、混じりあったり、薄れたりはしても、必ず匂いは残っている。  特に、人にはそれぞれ固有の匂いがある。体臭だけではない。日々の生活で育み、培ってきた、その人らしい匂いがある。  僕の世界は、そんな人たちの営みから生まれる匂いで溢れている。  自分の前世は、警察犬かなにかだったんじゃないかと、時々思う。普通の人間生活では、あまり役に立たない能力だ。匂いで人を嗅ぎ分けられたところで哀しいかな、『変態』のレッテルを貼られるだけである。  こんな僕だけど、好ましい匂いというのはある。    頻繁には洗えない学生服の襟元の匂い。  消毒液らしき刺激臭の混じるナース服の匂い。  それと、整髪料とメンソール煙草が染みこんだスーツの匂い。  好ましい匂いを手にすると、肺につまった空気をすべて吐き出して、衣類に鼻を(うず)めて、胸いっぱいに吸いこむ。頬擦りしたいのをこらえて、匂いだけを嗅ぎとる。  匂いに対価を払う必要はない。嗅ぎたいだけ、嗅ぐことができる。  当然、他人に見られるわけにはいかない。  こんな姿を見られたら、それだけでアウト。ジ・エンド。社会的人生の終焉を迎える。  紺色のセーラー服はもちろん、白いナース服だって、詰め襟の学ランだって、ダークグレーのスーツの上下だって、他人のものに必要以上に顔をよせていれば、不審に思われる。ただの変態にしか見えないだろう。  そうではない。僕は、服の布地に染みついた匂いに、強く惹かれるのだ。そう力説したところで、誰も理解してくれないだろう。  そんな僕が、うらぶれた商店街の端にある、個人営業のちっぽけなクリーニング店を父から引き継いだことは、天職以外の何物でもなかった。
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