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きっかけ
夜の世界では源氏名をつけないで本名で仕事をするとこの世界から足を洗えなくなるとよく聞く。
じゃあどんな名前をつけようかなと深く考えなくても案外ノリで決まったりする。
俺の場合は本名が「伊藤秀一」だから自然にシュウと呼ばれるようになった、それだけ。
大学を2回生でドロップアウトして夜の世界に来たのもなんとなくだった。友人が水商売で生活していたので興味半分で覗いてみたらハマった。まだ大学に籍が残っていた時
「学生でホストはかなり大変だと思うよ。売れればいいけど個人事業主だからさ、売上なかったら無給だ。それより時給分もらえるボーイズやバーのほうがいいって。就職するまでのバイトだったら本気で足突っ込まないで軽い所でカネもらえる所からやりな」
そう言って今の店を紹介してもらった。『エッジ』という店で面接してくれた店長の山中成実さんにも同じような事を言われた。
結局どっぷりこの世界にハマったのは水に合ったのだろうか。
名前なんか関係ない。結局道は勝手に決まる。
ボーイズは簡単に説明するとスナックの男性バージョン、カウンター越しに接客して店長のフォローをする。もちろんお客様に気に入ってもらうに越したことはないが服装もカジュアルだし仕事をしにくいと思ったことはない。
ただ体力的にキツイ。夜の9時から明け方3時くらいまで営業、混んでいれば5時くらいまで閉店できない法律スレスレの時間帯。仕事終わりのお姉さま方が多いがアフターで使ってくれるというよりは仕事の愚痴を言い合う闇のガールズトークが店内に響く。
まわりがプロばかりで仕事は自然と憶えてしまった。テーブルマナー、お酒の作り方、接客。一応最初に店長にレクチャーしてもらったけど
「シュウは新人ってのを売りにして。最初はぎこちないほうが気にいられるよ。そういうの嫌がる客にはつけないようにこっちで見てるから」
そう言われて立ってみると好き嫌いがハッキリしていてわかりやすい。イヤな客にも最初は努力したが酒が入ってる状態で逆転するのは至難の業だった。絡んではこないが思い切り無視される。そういう時はさりげなく離れた。
慣れない俺を見て話しかけてくれる方にずいぶん助けられた。何をどう話せばいいかきっかけがわからず焦っていると助け舟をくれる。
だがアンダーグラウンドで生きていこうと覚悟を決めたのは仕事ではなかった。
店の奥にある、黒い簾の中を覗いてしまってから俺はここから抜け出せなくなった。いまにしてそう思う。
この世界の深淵を知らなかったほうがよかったのか、人間の奥底が仄暗い闇であることを体で知ってしまったのがいけなかったのか。
ただその仄暗さが俺には居心地がよかった。その時はほかに理由がわからなかった。
店で働きだしてずっと気になっていたカウンターから少し離れたボックス席。
そこは簾で隠れて中ははっきり見えない。ほかの席は仕切りがないのにそこだけは隔離された空間で最初は近づけなかった。側を通ったとき中に人の気配は感じるが、誰がいるのか店長もお客様もその事には触れなかった。
VIP席みたいなものかな、それくらいの感覚でしかなかったがそこに入っていくのは店長か在籍の長い先輩たちで自分はミネひとつ運んだことがない。
俺の視線に気がついたお客様のひとりが
「あそこは人生相談の場所」
綺麗なネイルで指差して
「でも闇の相談ね」
「シュウ君、奥にこれ持っていってくれる?」
店長が奥から焼きそばと取皿を持って現れた。
噂をすればご指名よ、そう言って送り出された。
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