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席に戻ってから、なにを話したかは覚えていない。
馬——園部がくだらない話を延々としていたから、泉も史人も、言葉少なめに、ただ酒を飲むだけだった。
泉の濡れた唇を見て、史人は先ほどふれられた部分が疼いた。
キス、よかったな。
アルコールに浸されて、やや朦朧とする意識のなか、凝視していると——それに気づいた泉が照れたように目を逸らした。
恥ずかしそうにする、ウブな反応がまたいいのだ。
既婚者のくせに。
あんな荒々しく、乱れるくせに。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
メッセージを告げるポップアイコンが表示されている。
優太からだった。
——大丈夫? ヤったりしてないよな?
それを目にした途端、自身を支配していた熱情がみるみる覚めていくのを感じた。
じわじわと終電が近づいてきているから、心配して連絡してきたのだろう。
とりあえず史人は「ヤってません。無事です」とだけ返した。
大丈夫。嘘はついていない。
触れ合ったのが上半身だけならノーカウントだ。
——ちゃんと終電で帰ってきなよ〜
なんだろう。
この母親のような疎ましさは。
しかし、帰らなければまた面倒なことになるから、史人は「了解」とだけ返した。
スマートフォンをしまって顔を上げると、泉がこちらを見つめていて、冷めかけていた気持ちがまた、温まり始めていくのを感じていた。
「おい、ふしだら」
見惚れていると、横から肘で小突かれ、史人は園部の存在を今、思い出した。
「なんですか?」
「俺、ちょっと会計してくるから」
泉がよそ見をしているうちに素早く伝票を掴むと、立ち上がっていそいそと消えていった。
どうせ、経費で落とすつもりなのだろう。
「あれ、園部くんは?」
「ああ、トイレですかね」
会計をしたことを告げたら、やれ割り勘だの奢るだのと気を遣い合うことが目に見えている。
それは面倒なので、史人は適当に濁しておいた。
泉はいつのまにか焼酎のお湯割りに切り替えていた。
手のひらを温めるように湯呑みを握りながら——俯き加減で言った。
「君は、ああいうの……慣れてるの?」
史人は首を傾げた。
本当は慣れているが、相手が泉だから濁しておいたほうがいいだろう。
「どうでしょうね。でも俺は、ゲイですから」
セクシャリティを表す2文字に戸惑ったのか、泉は目を瞬かせながら、不自然に湯呑みを見つめている。
史人は頬杖をつきながら、その上品な顔をまじまじと眺めた。
泉は湯呑みを手のひらで回しながら、なにかを言おうとしては躊躇うという行為を繰り返していた。
そして、意を決したように口を開く。
「この後……ふたりで話、できるかな」
史人は乾いた笑いをもらした。
「なにを話すんですか」
——いまさら、話すことなどなにもない。
史人はただ泉が欲しいだけで、理屈をこねるつもりも、愛を語らう気もさらさらなかった。
「どうしたいか決めるだけですよ。泉さんが」
ゆっくりと眼鏡を外し、大して汚れてもいないレンズを拭きながら————挑発するように見つめてみる。
それでも、泉はまだ、欲望と理性の狭間を行ったり来たりしているようだった。
会計を終えた園部が戻ってくる。
「この後どうします? もう一軒行きますか」
園部の声に、泉が顔を上げた。
史人の顔色を伺っているようだった。
「あ、俺はもう帰ります」
史人は一方的に言うと、おしぼりで手を拭いてから鞄を手に取った。
園部は物足りなさそうな顔をしながらなにか言っていたが、史人が微塵の隙も与えずに身支度をするのを見て、渋々ジャケットを羽織った。
立ち上がり、泉を横目で見る。
彼もまた、史人を見ていた。
————賭けてみよう。
「あ、俺はトイレに寄っていくのでここで。お疲れ様でした」
園部にごちゃごちゃ言われるのも面倒なので、片手を軽く上げてからさっさと踵を返した。
あー、おい。ふしだら!
お前色々ありえねぇぞ。
背後から文句がぶつかってくるが、史人は気にも留めなかった。
だって言ってるの、園部だし。
園部のほうがありえないし。
史人はそのまま客もまばらな店内を歩き、トイレのドアを閉めた。
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