取引先のあの人

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——泉とはあの後、店の前で別れた。 彼はなにか言いたそうだったが、史人はその隙を一切与えなかった。 そのまま後腐れなく別れる予定だったが、別れ際に店の脇に連れて行かれて——キスをされた。 「本当に帰っちゃうの?」 頬を撫でられ、囁かれて——史人は一瞬、心が揺らいだ。 「泉さんこそ、奥さんの待っている家に帰らなくていいんですか」 泉が押し黙った隙に、史人は体を離した。 ——なにごとも腹八分目がいいのだ。 交わった後は、大抵、みんな名残惜しそうに史人を帰したがらない。 だけど彼らは朝になれば、まるでインプットされているかのように、巣にかえっていく。 この男も、久々の快楽を味わったことにより、熱に浮かされているだけなのだ。 「一緒にいようよ」 史人をものにした後の泉は、いつもの柔和な表情が崩れて、少し強引になった。 これが本来の彼なのだと思うと、たまらなく興奮して、一回きりというのが惜しくなってくる。 「史人って呼んでいい?」 こちらの牽制などおかまいなしに耳打ちされて、史人はくだけそうになる腰をなんとか踏ん張った。 あー、史人って呼ばれたい。 呼ばれながら、今の強引な泉とまたやってみたい。 喉元まで出かかった言葉を飲み下して、泉の胸を押した。 「もう、帰らないと……」 帰りたくねえぇぇぇ! 心の中で絶叫しながら、史人は控えめに言った。 しかし、この控えめな態度が男をさらに燃え上がらせることは、すでに体得していた。 「プライベートのほうの連絡先、教えてくれないの?」 教えたいぃぃぃぃい!! 歯を食いしばりながら、史人は困ったような顔を繕って、首を横に振った。 連絡先は教えない。 2度はやらない。 破ってしまったら、優太と史人の和親条約にひびが入る。 遊ぶためには優太の協力が必要だから、せめてこれだけは守らなくてはならない。 「俺は、不倫する気はありませんから」 きっぱりと言ってから踵を返すと、泉は追いかけてこなかった。 そう、それでいい。 ——史人は誰とも深い関係になるつもりはない。 不倫で気力をすり減らす気もない。 ただ————
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