取引先のあの人

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「なんでしょうか。案件って」 泉は史人の側に回り込んでくると、手首を掴んだ。 その手つきは乱暴で、怒りをはらんでいるように思えた。 「なんで無視するの?」 ——剥き出しになった泉は、やはり怒っている。 目も、声も。 「あ、電話ですか?すみません。気付きませんでした」   薄ら笑いでかわそうとするものの、泉には逆効果らしい。 腕を引かれ、壁に押し付けられていた。 息が荒い。 憤っているからなのか、それとも———— 「話がしたい。史人」 ふみと。 名を呼ばれて、不覚にもときめきそうになる。 史人は感情を押し殺して、唇をむすんだ。 「話すことはありません」 胸を押して、すり抜けようとするものの、押し戻されてしまう。 「なんでだよ。俺、どうしたらいいんだ……」 泉の目は泣きそうなくらいに潤んでいた。 恋情の行き場がなくて、ひどくうろたえている。 「あれからずっと、史人のことが頭から離れない……」 頬を撫でられ、またしても胸がときめきそうになるのを、腹筋に力を込めてこらえた。 あーかわいい。 食べちゃいたい。 「大阪に行ったら忘れますよ」 「なんでそんなこと言うの」 悲しそうに首を傾けられ、史人はまたしてもたじろいだ。 飼い主に叱られた大型犬を彷彿とさせるその姿は、もはや破壊的だ。 可愛くてかわいそうで———— 「史人とのこれからのこと、ちゃんと話したいんだ」 「これから?」 唇を近づけられて、史人は顔を逸らした。 そしてやや強い力で胸を押し、泉を突き放した。 「これからってなんですか。大阪で時々会ってセックスしましょうっていう相談? それしかないですよね」 「違う」 「ほかに何があるんですか」 史人は、曲がったネクタイを直して背を向けた。 名刺入れを鞄にしまおうと机にのばした手をふたたび掴まれてバランスを崩し——その場に倒れ込む。 上から、泉がのしかかってきた。 「離婚する。だから……」 離婚の2文字が出たとき、やんわりと生じていたときめきが一気に弾け飛んだ。 ——かつての愛人たちは、まるで一時の魔法にかかったように、その言葉をしばしば口にした。 しかし、それを本当に実行するのを、史人はまた一度も見たことがなかった。 史人にとってそれは、最も不誠実で軽薄なものだった。 泉は穏やかで、上品で————これまでの行きずりの相手とは異なる存在だった。 恋愛めいた感情が、ないと言ったら嘘になるくらいには、特別だったのだ。 しかし、今の一言で———泉を覆っていた光のベールは、完全に消えてしまった。
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