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「じゃあ……」
言いかけると、なぜか泉も乗り込んでくる。
「下まで一緒に行くよ」
え—————?
史人のなかで、小さな違和感が生じた。
この場に幾度となく足を運んできたが、こんなことはかつて一度もなかったのだ。
しかも、たった今——気が変わったかのように言い出したので、史人は少し混乱しながらも、1階を押した。
いつもは混雑しているエレベーターも、今日に限って誰も乗っていない。
史人は、自分のうなじあたりに視線を感じて、鏡面仕上げのエレベーターのボタンで背後を確認した。
——ああ、やっぱり。
泉はすぐ後ろで自分を見つめている。
やばいな。
眼鏡を外すことになるとは、思っていなかったから――――
高層ビルの最上階。
1階に着くまでの時間が、とてつもなく長く感じる。
「奥さんは……」
「え?」
「奥さんはついていくんですか? 大阪に」
史人の質問に、泉は驚いたようだった。
プライベートなことを聞いたのはこれが初めてで、結婚しているかしていないかさえも、直接確認したことはなかった。
「あー、たぶん来ないよ。あっちも仕事してるからね。まだ子どももいないし……」
子どもはいない————
「寂しくなっちゃいますね」
呟くと、泉はごまかすように笑っただけだった。
1階に着くと、史人はやっと安堵した。
もうふたりきりで会うことはないだろうから——なんとか切り抜けられそうだ。
「下まで来ていただいて、ありがとうございました」
「いや、全然」
泉の視線は、まだ熱っぽい。
それから逃れるようにして、史人は頭を下げた。
「じゃあ、また」
踵を返したとき、ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間————
「設楽君」
名を呼ばれて、ふたたび心臓が跳ね上がった。
近距離なので気付かないふりをするわけにもいかず、しぶしぶ振り向くと——泉の目はやはりまだ、熱を帯びていた。
「最後だしさ、近いうちに飲みに行こうよ」
「飲みに、ですか?」
「だめ?」
史人は心の中でため息をついた。
——またやらかしたら、優太に怒られる。
でも、逃げ道はなかった。
いや、逃げる気など、根底ではさらさらないのだけれど。
「はい。ぜひ」
泉はほっとしたように笑った。
目尻が下がるその笑顔が可愛くて――史人はますます危機感を覚えた。
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