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取引先のあの人
「ふしだら」
一度は聞こえないふりをして、設楽史人は、プリントアウトした見積り書に視線を落としていた。
「ふしだらぁ、無視するなよ」
ふたたび呼ばれ、心の中で舌打ちをしながら左隣を見た。
園部光が頬杖をつきながら、にたにたと笑っていた。
入社2年目の史人よりもふたつ年上のはずなのに、未だに学生言葉が抜けていない。
電話口で、クライアントに向かって「そうっすねー」「まじっすかー」などと語尾を伸ばして話すのを聞くたび、史人は心の奥底でそっと見下しているのだった。
馬鹿で軽薄な男。
若いからまだ許されているものの、数年経ったらいつセクハラやパワハラで訴えられるか、わかったもんじゃない————
史人は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、ため息をついた。
ふしだら君。
そんな不名誉なあだ名がついた理由は、ごくごく単純だった。
入社すると、それぞれにメールアドレスが与えられる。
名前に会社のドメインが続く、ごくシンプルなものだ。
史人が入社したとき、社内にはすでにふたり、同じ名字の社員がいた。
執行役員である設楽美奈子と、史人よりも3年早く入社した若手男性社員・設楽文彦だ。
設楽が3人もいるというのにも驚いたが、最も不幸だったのは、男性社員の名前が文彦だったことだ。
史人が入社したときには既に、shidara@~も、f.shidara@~も使用されていた。
そして最も後発である史人には
fu.shidara@~
が与えられたのだった。
――ルームメイトの水落優太は、名刺を見た途端、腹を抱えて笑った。
なにそれ。絶対、悪意あるよ。
すげーな。ふしだらかよ。
いや、まじで洒落になってねーし――――
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