花散る頃に

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「君彦さん、ちょっと窓を開けてちょうだいよ」  妻に呼ばれて私は文庫から顔を上げた。  眠っているとばかり思っていた妻が、ベッドの上で半身を起こしてこちらを見ている。少し首を傾げて微笑んでいるから、大分調子も好いのだろう。私はほっと息を吐く。  病室の窓は大方を桜の枝に塞がれている。枝越しに見上げた空は薄暗い。 「今日は寒いよ。体に障る」  宥める私の言葉に、妻はいやいやするように(かぶり)を振った。 「だってあんなにきれいなのに。窓越しではもったいないわ」  お花見に行きたいわ。子供が生まれたらゆっくりなんて出来なくなる。  そう言って、シーツの上から愛おしそうに腹の辺りを撫でる。 「ね? ちょっとだけ」  今日は駄々っ子と決めたのか。  妻は諦める気が無いらしい。苦笑を漏らしつつ椅子を寄せ、痩せた手をそっと握る。 「元気になったら一緒に行こう」  実現することの無いその約束を、私は幾つしただろう。 「花が散ってしまうわ」  外を舞う白い欠片を恨めしそうに妻が眺める。風が出てきたようで、煽られたひとひらが窓に当たっては落ちてゆく。  私は染みの浮いた互いの手を見つめてから、舞い散る雪に視線を移した。  妻が私を君彦と呼んだのは息子が生まれるまでのこと。妻はもう私のことが分からない。  妻が入院してから随分経つ。  軽度の物忘れ。記憶の混濁。感情の欠如。猜疑。激昂。罵り合う日々。  疲れ果てて、私は逃げた。  妻を施設に放り出した。  それは結果的に好い選択だったのだと思う。  少し離れることで、私の心には余裕が生まれた。ぶつけられる理不尽を溜め息と共に受け入れられたのは、妻を捨てた負い目からでもあったろう。けれど、怒鳴り合うよりずっと好いと私は思った。  妻も変わっていった。それが喜ばしいことなのかどうかは分からない。  妻を覆っていた猜疑心や被害妄想といった硬い殻が、少しずつ剥がれ落ちていった。儘ならない「今」を脱ぎ捨てて、彼女はとても穏やかになった。  妻は記憶のなかに生きている。  目の前で話している私を「私」として認識することが出来ない。  目を開ける度にキャストが変わる。  妻が先程眠る前、私は彼女の息子だった。そして目覚めた今は息子が生まれる前の私。 「きっと間に合うよ」  しわくちゃの手をそっと撫でる。 「もう少し暖かくなったらお花見をしよう」  叶わない約束を幾つしただろう。  叶わない言葉を、幾つ呑み込んだだろう。 「約束よ?」 「約束だよ」  妻の為に、私は微笑むことしか出来ない。
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