5人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「君彦さん、ちょっと窓を開けてちょうだいよ」
妻に呼ばれて私は文庫から顔を上げた。
眠っているとばかり思っていた妻が、ベッドの上で半身を起こしてこちらを見ている。少し首を傾げて微笑んでいるから、大分調子も好いのだろう。私はほっと息を吐く。
病室の窓は大方を桜の枝に塞がれている。枝越しに見上げた空は薄暗い。
「今日は寒いよ。体に障る」
宥める私の言葉に、妻はいやいやするように頭を振った。
「だってあんなにきれいなのに。窓越しではもったいないわ」
お花見に行きたいわ。子供が生まれたらゆっくりなんて出来なくなる。
そう言って、シーツの上から愛おしそうに腹の辺りを撫でる。
「ね? ちょっとだけ」
今日は駄々っ子と決めたのか。
妻は諦める気が無いらしい。苦笑を漏らしつつ椅子を寄せ、痩せた手をそっと握る。
「元気になったら一緒に行こう」
実現することの無いその約束を、私は幾つしただろう。
「花が散ってしまうわ」
外を舞う白い欠片を恨めしそうに妻が眺める。風が出てきたようで、煽られたひとひらが窓に当たっては落ちてゆく。
私は染みの浮いた互いの手を見つめてから、舞い散る雪に視線を移した。
妻が私を君彦と呼んだのは息子が生まれるまでのこと。妻はもう私のことが分からない。
妻が入院してから随分経つ。
軽度の物忘れ。記憶の混濁。感情の欠如。猜疑。激昂。罵り合う日々。
疲れ果てて、私は逃げた。
妻を施設に放り出した。
それは結果的に好い選択だったのだと思う。
少し離れることで、私の心には余裕が生まれた。ぶつけられる理不尽を溜め息と共に受け入れられたのは、妻を捨てた負い目からでもあったろう。けれど、怒鳴り合うよりずっと好いと私は思った。
妻も変わっていった。それが喜ばしいことなのかどうかは分からない。
妻を覆っていた猜疑心や被害妄想といった硬い殻が、少しずつ剥がれ落ちていった。儘ならない「今」を脱ぎ捨てて、彼女はとても穏やかになった。
妻は記憶のなかに生きている。
目の前で話している私を「私」として認識することが出来ない。
目を開ける度にキャストが変わる。
妻が先程眠る前、私は彼女の息子だった。そして目覚めた今は息子が生まれる前の私。
「きっと間に合うよ」
しわくちゃの手をそっと撫でる。
「もう少し暖かくなったらお花見をしよう」
叶わない約束を幾つしただろう。
叶わない言葉を、幾つ呑み込んだだろう。
「約束よ?」
「約束だよ」
妻の為に、私は微笑むことしか出来ない。
最初のコメントを投稿しよう!