ハグの始まり~冬のシロツメクサ~

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ハグの始まり~冬のシロツメクサ~

 物音が聞こえた気がして、一之瀬満作は目を覚ました。  満作は振動や音に敏感だ。地震は仕方がないが、近隣の騒音を防ぐために防音性の高いマンションに暮らしている。  瞼を開くと、厚い遮熱性のカーテンの隙間から淡い光が差し込み、満作が横たわるベッドを帯状に照らしていた。百八十二センチの長身をすっぽりと包み込むクイーンサイズで、最高級ホテルも採用しているブランドのベッドだ。  満作が耳を澄ますと、そっとドアを閉める音、そしてビニールのカサカサとした音がかすかに聞こえた。おそらく玄関からだ。 「アザミンね……」  満作は息交じりで呟く。自宅の合鍵を渡しているのは、四つ年下の弟・一之瀬薊しかいない。音を立てないように、という気づかいからもわかる。  名残惜しげに柔らかい枕に額を押し付けてから、ゆっくりと身を起こした。腰近くまである金色のウェーブの髪が、光沢のあるワインレッドのナイトウェアで滑って背中から落ちた。  一月で外は寒いはずだが、室内の温度と湿度は適度に保たれている。床暖房も万全だ。満作は髪をかき上げながらスラリとした長い足をベッドから降ろし、毛足の長いスリッパをはいて、フローリングの寝室を出た。 「あっ、ごめん兄さん。また起こしちゃったんだね」  ひざ丈の白いコートを着た薊が申し訳なさそうに眉を下げ、「おはよう」と付け加えた。ダイニングキッチンのテーブルに、ビニール袋を置いたところだった。 「久しぶりに今日はオフだってメールに書いてあったから、朝ご飯を作ろうと思って来たんだ。しばらく海外だったでしょ。日本食が恋しいかなと思って」  満作は海外出張から昨夜戻ったばかりだった。自宅に帰ってベッドに入ったころには、深夜一時を回っていた。  薊が持ってきたビニールには、食材が詰まっている。それを見て満作は慌てた。眠気が吹き飛んだ。 「アザミンはそんなことしなくていいの。普段からわたしは外で済ませてるから」 「だから作るんだよ。栄養が偏っちゃうでしょ。それに、僕だって一人暮らしが長いんだから、料理も上手くなってるよ」  薊がすねたように頬を膨らませた。赤子のようにきめ細やかな肌と澄んだ瞳で、とても二十六歳には見えない。頬が赤いのは冷たい外気にさらされていたためだろう。  海外にだって日本人の板前が調理をする本格和食料理店があるし、健康ブームの日本では店を選べば外食でもバランスのいい食事が摂れるのだが、そう言っても薊は納得しないだろう。薊は普段はたおやかなのに、おかしなところで頑固だ。 「来るなら言って。準備をして待ってたのに」  現在、両親は海外に移住している。新宿区の神楽坂にある実家に薊が一人で住み、満作は港区のマンションに住んでいた。新幹線にすぐに乗れ、羽田空港にも近いことが決め手だった。  満作は薊を抱き寄せた。大柄の満作に薊の身体は包まれる。ナイトウェア越しに、薊の冷えた体温を感じた。 「ご飯を作ってから起こそうと思ったんだよ」  計画倒れになったことが残念だという顔をしていた薊だが、途中から笑みに変った。 「どうしたの?」 「ふふ、兄さんの匂いだなって思って。普段は香水で隠れちゃうから」  薊は通った鼻先を満作の胸元に擦り付けた。満作はエクステンションのついた長いまつげを何度かまばたいた。  我が弟ながら、そんなセリフやしぐさを臆面もなくやってのけるとは。それでどれだけの人を惑わせているのやら。天然すぎて心配だ。  そういう薊からは、いつものごとくフローラルな香りがする。薊は花屋なので、花の匂いが染みついているのだろう。 「それにしても、いつ来ても兄さんの部屋はショップみたいだね。こんなに物があるのに、よく片付くね」  恒例の抱擁が終わると、薊はコートを脱ぎながら部屋を眺めた。タートルネックのセーター姿になると、細身であることがよくわかる。腰は両手でつかめそうだ。  見慣れた弟だが、何度見ても可愛らしいと満作は思う。幼少時のイメージが重なるためでもあるが、兄の欲目だけではなく、一般論として薊は群を抜いた美貌を持つ。  整った顔のパーツが奇跡のバランスで配置され、満作がいじりたいがために肩まで伸ばさせているストレートの黒髪は、光に当たると紅茶色に透ける。百七十六センチの身長があるので女性には見えないが、薊は中性的で柔らかな雰囲気をまとっていた。  兄の満作も、弟とはタイプの違う美形だ。猫のような瞳とつり気味のはっきりとした眉は、意志の強さが表れている。  起き抜けで今はスッピンだが、普段はユニセックスの派手な衣装と化粧で武装をしているので、世間ではビジュアル系だと言われている。しかし本人にはその気はない。ファッションやメイクを自由に楽しんでいるだけだ。その容姿に引きずられてか、いつの間にか口調までユニセックスになっていた。  「またお皿やペンが増えてるみたい。あ、照明が前に来た時と変わってる」  薊は興味深そうに見回しながらゆっくりとダイニングキッチンを歩く。  満作は輸入生活雑貨ブランドの経営者だ。バイヤーとして海外の雑貨を買い付けに飛び回り、自社オリジナルの企画開発やデザインも手掛ける。ステーショナリーブランドとのコラボを取り付けたりもする。  そんな仕事だから、常に新しいデザインと接し、センスのいい新しい商品に囲まれていたい。ファッションに合わせてペンや手帳なども変え、トータルコーディネートしたいと考えるのは、雑貨屋あるあるだと満作は思っている。 「アザミンもなにか飲む?」  満作は冷蔵庫を開けて、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。外食で済ますというのは嘘ではなく、冷蔵庫の中には飲み物ばかりで食材がほとんどない。 「あとで温かいお茶をもらうね。……あっ、これってブックエンドなんだ、インテリアみたいだね」  薊は満作に目を向けずに答える。まだ部屋を見ていたいらしい。 「あっ」  薊の声のトーンが高くなった。今までの感心していた声音とは違う。  満作は紅茶を淹れようとしていた手を止めて、本棚の前にいる薊に近づいた。  薊は一冊の本を手にしていた。 「これ……もしかして、あのときの?」  薊は満作を見上げた。 「そう」  満作が頷くと、薊は感動したように頬を染めた。 「まだ持っていてくれたんだ」 「当り前じゃない」  ポンと薊の頭に手を載せると、薊は嬉しそうに微笑んだ。  わたしがこれを捨てるはずがない。  満作は十七年ほど前を思い出していた。 *  *  *  満作が中学一年生になると、生活がガラリと変わった。  それまでは徒歩十五分の小学校に薊と一緒に通学し、塾以外の時間も弟と過ごしていたのだが、薊といる時間が大幅に減ったのだ。  満作は私立の中学に通うために電車通学になったので、薊と家を出る時間も違えば、帰宅時間も遅くなった。  それでも強制入部である部活は、活動があまり活発ではない手芸部に在籍し、なるべく早く家に帰るようにした。手芸部は週に一度出るだけでいいことと、このころから満作は小物を作ることが好きだったので、一石二鳥だった。  満作が急いで家に帰り、薊の傍にいようとするのには、理由があった。  まずは、薊がまだ小学四年生という年齢から、一人にさせるのが心配なことだ。  父は大学の教授、母は花屋を経営していて、二人とも帰りが遅い。しかも両親は放任主義で、子供のことは放ったらかし。あきれた満作が家事や薊の面倒を見始めると、そちらは満作に任せて、ますます仕事に打ち込むようになってしまった。あまりに無責任な両親と満作との間に確執が生じたのはそのころだ。  また、薊があまりに無垢すぎるのも、満作の心配の種だった。実際に薊は、誘拐犯に同情して同行しようとしたことがある。  薊は植物関係の仕事に就く両親の影響を受け、普段は庭の植物観察をしているか、植物図鑑を部屋で眺めていることが多い。しかしまったく外出をしないわけではないので、よからぬことに巻き込まれないか気が気ではない。  満作は周囲から浮くほど容姿が整っていたので、その自覚をしていたし、チヤホヤされ慣れていた。さまざまな人から、さまざまな言葉をかけられ、さまざまな目に晒されてきたので、小学校高学年になるころには観察眼が備わっていた。善かれ悪しかれ老成してしまったのだが、同じ環境のはずの薊には、そのような成長が見られなかった。まだ小学四年生だからかもしれないが、おそらく、薊はそういう気質なのだろうと満作は思った。  弟を守れるのは自分だけだ。  満作はそんな義務感を抱いていた。  しかし、なんだかんだと理由をつけても、満作はただ薊といたかった。 弟が大好きなのだ。 「頼む一之瀬、バスケ部に入ってくれ!」  二学期の終わりころ、満作は仲のいいクラスメイトに拝まれた。 「どうしてオレ? しかも、こんな中途半端な時期じゃ先輩に目をつけられるだろ」  中学生の満作は短い黒髪で、一人称は「オレ」だった。髪を伸ばし始めたのは高校生、ユニセックスの服を着始めたのは大学生からだ。 「バスケ部の人数が少ないのは知ってるだろ。しかも二年の先輩が転校しちゃって試合がピンチなんだよ。一之瀬めっちゃバスケ上手いじゃん」  友人は昼休みのお遊びのことを言っている。満作たちはよく体育館でバスケットボールをしていた。 「先輩と顧問からのご指名なんだよ。頼む!」  友人は両手を合わせて頭も下げた。  満作は文武両道なのでスポーツも得意だ。しかも小学校を卒業する前あたりから身長が伸び、現在百七十センチを超えている。高身長というだけでも、バスケットボール部としては欲しい人材だろう。  成長期特有の節々の痛みがあったので身長が伸びている自覚はあったが、いつの間にか声変わりもしていた。喉の痛みはなかったが、喉仏が目立つようになっていた。 「運動部は、ちょっと」  仲のいい友人の頼みなので叶えてあげたい気持ちはあるものの、満作は言いよどんだ。 「弟のことだろ」  友人は非難するような声音だ。 「家事があるから、毎日練習のあるバスケ部には入れないよ」 「でも、一番は弟の心配だろ」  友人は繰り返した。 「思うんだけどさ、一ノ瀬ってブラコン過ぎねえ?」 「ブラコン?」  ブラザーコンプレックス。兄弟に対して強い愛着を持つこと。  言葉を知らないわけではない。自分がブラコンだとは思わなかった満作は、驚いて聞き返しただけだ。 「お前、スマホの待ち受け、弟だろ」 「だって可愛いだろ」  満作は鞄からスマートフォンを取り出して、薊の写真が表示されている画面を自慢げに友人に見せた。女の子にも見える薊が笑っている。 「お前の弟なんだから顔がいいのはわかってるんだよ。そうじゃねえよ。弟離れしろって言ってるんだよ」  写真を見た友人は顔を赤らめた。 「この前、弟と一緒に寝たって言ってたし」 「時々な」  怖いテレビを見た夜は、「オニーチャン、一緒に寝ていい?」と泣きそうな顔で枕を持ってやって来るのだ。その姿があまりにも可愛いので、ホラー映画は必ず薊と見ることにしている。 「学校が終わったらまっしぐらに家に帰って、弟の面倒を見ながら家事をする。お前の青春はそれでいいのか」 「両親がなにもしない分、オレがやらないと」 「部活もできないなんて、絶対におかしい。この機に弟離れしろよ。異常だって」 「異常?」  満作は形のいい眉を寄せた。 「弟とベタベタするのも異常。家事をやりすぎるのも異常。普通の中学生じゃないっての」 「普通の中学生か……」  満作は眉間のしわを深めた。  友人に「考えておく」と言って手をひらひらとさせる。 「普通とは」  一般的。平均的。  意味はわかっている。しかし「普通の中学生」なんて、誰がどうやって決めるのだろう。  だいたい「普通の中学生」でないとダメなのだろうか。  そんなことを、これから「個性的」だといわれる大人に成長していく満作は漠然と考えた。この頃から「普通」という言葉に違和感を抱いていた。  家に帰ってから満作は弟に、バスケットボール部に入部していいか尋ねてみた。 「うん、もちろんだよオニーチャン」  薊は笑顔で答えた。「オニーチャン」というイントネーションは独特で、少女のような声と相まって耳に心地いい。  しかし、今はそれが、あまり嬉しくなかった。 「いいのか? 帰りが遅くなるんだぞ」 「ご飯とかお風呂とか、ボクだってできるよ。オニーチャンは小四のとき、やってくれてたでしょ」  薊は「頑張る」と拳を握った。子供特有のふっくらとした手だ。薊は小四にしては幼かった。 「一人で留守番できるか?」 「うん」  薊は満作を見上げる。顔が小さいので相対して瞳が大きい。昨年まではそこまで大きな身長差はなかったが、今は薊の顔は満作の胸くらいまで下がった。サラサラとした薊の黒髪を満作はなでた。 「そっか、じゃあオレ、バスケやろうかな」 「うん」  薊は「今日からご飯を作るね」と張り切ったように準備を始めた。 そんな小さな背中を見ながら、「淋しいよオニーチャン、部活なんてやらないで早く帰ってきて」と言われることを期待していたのだと、満作は気づいた。満作の胸にこそ寂寥感が吹き抜けた。満作が思っていたより、薊は成長していたようだ。 「弟離れか」  確かに必要なのかもな、と満作は思った。  それから満作は、バスケ部に入部した。もともとバスケットボールは好きなスポーツなので、すぐにのめりこんだ。  しかし一点、問題があった。  薊が作る食事が、微妙に不味いのだ。  誰が作っても同じ味になるはずの、市販のルーを使ったカレーライスさえ、味がおかしい。食べられないほどではないが、積極的に食べたくないという、絶妙な不味さだった。 「……あれ?」  薊の舌は正常だ。食べると味がおかしいことに気づく。 「おかしいな、味見したときはちゃんとしてたんだけど。ごめんね、作り直すね」 「いいからいいから、食べられないほどじゃないよ」  食材だってもったいない。 そうやって、味を感じないよう飲み込むように食べる満作の近くで「あなた、出前を取りましょうか」「寿司にしろ」なんて夫婦の会話が聞こえると、満作はキレそうになるのだった。  そんなことが二週間ほど続き、どうやら薊の料理の腕に変化がないことを認めると、食事係だけは満作に戻った。  そんな毎日が続いた。  冬休みが終わり、三学期を迎え、勉強、部活、食事係と、忙しくも充実した平和な毎日だった。  しかし、満作は不満が募っていた。  ――薊が足りない。  弟離れしようと決めたのだからと、自分から薊に話しかけないでいると、ほとんど会話がなかった。 つまり、いつも自分から声をかけていたということか。いや、そこまで一方的だったはずがない。 満作は納得がいかなかった。  生活サイクルは違うし、それぞれ自室があるので、顔を合わせるのは夕食くらいだった。  両親の帰りは遅く、兄弟だけで夕食をとることが多い。薊は満作の学校生活を聞きたがるか、図鑑で知った植物の知識を披露するかで、いつも楽しそうだ。満作はそれにも苛立った。  あんなに毎日構ってやってたのに、お前はオレがいなくても平気なんだな。  薊に対してのそんな不満は自分でも理不尽だとわかっているので、口にはできない。それでますますフラストレーションを募らせた。 「おい一之瀬!」  声がしてはっとした時には、ボールが目前に迫っていた。ボールを掴もうとした指先から全身に衝撃が走る。あまりの痛みに片膝をついた。 「なにをぼうっとしてるんだ!」  バスケットボール部の顧問が飛んできた。 「大丈夫か」 「ちょっと、ヤバイかも」  痛みに耐えながら、満作はなんとかそれだけ口にした。左手の小指が動かなかった。 「病院に行こう」  顧問に連れられて診療したころには、小指は腫れあがり、内出血で紫色になっていた。幸い腱や骨には損傷がなかったが、二週間は安静にしていなければいけない。 「ついてない……」  薊と向き合っての夕食時に、満作はそう言ってため息をついた。 「どうしたの?」 「突き指」  見ればわかるだろ、と言わんばかりに満作はテーピングされた小指を顔の位置まで上げた。 「痛い?」 「大したことない」  満作は強がった。本当はズキズキと痛んでいるが、表情には出さない。 「オニーチャン、最近元気ないね。学校でイヤなことあったの?」 「……別に」  元凶のお前が言うな、と満作は思った。 「オニーチャン……」  湖面のように澄んだ大きな瞳で見つめられると、内面を見透かされそうで、満作は慌てて食事をかきこんだ。 「ごちそうさま」  薊の顔を避け、皿を片付けて部屋に戻った。 「オレ、なにやってるんだろう」  満作は額を押さえながら、本日何度目かになる大きなため息をついた。  翌日。一時間ほどバスケットボール部を見学していたが、顧問に家で休めと言われ、満作は早めに帰宅した。 「ただいま」  満作はいつものように手持ちの鍵で玄関のドアを開け、そう声をかけたが、誰からも返事がなかった。  スマートフォンの時計を見る。午後五時を過ぎていた。当然、小学校の下校時間は過ぎているし、薊が外に遊びに行ったとしても、門限は五時だ。 「薊」  久しぶりに薊の部屋のドアをノックする。返事がない。寝ているのだろうか。  ドアを開けるも、部屋の中には誰もいない。ランドセルが置いてあるので、一度帰ってきて遊びに出かけたようだ。  薊が遊びに出ることも珍しいが、門限までに帰ってこないことはもっと珍しい。  しかし小四の男子なのだから、少々門限を破るくらい当たり前かと満作は考えた。最近、自分の帰りが遅かったから、薊の門限破りに気づかなかっただけかもしれない。  しかし、六時を過ぎると考えは変わった。冬のこの季節、外はもう真っ暗だ。携帯電話に連絡をしたくても、薊はまだ携帯電話を持っていなかった。 薊の身に、なにか起きたのでは。  満作に嫌な予感が走る。  そう何度も誘拐なんてあるはずがないが、事故の可能性はある。 「そんなバカな」  満作は頭を振った。それよりも、友達の家に上がりこみ、時間を忘れて遊んでいる可能性のほうが高いだろう。 「友達か」  満作は薊の交友関係を知らなかった。だいたい、友達の家に出かける姿を見たことがない。いつも家に帰ってきて、庭の植物と触れ合っていた。庭には父が仕事のために植えた珍しい草木や改良された品種が数多あるのだ。  母親の職場だろうかと、神楽坂の坂下にある花屋に電話をするも、従業員から「薊くんは来てないよ」と言われてしまった。なぜそんなことを聞くのかと逆に質問されそうになって、満作はごまかして電話を切った。  満作はいても立ってもいられず家を飛び出した。下校した時と同じ、制服にコートを羽織ったままだった。  薊が行く場所はどこだろうか。  真っ先に浮かんだのは、二人でよく遊んだ近所の白銀公園だ。子供の声があふれている公園も、日が落ちた後は閑散としている。すぐ近くなので赤城神社も一通り見たが、子供の姿はなかった。  次に行ったのは、昨年まで満作も通っていた小学校だ。門が閉じられているのでフェンス越しに校舎や校庭を見ながら周辺を走ってみるが、やはり生徒がいる気配はない。  三か所だけで、もう行く当てがなくなった。念のために坂下の花屋もこっそり覗いてみるが、薊がいるようには見えなかった。店のガラス越しに、レジに向かって作業をしている母親の姿が見えたので声をかけようかと思ったが、踏みとどまった。どうせ「そのうち帰ってくるわよ」と言われるに決まっている。 「どうしよう」  家に帰っているのではないかと、スマートフォンから家に電話をかけたが、むなしく呼び出し音が鳴るだけだった。  満作は途方にくれた。同級生からだけではなく、大人からも頼られる満作の頭が真っ白になっていた。  薊はどこに行ったのだろう。  花屋から更に坂を下ると、すぐに神楽坂下の大きな交差点になる。神楽坂は新宿区だが、信号の先は千代田区で、近くに飯田橋駅がある。 「……」  人通りの多い神楽坂下で立ち止まっていると、橋の向こうは高層ビルが多いなと、ぼんやりと思った。神楽坂は昔ながらの街並みを保持するために、高い建造物を控えているのだ。  橋の下にはJR中央線や堀の水が走っている。こちら側とあちら側で、随分と景色が違うものだと眺めていると、対岸に続く緑が目に入った。 「外濠公園」  満作は呟いた。  外濠公園は、JR中央線の飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約二キロに渡って細長く続く、遊歩道つきの公園だ。江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、江戸城外堀は国指定の史跡だ。春は桜の名所としても知られる。 「薊がいるかも」  神楽坂には緑地地帯が少ない。冬の季節は尚更なのだが、線路沿いにある外濠公園には、若干緑が残っていた。  渡りたいと思うと、なかなか信号が青にならない。白い息を吐きながら、満作はじれったくて足踏みをする。  信号が青になった瞬間に駆け出した。そのときにはもう、薊は外濠公園にいると確信していた。  外濠公園を走る。犬の散歩やランニングをしている人の迷惑にならないようにスピードを落としつつも、長い遊歩道から周囲を見回した。目当ての人物がなかなか見つからず、思い違いかと満作の胸に黒いモヤモヤが満ちてきた。  だから、うっかりと見落とすところだった。  街灯の光がかろうじて届く、遊歩道から外れた柵の向こう側で、なにかが動いた気がした。  満作は立ち止まって、気づいた気配に目を凝らした。するとやはり、紅茶色に光沢を放つ小さな頭が見えた。 「薊?」  暗くてよく見えないが、人であることは間違いない。満作が声をかけると、その人物は驚いたように立ち上がった。  街灯の光が、人物の顔を照らす。  やはり薊だった。 「オニーチャン」  目を大きく見開いた薊は、次の瞬間、バランスを崩したように体勢が傾いた。柵の向こうは斜面だ。  そして斜面の下には線路がある。そこまでには距離があるとはいえ、転がり落ちては無事ではいられないだろう。 「薊!」  満作は腰まである黒い鉄の柵に手をかけてひらりと乗り越えると、薊の手をしっかりと握り、引き寄せた。小さい身体が胸におさまる。突き指した左手の小指が痛んだが、安堵のほうが大きかった。  勢いで斜面に倒れこみながら、満作はしっかりと薊を抱きしめた。まるで氷のように薊の身体は冷えていて、そのことにも満作は驚いた。 「なんのための柵だと思ってるんだよ。危ないじゃないか」  薊を抱いたまま斜面を登り、柵を越えて遊歩道の脇のベンチに薊を座らせると、満作は正面に立ったまま怒鳴った。遊歩道を歩いている人が振り向いていたが、満作はそれどころではない。 「ごめんなさい」  薊はうつむいて、身をすくませていた。 「門限は何時?」 「五時、です」  薊は小さな声で答えた。 「今、何時?」 「……わかんない」  満作はため息をついた。 「七時過ぎてるよ。これだけ暗ければ、時計を持っていなくてもわかるだろ」 「……ごめんなさい」  薊の声は震えていた。涙を堪えているのだとわかる。しかし、二度とこんなことはあってはならない。満作はきつく叱るつもりだ。 「もし悪い人に見つかったら、こんな時間に一人でいる薊にだって非があるってことになるんだ。ちゃんと門限までに帰って来ないと」 「ごめんなさい」  薊はますますうなだれた。 「こんな時間まで、なにをしていたんだ?」  薊は答えなかった。ただ、耐えきれないというように頬に涙が伝っていた。薊は端をつまむように白いハンカチを手にしているのだが、それを使おうとはしない。 「貸して」  そのハンカチで涙をぬぐってやろうと薊から取り上げると、薊は慌てたように「あっ」と声を上げた。 「なに?」  このハンカチと薊の門限破りは、関係があるのだろうか。  ハンカチを手の平に載せると、折り目がひとつ開いた。  すると、ハンカチに草が挟まっていた。  緑の草。  いや、よく見ると――  満作は驚いて薊を見た。  薊は頬を涙で濡らしたまま、おずおずと口を開いた。 「あのね、シロツメクサは冬には枯れちゃうんだ。だけど暖冬なら、ちょっと残るの。今日ね、学校が終わってからずっと探してたんだけど、なかなかシロツメクサが見つからなくて」  薊は涙を堪えるように一度唇をかみしめて、大きな瞳で満作を見上げた。 「オニーチャン、昨日、『ついてない』って言ってたから、どうしても今日、プレゼントしたくて」  ハンカチには、四葉のクローバーがひとつ、包まれていた。 植物に詳しくなくたって知っている。  ――四葉のクローバーは、幸運を呼ぶといわれている。 「今日は、オニーチャンの誕生日だから」  一月十六日。 この日の誕生花が『満作』という植物だったため、その名前を親につけられたのだ。 「お誕生日おめでとう。心配かけてごめんね、オニーチャン」  満作は言葉にならず、隣に座って薊を抱きしめた。小さな身体をこんなに冷やして、寒い中どれだけ探していたのだろう。 冬にあるはずがない、幸運の四葉のクローバー。  それを薊は見つけ出したのだ。 満作のために。 「理由も聞かずに、怒鳴ってごめん」  満作は謝った。胸のなかで、薊は小さな頭をふるふると振る。  薊は顔を上げて、満作を見た。瞳は涙で潤んでいるが、笑みを浮かべていた。 「ボクね、オニーチャンが迎えに来てくれて嬉しかったんだ。本当はね、オニーチャンと遊べなくなって、すごく淋しかったの。でもね、オニーチャンは中学生だから、ボクばっかり時間をもらっちゃいけないと思っ……」  薊が言い終わる前に、満作はまた薊をかき抱いていた。ぐしゃぐしゃになった顔を見られたくなかったから。  薊の顔を胸に押し付けたまま、 「オレだって淋しかった」  と、満作は本音を言った。毅然としていたかったけれど、声が少し震えた。 「じゃあ、一緒だね」  薊は嬉しそうに満作の背中に小さな手を回した。  二人は手をつないで家まで帰った。  満作は手をつないでいない方の手をコートのポケットに入れていて、その手で四葉のクローバーを包んでいるハンカチを大切に握っていた。    数日後。 「薊」  登校のためにスニーカーに足を突っ込んだ満作は、玄関で思い出したように振り返り、クイクイと指先で薊を呼んだ。  まだ朝食を食べていた薊は、立ち上がってスリッパをパタパタと鳴らして満作に近寄る。  満作の突き指はかなり回復していた。ボールはまだ扱えないが、今日から部活に復帰して、簡単な練習から慣らしていく予定だ。  満作はバスケットボール部を辞めようかと考えていたのだが、薊の希望で続けることにした。対等な兄弟なのだから、重荷になりたくないと言うのだ。小学生のくせに生意気だと満作は思ったが、薊らしいとも思った。 「なあに、オニーチャン」  小四男子の平均身長よりも低く、女の子のような声と容姿の薊を満作は抱きしめた。 「どうしたのオニーチャン」  薊は驚いたように満作の腕の中で身じろぎした。 「充電しようと思って」 「充電?」 「うん。半日薊と会えなくても大丈夫なように」  なにそれ、と薊は笑う。 「じゃあ、ボクも」  細く柔らかい腕が満作の背中に回って、おそらく力いっぱい抱きついてきた。ふんわりとした心地いい圧に、満作は満足した。 「行ってきます」  薊のサラサラの髪をかきまわした。 「いってらっしゃい」  兄バカと言われようと、手を振る薊の笑顔は天使に見えた。  それから兄弟のハグは習慣になり、あいさつと同意になった。 *  *  *  薊の持っている本には、四葉のクローバーを乾燥させてラミネート加工をしたしおりが挟まっていた。満作が作ったものだ。 「わたしの誕生日に、アザミンがくれたものだからね」 「嬉しいな」  薊ははにかんだあと、ふんわりと微笑んだ。 「兄さん、誕生日おめでとう」  十七年前のことを思い出していた満作は、一瞬過去のことを言われたのかと思った。 「……そういえば、今日は一月十六日、だっけ」 「自分の誕生日を忘れてたの?」  薊は目をぱちくりとさせた。  数日前までは「そろそろ誕生日だな」と思ったりはしたが、多忙で頭の隅からも零れ落ちていた。この年になってしまえば、誕生日なんて特別感もない。 「毎年花じゃ芸がないし、かといって兄さんにプレゼントを買っても、このインテリアに匹敵するものを僕が選べる自信がないから、あとで一緒に買いに行こうと思って。一緒にでかけてもらえる?」 「兄弟で、そんな気遣いは無用だよ」 「僕がプレゼントしたいんだよ。だめかな?」  まるで自分が「買って」とおねだりするように、薊は小首をかしげて満作を見上げた。小動物が哀願するような表情だ。この顔を見ると、満作はなんでもしてあげたくなってしまう。 「わたしが選んだら大変だよ。後悔しても知らないから」 薊は瞠目して瞬きをした後、真顔でこくりと頷いた。 「預金はそれなりにあるから、きっと大丈夫」 満作は内心苦笑して、薊の柔らかい髪をなでた。どれだけ高級なものを買わされると想像したのだろうか。 「わたしはシャワー浴びてくるから、朝食を作っておいてくれる? どれだけ腕が上がったか、楽しみにしてる」  薊の顔がぱっと輝いた。 「うん。任せて」  薊は嬉々として、ビニール袋の中の食材を広げだした。  準備を整えてからバスルームに向かう途中、薊のほっそりした背中を流し見た。 両親については不満が多かったが、薊という弟を与えてくれたことには感謝している。世界広しといえども、こんなに愛らしい弟はいないだろう。  満作はたっぷりと時間をかけてシャワーを浴びた。  薊は腕を振るって何品もの和食を作っていた。  ――薊の料理の腕は、以前と変わっていなかった。  ただ、どこか外れた微妙な味は、日本酒と合わせればいいアクセントになった。  子供の時にはできなかった裏技だ。  アザミンに料理を作ってもらうときには、酔わないように気をつけなきゃ。  満作はそんなことを思いながら、薊の料理を完食したのだった。 完 
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