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猫なのである。
吾輩は猫である。名前はあったが、今やよう覚えとはおらぬ。否、もともとあってもなくても、腹をすかせて愛想よく鳴けば、主人は飯をくれるので、そんな事は取るには足らぬ問題であったのだ。他にも散歩がてらの塀の上をひた歩き、方々の家の人々に愛想よくさえすれば、皆が勝手にいろんな名で吾輩を呼び、小腹は満たせたので全てはそれで良かったのである。舞い散る桜の花びらを追いかけ、子うるさい蝉の鳴き声の中、窓辺でまどろみ、猫じゃらしに夢中になっているうちに、やけに毎日寒くなれば、主人と、その他の家族の皆の衆が覗き込むPC画面の前に、邪魔がてら暖をとるため居座るのである。PCでは、何やら深刻そうな語り口で人が喋り、主人たちは吾輩を構う事も忘れて、心配げな顔つきでそれを覗き込んでいたりしていた。ここ最近ではPCだけではなく、テレビ画面でも、同じように深刻そうな語り口の人々を見かけ、それを皆が食い入る様にしている事が多くなった様な気もしたが、目を細める様にしてまどろむ吾輩の日々は、これからも何も変わらずに続くものだと思っていたのである。
それは何度目かの昼寝の後のいつもの日和の事だった。吾輩は、妙なる異変をひげに感じ、耳をピーンとするや否や、つんざく様な悲鳴をも聞いて目をあけた。やれやれなにごとかと、気を取り直す様にあくびをしながらしばし伸びをし、毛づくろいをすませた後、尻尾をゆらめかせてタンスから飛び降り、先ずは声のしたキッチンの方へと向かったのである。そこには奥方が立ち尽くしており、ある一点を凝視して、恐怖のあまりに目の玉が見開いたままである有様であった。既に、吾輩も、ますます鼻についた、その異様な血の匂いと腐臭にただならぬ事態を感じ、耳をくるくるとさせながら、そちらを振り向くと、先ずは主人のうずくまる背中が目についたのだ。そして、ムシャリ……ムシャリ……と、吾輩も、散歩がてらの戯れに狩りをした時などに口から醸し出す、咀嚼音を鳴らしていた。
(……ご主人?)
と、思わないわけでもなかったが、生き物の本能として、思わずペロリと舌なめずりをしてしまうのは致し方のない事である。だが、横たわる、喰らう相手の姿が垣間見えた時には、流石に体中の毛を逆立ててしまい、際に、シャーと唸り声すらあげてしまったのであった。
吾輩たちに背を向けたまま貪る主人の眼前には、既に息絶えた、吾輩を非常に可愛がった御嬢が横たわっていたのだ。夕飯時、彼らの足元という足元を、愛想よさげにすり寄っていたテーブルの下に連なるフローリングは、御嬢の血の海と化していた。やがてゆっくりとこちらを見やる主人の顔は、口周りを血だらけに、生気らしい生気も感じられぬ様にすっかりと青ざめていて、目はギョロリと、まるでいじめにいじめ抜いた後にくたばったネズミの様な目つきであった。だが、それは、今や、ゆっくりと立ち上がると、
「あ”……あ”……あ”……Ahx……」
喉の奥底から鳴き声にも似つかわしくないような声を漏らし、今度は奥方へと襲い掛かったのである。
「ギャ――――――――――――――!」
首元に噛みつかれた奥方は断末魔の声をあげ、いよいよリビングは更なる血の海と化していった。兎にも角にも吾輩は、体毛という体毛を逆立てさせながら、へっぴり腰に必死にシャーシャーと、声を殺す様な唸り声をあげつつ後退していく事以外に術はなかった。
ボキリ……ボキリ……
骨をも噛み砕く音が響き渡る中、吾輩は恐々としていた。
そして事態は更なる毛並みの逆立てを引き起こしたのであった。
主人であった者の何かが、奥方を貪っている只中であった。狩りの最初の得物となって倒れ伏していたはずの御嬢が、やがて、ゆらりと立ち上がったのだ。だが、最早、その顔も死骸の様に青ざめていて、うつろに目つきは伏せたまま、
「か……ガ……あ……ふ……」
と、到底、人が口にする複雑な鳴き声とも似ての似つかぬような代物を、か細く喉から漏らすだけであった。食い散らかせた腹の中からは、残った臓物の類が、ぶらりぶらりとぶら下がっている。やがて御嬢であった者も、主人の貪る側まで近寄ると、同類であるかの様に、今や息絶えようとしている奥方に喰らいつきはじめたのであった。これはたまらぬと吾輩がとった行動と言えば、一目散にそこから逃げ出し、先ほどまで昼寝をしていたタンスの上の、お気に入りの場所まで駆け上がると、不快この上ない事を、唸り続ける鳴き声で主張するのみで、お構いなく咀嚼音は響き渡っていた。
そして事態は更なる毛並みの逆立てを引き起こすのだ。
どのくらいの時間が過ぎた頃合であろうか。唸り続ける吾輩の、ピーンと張りつめる様にしていた両耳には、いつの間にやら咀嚼音の類は消え去っていたのだが、尚も強烈な死臭は鼻につくし、ひげは、未だただらなぬ気配ばかりを敏感に感じ取っていた。
ズサリ……ズサリ……
何がしかの物体たちは、吾輩が居ついて止まなかったこの家の中を徘徊している様子であったのだ。吾輩は、尚も唸りに唸った。気配が今や、少しずつと接近してきているのが解ってしまえば、タンスの真上の隅にうずくまってなどいられなかった。やがてへっぴり腰ながらも、吾輩は足を踏ん張る様に戦闘態勢すら形成し、警告の意もこめて余計に唸った。
吾輩の唸り声が彼らを余計に呼び寄せる事になる、などという人間らしい高等な知識なんぞ吾輩は持ち合わせてなどいなかった。
とうとう、吾輩が目にしたものは、つい先刻まで主人と奥方と御嬢の姿をしていたはずの、死臭漂う変わり果てた何かの物体だった。皆が皆、虚ろに、ギョロリと、こちらを向いていて、やがて何かに飢えるかの様に、吾輩の方へと両手を伸ばしてきたのだ。野生の本能として、彼らが吾輩を狩ろうとしているのは直ぐに分かった。最早、かつての主たちなんぞと言ってはいられぬ。シャーシャーと威嚇し、相変わらずのへっぴり腰ながらも、両足四本を踏ん張り、戦闘態勢を更に際立たせ、こちらも今にも飛び掛かってやる所存であるぞと警告を続けるのであるが、青ざめて、血管すら異様に浮きだたせた両手は、全く無意味である様に、方々から吾輩を捉えんとしてきたのであった。
別に餌を恵んでくれていた主たちであったから、という事は全く関係なく、吾輩は彼らと本格的に一戦を交える気は毛頭なかった。今にも飛び掛かってやらんとしている体制である事は事実だが、正直、この場からは直ぐにでも逃げ出したくてしょうがない一心でしかなかった。人間相手に、軽い猫パンチをかました後の、即座の一発の爪の一掻きには自信のある吾輩ではあったが、最早、人間とも呼べそうもない、この得体の知れない何か達に、吾輩のおつむは大混乱をきたしていたのだ。そして、意を決すると、じっと低く構える様にして一呼吸おいた後、吾輩は、方々から伸びる手の隙間を物凄い勢いでくぐり抜け、いつも散歩で出かける際に使用してきた猫ドア目指し、脱兎のごとく駆け出した。およそ本気の吾輩のスピードに、かつて人間であった頃からすらも、動作が緩慢となった彼らが追いついてこれないのは至極当然の事であった。
兎にも角にも、事態の把握にかかろうと、吾輩はいつもの様に、先ずは我が家の塀の上に、ひとまずひょいと飛び乗った。そこには、道路沿いをはさんで閑静なる一軒家が延々と連なる住宅地があり、更に眼下には海の彼方まで建物が敷き詰められた丘の下の光景が広がっている、そのはずであった。先ずはくるくると回る我が聴覚の中に聞こえてくるのは、あっちでもこっちでも人間たちの悲鳴と、ガラスなんぞが割れる音、そして逃げ惑う足音たちで、ひげと鼻にビリビリと感じるは只ならぬ死臭の気配ばかりであった。
バタバタバタバタバタバタバタ!!
唐突につんざく音がしたので、吾輩はおおきな目を点とさせたままキョロキョロと頭上を仰いだ。すると、そこには、よく窓辺でまどろむようにしていた時に、雲一つない空の中を飛んでいるのをぼんやりと眺めていた、ヘリコプターなる大きな鳥の群れ達が、すぐ間近を何匹をも横切っていっている最中であった。
DOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON!!
今度は轟音がして、いたるところから地響きが伝わった。我がひげと嗅覚は何処かで噴煙がしたのを感じ取っていた。塀の上にて、尻尾をピーンと張りつめさせながら呆然唖然としていたのだが。
キキーーーーーーーーーーー!!
すぐ横を、吾輩たちと同じように人間たちと親しげでありながらも、何故か人が離れると死んだ様に動かなくなる不思議な連中の種の一つ、車の奴が悲鳴をあげながら、蛇行するように駆けてきて、電柱にドーンと派手にぶつかり怪我をしたりしていた。と、途端に、奴は、DOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON! と、これまた、突拍子もない鳴き声をあげながら炎をあげてしまったのだ!
全く、いつも匂いも変だが、こやつらの体の中の仕組みはどうなっているんだか、吾輩には更に意味の解らない事だらけであった。ただ、どうやら、外にでている車の連中はこの一匹だけではないようだ。我が耳には、連中が長蛇の列を作っている時などに、前のやつを威嚇する際に発声する、プップーという鳴き声をあちこちであげているのが確認できた。
ふと、御嬢や奥方の膝の上でまどろんでいる時などに、主人の舌打ちと共に、我が家にもいた車も同じ鳴き声をあげていた事なんぞを思い出してみた。人間たちが、吾輩たちの事をどう思っているかは知らぬが、吾輩たちだって、たまにはちょっとした感傷にひたる事もあるのだという事も、ここに言い添えておく。
(……………)
とりあえず、黄昏てばかりもいられないので、猫背の背中を更に猫背に、様子を伺う様に警戒心をまるだしにしつつ、一足、二足、忍び足と、吾輩は、噴煙と悲鳴巻き起こる街中の塀の上を、歩き始める事にした。
そして事態は更に我が毛並みの逆立てを引き起こすのだ。
そいつはいつも散歩途中で散々からかったバカ犬だった。塀の上で座り込み尻尾をたらせば、飼いならされたやつはすっかり興奮し、首に巻かれたロールをピーンと一杯に張りつめさせ、庭先から噛みつかんとしてきたものだ。こちらは絶妙な距離感をもって、涼し気な顔をしている時が小気味いいひと時であった。そんなかつての道すがら、と、いうか塀すがら、なんだか、これまた只ならぬ感覚が鼻についたのだ。別にやつに情があるわけでもないが、吾輩はふいとその庭に視線を移してみたのであった。
(……………!!)
その光景を目にした途端に、これまた、吾輩は仰天した。
ムシャリ……ムシャリ……
先ずは聞こえてきたは、つい先刻、いづこかでも聞いた事のある様な咀嚼音であった。最早、その音には生き物故の食欲すらもわこうはずもなかった。そして目に飛び込んできたは、いつものバカ犬が、庭の草原に、死して横たわる姿であったのだ。この世は所詮、弱肉強食。バカ犬どもよりも遥かに厳しい世界に身を置いている吾輩であるから、別に死骸自体に驚く事はなかったのだが、喰らうものたちの姿が、明らかに吾輩の理解の範疇を越えていた。
シャ―――!!!
強烈なストレスを感じてしまった瞬間には、声をしぼりあげて牙をむいてしまっていた。哀れ、骨までむき出しとしたバカ犬の虚空な瞳の死骸に群がっていた後ろ姿たちは、その家に住む、犬の主たちであったはずの人間たちであったのだ。やがて、しぼりあげる様に鳴いた吾輩に反応した者たちは、ゆっくりとこちらを振り向いた。そして、ここでもまたどの顔も、吾輩の主であった者たちのように、青ざめ、いたるところの血管すら血走っていて、口の周りを真赤にしていた。
今や、そこ、ここ、かしこから、吾輩をとらえんとする血走った腕が伸び、びびりながらも牙を剥き出しに、シャーシャーと威嚇を続けていた、その時だった。一際に地が揺れたのだ。
ゴォ――――――!!
只ならぬ爆音の気配すら海の彼方から感じると、相も変わらず人間だったものたちの視線は、こちらを見やるままに手を伸ばしていたのだが、一瞬の隙が生まれていた。飛び込む様にした後に、気づけば、今まで経験した事もないような大爆音と振動の中、ひたすら側溝の中をトンネルの様に駆け抜ける吾輩の姿があった。
あれからどのくらいの日々がたったであろうか。今日も照り付ける空の下、荒れ果てた街の残骸の中で、かつて人間だった死臭漂う者たちの彷徨う間をかいくぐっては、吾輩は餌を求めるのである。かつての世界なら追い出されてしまう様な、やたらと食べ物が並んでいる店なんぞ入り放題となったので、ある意味、この世は天国となった。たまに人間の一行にも出会えれば、そんな時はお得意の猫なで声である。中には、缶詰に食らいつく吾輩を同行させようとする輩もいたが、いつ変容するかも解らぬ人間に対し、既に強い不信を抱いていた吾輩は、そこまでココロを許す事はしなかった。
今までの事が嘘の様な世界となってしまったのだが、気づけば慣れるものだ。だって、どんな状況になろうとも、食って、寝て、糞をたれ、暮らしていくほかないのだからしょうがない。今日も廃墟の中を行く、吾輩は猫である。
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