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【安斎透の初詣】※新作というかほぼ観光案内
安斎透は、必死であくびをかみ殺していた。
いつもの出勤より二時間ほど早くとも、銀座線の車内はちゃんと暖房が効いている。世間が正月休みのせいか満員ではなく座れてしまっていることも、眠気に拍車をかけている。
だが、ここで寝る訳にはいかない。なぜなら。
「眠い?」
「いえ」
隣の席には、山本歌織が居るのだ。
万が一眠ったら、きっと置いていかれてしまう。眠った同僚を揺り起こすなど、歌織には相応しくない。むしろ打ち捨てて冷たい目を浴びせて下車して欲しい。渋谷と浅草の間を目が覚めるまで往復する自分の姿を想像して、安斎は首を振った。
乗っているのが半蔵門線ではなくて良かった。想像であっても、神奈川や埼玉まで運ばれたくはない。
「無理して付いて来てくれなくても良かったのに」
「そういう訳には行きません!初詣の混雑に乗じる不埒な輩が居ないとも限りませんしっ」
今二人が向かっているのは、初詣だった。
年末に初詣の話をしていて、元旦は自宅近くの神社に初詣に行くが、店の氏神様には営業初日の早朝に行くという話を聞きつけて、お供させて下さいと頼み込んだのだ。
歌織は最初は遠慮した。しかし、「安斎くん、まだお参りしたこと無いんじゃない?」という山本恵祐の口添えで、一緒に行くことになったのだ。
「法人としての祈願の参拝は社長が代表して行くけれど、個人的にもお参りしたくて、毎年朝にご挨拶だけしに行ってるの。店舗を構えていない企業だと、営業初日は全員で初詣の所も有るらしいけど……氏子に企業が多い神田明神なんか、仕事始めの日は境内が参拝する男性で埋まって真っ黒になるのよ」
「へえ……」
おじさんばかりが埋め尽くす神社の境内というのも異様な気がする。
「近くじゃないんですね、氏神様」
店の最寄りの銀座一丁目ではなく、少し離れた京橋から乗って二つ駅を過ぎたが、歌織はまだ降りる気配が無い。
「ええ。あなた、夏はまだ居なかった?」
「はい」
安斎が修行に来たのは、秋の初めだ。夏はまだ地元に居た。
「うちの店のあたりは、神社の氏子の区域が入り組んでるのよ。これから行く日枝神社と、神田明神と、鉄砲洲稲荷神社。夏は御神輿がたびたびあちこちに出て混乱するわ」
「神田明神って、仕事始めに埋め尽くされるってとこですよね?あそこも、遠くないですか?あと、鉄砲洲稲荷ってどこです?」
神田明神には行った事が有る。神田というのに最寄り駅が御茶ノ水で不思議に思った。鉄砲洲、というのは駅名ではないだろう。
「確かに、近くは無いわね。でも、日本橋の一部まで、神田明神の管轄なのよ。鉄砲洲稲荷は、八丁堀駅の向こうに有る神社」
「……複雑ですね……」
八丁堀の向こうなら近いだろうが、赤坂や御茶ノ水の神社の管轄が……広すぎる。
「あ。次で降りなきゃ。神社の入り口が大きいとこだけで三カ所あるけど、どこから入りたい?」
「一番メジャーなとこで」
そう答えると、歌織は安斎をじっと見た。こんな答えで見詰めてくれるなら、百回くらい答えたい。
「メジャーな所は表参道じゃないのだけど、良い?」
「え」
表参道とは、最大の参道ではないのか。最大の参道が表ではない神社が有るとは思わなかった。
「降りて一番近いのは、西参道。エスカレーターも有る大きい参道で、鳥居からかなり登ることになる。でも、もともとの表参道はそこじゃないの。そっちは坂の上に鳥居が有って、上がってすぐに参拝のための門が有るわ。山の上に神社が有るみたいなものだから」
山の上の神社。つまり、どの参道を選んでも、必ず登るということだ。
朝っぱらから、年の初めから、プチ登山。しかも安斎は──いやいや。歌織に付いていく為ならば、怯んではいけない。
「じゃあ、表参道から入って、西参道から帰りましょう。西参道のエスカレーターは上りだけだから、全部歩くわよ。頑張って」
「はいっ……」
この後、安斎は表参道の通称「男坂」の一段一段が高い石段に目眩を覚えて左手に有る緩やかな「女坂」を上る事になり、帰りも鳥居を見下ろすメジャーな西参道に目眩を覚えて途中から右手に折れて緩やかな参道を選ぶ事になる。
「もっと体を鍛えた方が良いと思うわよ、安斎」
帰りの地下鉄で、歌織に溜め息を吐かれて。
……違うんです、歌織さん。
単に、高い所が人よりちょっと怖……苦手なだけなんです……!
自分の弱点を打ち明ける勇気が持てなかった安斎透は、深く項垂れたのであった。
【終】
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