牧先生と千都香(金継ぎ師弟の恋にはなれない恋の話)

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【ちゃんとしてください】※新作 「ご注文は?」 「いつもの。」  ──いつもの。  それは飲食店の常連であることを示す、古典的な注文方法である。 「いつもの、何ですか?」 「いつもの、普通のビール。」  ……ですか。  ですよね。  そうだろうって、思ってました。  しかし、ここは職場だ。壮介宅ではない。  平取千都香は思った事は口にせず、引き続き粛々と仕事を続けた。 「……ご注文は黒ラベルの生の中ジョッキで、宜しいですか?」 「さっきからそう言ってんだろ」 「言ってませんよ先生」  オーダーを端末に打ち込みながら、小声で呟く。何かとうるさい今の時代、飲食店では注文を聞かず確認もせずに品物を提供することはほぼ無いだろう。たとえ相手が常連であっても、親しい人間で有ってもだ。 「お前なあ。そこは『先生』じゃねぇだろ」 「え」  先生以外になんと呼べと?と思った千都香の耳に呆れた声が聞こえた。 「ここは、俺んちじゃねえんだぞ。今は『お客様』だろ。ちゃんとしろ」  「言ってませんよ」への返事ではなく逆にクレームを入れられて、千都香の眉間に皺が寄る。  お客様だろというのは確かに正しいが、注文すらちゃんと出来ない様な「お客様」に、そんな事を言われたくない。  しかし、壮介はお客様である前に師匠でもある。渋々であっても、言われた事は聞かざるを得ない。 「……かしこまりました。申し訳ございません、『お客様』」 「うん」 「……ですがっ!」 「あん?」 「お客様も、ちゃんと注文して下さいよっ!」 「は?ちゃんと注文出来てんだろうが」 「それはぁ、私が先せ……お客様のご注文を察してカバーしてるんですよっ!」 「察するほど難しい注文してるか?」 「うっ」  していない。壮介はいつも、同じ物しか──黒ラベル生中ジョッキしか、頼まない。 「それはっ、私が注文を聞いてるからで……私がオーダー取ってない時、どうしてんですかっ?!」 「お前が居れば、お前が注文取るだろうが」 「うぅっ」  その通りだ。今日の様に壮介ひとりの時は絶対にだし、和史や毅と来ている時も、出来るだけ千都香が注文を聞いている。ちなみに後者が必ずではないのは、和史が適当に間に入って、壮介の「いつもの」を言い直してくれるからである。 「それは、そうですけどっ、私が居ないときはっ」 「お待たせ致しましたー」 「え」 「えっ」  ひそひそとくだらない言い争いをしている二人の横から、声が掛かった。 「黒ラベル生中ジョッキでーす」  声だけでなく、ジョッキも置かれる。 「注文通って上がってるのに担当者さんが取りに来ないって田仲がムッとしてたから、代わりに持って来ちゃいましたー」 「ごめんっ……」 「ごめんは田仲にお願いしまーす。お客様とじゃれるのは程々にして、ちゃんとお仕事してくださーい?」 「申し訳有りませんっ……」 「悪かった……」  別にじゃれてなど居なかったのだが、そう思われても仕方ない事はしていた……かもしれない。  壮介は木村に頭を下げて神妙にビールを飲み、千都香は木村に平謝りつつキッチンに戻った。 「申し訳有りませんでしたっ……今後、気をつけます」 「そんなに気にしなくて良いわよ、今そんなに忙しく無いし。でも、ビールが不味くなったら可哀想でしょう?」 「ですよね……ほんとすみません……」  もし壮介のせいだとしても、失態だ。お客様は誰であってもお客様だ。言い争うのはここでなくて良い。 「でもまあ、安心して、平取ちゃん。」 「え?」  反省している千都香の肩を、木村が慰める様にぽんと叩いた。 「平取ちゃんが居ない時には来ないから、『先生』」 「……へっ?」 「そうねぇ。平取さんのお友達方三人の中で、あのお客様だけは、平取さんが居ないときには来ないわね」  木村に言われ田仲に頷かれて、千都香の顔がなぜか熱くなった。 「なんで居る居ないの話になってたか、分からないけどさー?そういう事だから、安心して」 「別にっ、そういう意味じゃ」 「あ。呼ばれてるわよ、平取さん」  田仲に言われて見ると、壮介が手招いている。ジョッキが空だ。お代わりの追加注文だろう。 「……ちゃんと、仕事してきます……」 「よろしくー」 「頼むわね」 「はいっ」  千都香は二人に頷くと、「いつものお代わり」と言われるであろう追加注文を承りに、壮介の元へと歩いて行った。          【終】    
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