そこまでハードルが高くない痴話喧嘩シミュレーション

4/5
前へ
/5ページ
次へ
 雄介は質問の答えを考えている様子だった。うーんと唸っては、ビールを口に運んで、腕を組んでまたうーんと唸る。 「でも、普通に考えて、悪いほうが謝るものじゃない?」 「悪いほうって、例えば?」 「例えば、なんだろうな」  雄介は酔って頭が回らないようである。もうビールも五杯目だっけ。 「じゃあこうしよう。こないだのクリスマスのディナークルーズ、待ち合わせ時間に間に合わなくて二人ですっごいバタバタしたじゃん」 「なに、急に」 「私も例えが浮かばないから、ただの題材だって。ホテルから無料で出てるシャトルバスに乗れなくて、ホテルに着いたあとタクシーで船の乗り場に急いで行く羽目になったでしょ? 無駄に千円かかったし」 「そういえば翔子が払ってくれたんだっけ、そのお金。え、もしかして、お金返してってこと?」 「千円ぐらい今更どうでもいいわよ。題材だって言ったでしょ。で、ホテルの部屋とセットになったクルーズは雄介が予約してくれたわけだから、雄介のスマホに何度もホテルから連絡があったけど、雄介は運転中だから気づかなくって。そもそも、クルーズの出航時間は私たち二人とも頭にあったけど、ホテルへの待ち合わせ時間はちゃんと把握してなかったじゃん。雄介のメールにあらかじめ連絡はあったみたいだけど。私、船の出港時間よりももっと前にホテルでチェックインしとかないといけないんじゃないか、とは言ってたよね。でも、雄介はなにも確認せずに大丈夫だろうって」 「やっぱり怒ってる?」 「最後まで聞いて。でもさ、クルーズに行きたいって言い出したのは私だったけど、予約から行き方まで全部雄介に任せっきりだったじゃん。それに当日そんなにバタバタしたのは、私が直前まで買い物したがってたからなわけで、最終的には予想外の渋滞に捕まっちゃって」 「そうだな」 「だからあのとき、船に向かうタクシーの中で、『俺だけが悪いわけじゃないと思うけどな』って言ったの?」  雄介は明らかに怪訝な顔をしている。 「え、なに?」 「いや、雄介は悪いほうが謝るものだって思ってるんでしょ。その基準だったら、確かに雄介が100%悪いわけじゃないから謝らなくていいんだと思う。でもね、私は違うの。私は自分が申し訳ないと思ったときに謝るものだと思ってた。やっぱり、人に謝る基準って、人それぞれなんだなあって」  雄介はビールを飲み干した。視線は机の上の焼き鳥に落ちているが、食べようとはしない。 「あのときは結局船にも間に合って事なきを得たし、どっちが悪いとか、俺的にはもうどうでもいいかなって」 「なるほどね。でも、私はね、実はなんで謝ってこないんだろうって思っちゃったんだよね。シャトルバスの待ち合わせ時間をちゃんと把握できなかったのは、雄介が予約してくれたときにちゃんと確認してなかったからだし。渋滞に捕まった車の中で、ホテルから連絡きてたりしてない?って聞いたけど、携帯電話を確認しなかったのも雄介だし。タクシー代を私が出したときも、ありがとうすら言ってくれなかった」 「そうだっけ」 「だから私、雄介に謝られなかったから、申し訳ないと思ってないのかよってちょっとムカついてた。せっかくのクリスマスだったのに。でも、お互い人に謝る基準が違って、それを知らなかったから嫌な思いをすることになったんだね。この基準のずれが知らない間にお互いの精神を削って、相手を執拗に責めたり、相手を避けたりすることに繋がるんだと思う。多分、私が先週駅で見た夫婦も、仲直りできない生徒も、元辿れば基準が違うことが災いした結果なんだと思う」 「なるほど、繋がったな」 「そうね。じゃあ基準が違うんだったらどうすればいいか。お互いに基準が違うことを認識したあとは、お互いが歩み寄ればいいんだと思うの。雄介の基準では、雄介自身が100%悪いと思わなかったから、あのとき謝る必要なかったが正解だったんだよね。それを知らなくて、勝手にムカついたりしてごめんなさい」 「え、なんで翔子が謝るの」 「自分が申し訳ない気分になったからだよ。それに私は、ごめんなさいはプレゼントみたいなだと思ってる」 「プレゼント?」 「うん。軽い気持ちで渡されたり、なんでもない時に渡されたら嬉しくないけど、気持ちのこもったプレゼントをちょうどいいタイミングでもらうとすごく嬉しいじゃん。でも、モノじゃなくて言葉だから、あげても減らないでしょ? あげたいときに人にあげられる。あげる行為が、人に幸福を与える。だから私は、ごめんなさいは相手のために言ったほうがいいと思うの。ごめんなさいを、自分が悪いですって自分を戒めるためだけに使うのは、勿体無くない?」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加