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私が小学校へ上がる頃、母は家にほとんどいなかった。母方の祖父母が共に癌になり入院、手術になったからだ。
昭和50年代は、大病院でも完全看護ではなく、家族が泊まり込みで付き添うのが普通だった。母は、その為にいなかったのだ。
私の父親は婿養子。ある理由があって母方からは良く思われていなかった。
他にも、我が家は周りの家庭とは違うところがいくつもあり、小学校の時は、それが理由でイジメにあっていた。
当時の我が家は、昼間はお弁当のデリバリー屋を、夜は居酒屋兼雀荘を営んでいた。母の姉夫婦は、同じ市内で昼間は喫茶店、夜は雀荘。母の兄夫婦は都内に住み、叔母は夜の銀座で働き、叔父は歌舞伎町で雀荘の店舗を数件任せれ、プロ麻雀師でもあった。そして、祖父は歴史研究者、祖母は叔父と共にプロに近い麻雀師と、人には言えない者たちとも交流する、顔が広い人だった。
母が、祖父母が入院している病院にいるようになってから、我が家の夜の仕事はなくなり、昼間のデリバリーのみ。それでも父1人では無理があるので、1人は母の友人、1人は父の友人の2人の女性が手伝いに来ていた。
それを1年程続けていたある日、急に店を閉め、引っ越す事になった。私が住んでいた所では、サラリーマン家庭が少なかった。だからか、子供の目からは『サラリーマン家庭=お金持ち』に見えていた。勿論、私もそう思っていたので、サラリーマンになると父に聞いて嬉しかった。
そして引っ越したあと、一緒に住んでいたはずの父が時々いない。帰って来ない日があった。母に聞くと離婚したと言う。大好きだった父。その父を悪く言う母。ずっといなかった母がいるようになって、父がいなくなった。私には分からない事だらけだった。
しばらくして祖父が癌で亡くなった。亡くなった病院のベッドの横で、ずっと可愛がってくれていたはずの身内から言われる。
「おじいちゃんはね、おばあちゃんの内縁であって血は繋がっていない。お前のお母さんは、おじいちゃんの実の娘ではあるけれど私たちとは本来なら他人。だからお前も他人なんだよ。それにね、おじいちゃんが死んだのは、お前の両親のせい。お母さんが、お父さんみたいな男と結婚したから死んだんだ。反対したのにお前ができたから結婚して、親不孝・悪行をしたから、それを背負って死んだんだよ。お前の親は人殺しなんだ。お前はその両親から生まれた悪魔の子なんだよ」
そう言われた。まだ小学生だった私には、何を言われているのか分からなかった。ただ『悪魔の子』と『両親が殺した』だけしか分からなかった。
そんな事もあって、新しい家で母と2人、身内とも距離を置いたように暮らしていた。それでも最初の頃は、父は週に数回家に来ていた。そのうちに段々と来なくなり、月に1度会っていたのも無くなった。
父と会わなくなった頃、ある日、母は足を血まみれにして帰宅した。
「どうしたの?早く病院へ行かなきゃ」
怖かった。でも足以外は元気そうな母。それでも、目にしている状況は怖かった。
「病院?そんなお金どこにあるの?」
母子家庭になった我が家は、お金がないのだと知った。そしてその夜、母の血まみれの足の経緯を話された。
以前、お店の手伝いに来ていた父の友人だと言っていた女性は、実は父の浮気相手だったと言う。その事を追求する為に、その女性の所へ行ったら、その息子(私より1つ上)が、丁度、学校から帰宅。父に懐いていたようで、取られると思い、コンパスで刺したのだと言う。(後に、おばさんが私に謝りに来た)
『浮気』や『刺す』などの事をよく知らない私には、ピンとこない話だった。ただ、お父さん子だった私だけに、分かっていても分からないフリをしていたのかもしれない。でも、今にして思えば、周りと違う身内は、やくざに近い家柄だったので、きっと両親は私に分からないように、その様な言葉を耳に入れないよう、目に入らないようにしていたのだろう。特に父はそうしていたのだと思う。
私の小学校時代は、生まれた時から当たり前にいた人たちが去って行くと言う、寂しい事だらけだった。
小学校5年生の頃になると、母との暮らしに慣れてはきていたが、今度は男が怖いものだと知る事になる。
その頃になると、母は夜の仕事で水商売をしていた。夜は1人。ゴミ屋敷と化した家に1人。近所の人たちが心配してくれ始めていた。近所のおじさん数人が声を掛けてくれる。今みたいな時代ではないから、人の良い近所のおじさんがいる家に、子供たちは遊びに行く。私もその1人だった。ある日、私以外、誰も来なかった日に、おじさんのある部分を触って欲しいと言われた。子供の私は『汚いからイヤ』と答えるけれど、『触らなきゃ、もううちには来ないでね。うちのおばさんにも、あなたが来ないように言っとくから』と言われ、他の子は来るのに自分だけダメと言われるのがイヤという思いが強くて、言う通りにした。触ると、おじさんは苦しそうな顔をして『うっっ』っと言ったあと、下半身から白いものを出した。それが何なのか分からない私は、気持ち悪くて、でも頑張って普通を装いながら帰る。そのあとは何だか怖くて近寄らなくなった。そして、同じような事が他のおじさんにもされた。その時は触るだけではなく乱暴され、所謂、レイプだった。月のものも始まっていない子供の身体には、大人のソレは大き過ぎて入らなかった。怖くて、人を信用できなくて、何より男の人は怖いものだと知った。その事は誰にも言えずにいた。それは、未だに話してはいない。(さすがに夫にだけは話してありますが)
もう何もかも信用できない。中学へ上がってからは、男の人はもちろん、人をも信用できなかった。そして、そこに輪を掛けるように、母が帰って来なくなり、帰って来る時は知らない男の人と一緒に食事をする事になる。その時は母を『お母さん』ではなく『おばさん』と言わなくてはいけなかった。何回目かの時(何人目かの男の人の時)、思わず母を『お母さん』と言ってしまった。家に帰ってから怒られた。そのあとから、週に1日くらいしか母は帰って来なかった。人を信用できないのが、更に酷くなり、学校へ行ってもクラスメイト、担任からイジメられ、段々と学校へも行かなくなった。
ある日、数学と保健の先生が来た。学校でも優しい人だと思っていたが、家に来ても私をイジメない。それどころか『食事をしているか』『寒くないか』と心配をしてくれた。でも、昔は今のように行政が介入する事ができなかったので、あくまでもそこまで。それでも、その時の私には心強かった。
その心強さをバネにして、思い切って、以前住んでいた所の近所の人たちに父の居場所を知らないか聞いて回った。うちの裏には小さい家庭保育園があった。そこの園長先生はとても優しくて、小さい頃よく遊んでくれた。その先生の所に行くと、どう見つけたのか、父の住んでいる所まで連れて行ってくれて『この先は1人でお父さんの所へ行きなさい』と背中を押してくれた。
ようやく見つかった父に状況を話す。その後、母方の身内も集まり、親権を父にする事になった。勿論、私も父も身内からボロクソに言われた。
後に知った事だったが、母にはお金がないわけではなかったらしい。父は養育費として、離婚前と同様の月給の殆どを渡していたようだった。そして、自分の生活のために、夜も働いていたと言う。母はギャンブルに手を出し、それに父からのお金を使い、更に借金までしていた。
そして、親権を移動する為の親権裁判が始まった。母が親権を放棄しなかったからだ。親権裁判というのは大変だった。当時の裁判は親だけではなく、子供の私にもキツかった。
『貴方は女の子なのに、どうしてお母さんから離れたいのか』『女の子の貴方には、男のお父さんでは無理がありますよ』『中学生にもなって、どうしてお母さんの力になれないのか』など、帰って来なくなった母よりも私の方が悪いような言葉を、知らない大人数人に囲まれ、言われた。それは話を聞くと言うよりも尋問のようなものだった。
それでも何とか親権の移動ができ、1年後に父と暮らす。それまでは奉公人のような暮らしで祖母宅へ預けられた。
中学も後半になってから、母の兄であるおじさんの内縁の奥さんから、両親と身内の全てを説明された。母方は、やくざ寄りの者である事。父は母の前にも結婚をしていたが、母が略奪のようにして父と結婚した事。母の本当の母も曰く付きである事など、本当に我が家は普通ではないのだと分かった。そして、私だけが我慢していれば静かにいられるのだという事も分かった。
平日は父と普通の暮らしを。学校のない週末と長期休みの時は、都内の某所でのやくざな生活と、二足の草鞋状態で生きていた。そんな私だ。高校卒業して普通の道を歩むも、身内から横入りがあって、結局は、平日は父の仕事を手伝い(建築関係で独立していたので)、平日の夜は普通に友人と遊び(真面目な友人たち)、週末と、呼ばれた時は某所へ行ってやくざな生活という、今度は三足の草鞋生活だった。その生活を5年くらいした頃、祖母は他界。勿論、祖母の時も散々言われた。母は何事もない顔して私の前に現れていた。結局は、娘である母の代わりをしていた私。母は、自分が子供の頃から肩身の狭い生活をしていたのだろう。それから逃れるためにギャンブルへ手を出し、そして、私に押し付け逃げたのだと思い始めた。それでも、その頃には私は成人していたので、もう諦めるしかなかったし、私さえ黙っていれば、何事もなく静かにいられると思っていた。
その思いのように、そのまま何事もなくいってくれれば良かったが、今度は父が私を置いて、1人夜逃げしていた。平日の夜は、私は友人と遊んでいたので、父がいなくなった事に最初気づかなかった。朝、帰って来ると、前日に作った夕飯に手を付けていない事が続き、そこで気づいたのだ。
『ああ、まただ』
気づいた時には、その言葉しか思いつかなかった。そのうちに、家にいると、ドアをガンガン叩かれ、何処かの組の人が取り立てに来た。家から出て、数日空けて、着替えを取りに戻る。すると組の人がいる。そんな日々が続いた。
『もうイヤだ。私のせいじゃない。私は何もしてないのに』
今までも色々あったのに、この時初めてそう思った。きっと、そう思ったのは、付き合っている人がいたからだろう。それが夫だ。
今はもう夫婦仲も冷めきっているが、その時は当たり前だが違った。私は23歳、夫は40歳。夫に相談しつつも、身内にも助けを求めた。しかし返ってきた言葉は、
「お前は他人。どうして他人のお前を助けなきゃならない」
だった。二足、三足の草鞋を履き、病人が出れば看病をし、病院にも泊まり、奉公人のようにしていた。
『いつかきっと私を他人としてではなく、身内として見てくれる。だって、自分の人生をかけて、母の代わりをしていたのだから』
そう信じて傍にいたのに他人扱い。普通の世の中を知らない私を放り出したのだ。父だけではなく、身内からも捨てられたのだ。
そして『すぐに家を出ろ』と、夫の言葉を貰い、私は全てを捨てた。実家も、身内も、母親も、友人も。いつも傍にいてくれた友人数名以外は全て、誰にも言わずにその土地を離れ、夫と結婚をした。そして今に至る。
結婚してからの、この19年間には、震災もあり、他の災害もあったが、未だ、身内も母も私を探してくれてはいない。父は、私が結婚をしてすぐに見つかったが、2年程して病気になり、それでも一緒には暮らさず今も老人ホームにいる。17年くらい経つが、それでも全部は許せないのだ。大好きな父と思う反面、私を捨てたのにという、両方の想いが私の中にある。そして、子は、親に似る人と一緒になってしまうものだ。夫もまた、私の母に似た人物だった。完全には去っていないが、似たものだ。結婚をして、早く結婚しろと煩く言う自分の親を黙らせ、家庭を持った事で、会社でもそこそこな役職にも付いた。今は色々あって、他の会社で働いているが、昇進とは関係なくなってからは、私は家政婦のようだ。それでも、私には負い目がある。あの時、夫と知り合っていなければ、今頃、落ちるところまで落ち、生きてはいなかっただろう。命を落としていたとしても、普通の死に方はできなかったと思う。それに、苗字を替える事で、父の色んな事から回避できるようにしてくれた。何よりも、レイプをされたような私を妻にしてくれたのだ。
夫とは、今は冷え切った仲でも、楽しい時もあった。子供もいる。それを思えば、ここにいるのが私の業なのではないかと思っていた。
何かで言っていた。『今の人生は生を受ける前、自分で試練を考え実行している』のだと。
それを信じて今までやってきた。
今まで信じてきたのだから、もうそろそろ言ってもいいだろうか。
私が生を受けてから今まで、言えなかった言葉。そして言いたかった言葉。今、聞いて欲しい言葉。
それは・・・
「私をちゃんと見て」
「私は1人の人間であって悪魔の子じゃない」
「私を愛して欲しい」
「お母さん、お父さんって、言い続けたかった」
「いつまでも夫と抱きしめ合って、笑っていられると思っていた」
そして、この世を去る時に思った事は、
「次に生まれてくる時は、愛し愛されたい」
「信じてやってきた。自分で考えたであろう、この人生」
「さようなら私。でも頑張って生き抜いたよ」
~Fin~
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