【第1部】嵐の夜

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【第1部】嵐の夜

 嵐の夜。けたたましい雨音を発てて地面を打ち突く雨筋は水煙を巻き上げる勢いの豪雨。毎年この季節この土地を襲うこの豪雨は春の訪れを告げると云われる旬の嵐、いつ日が暮れたとも分からぬ程に薄暗かった夕刻時に暴風だけが一旦おさまったと言うが、既に三日三晩この土地一帯を襲い続ける暴風雨は毎年恒例と言えども人々が忘れた頃にやって来る災の一つと言えた。 闇夜に潜(ひそ)むはずの物音さえも掻き消す豪雨、この土地一帯で狂ったように暴れまくった暴風が静まった夕刻時からは地べたを刳るように降り続く強烈な雨足に変わり、いつもは賑やかな繁華街の灯りも豪雨の水煙に霞んでぼやけて見える。ぼんやり水煙る田舎町の灯りを眼下に置き去り、豪雨の中ひたすら真っ暗な上り坂(のぼりざか)を照らす二筋のヘッドライト、車の明かりらしき二筋が照らす先は激しい豪雨が包み込む暗闇ばかりで、嵐の最中に何故そこを走っているのか不思議にさえ思える異様な光景だった。 車は黒い大型高級車、ヘッドライトの明かりだけが頼りのせいか噛み締めるようにゆっくり、ゆっくりと暗闇の上り坂を走り行く。緩やかな傾斜、舗装がなされた上り坂は道幅も充分あり、小川の浅瀬のように溜まった雨水も道幅の微かな傾斜に従って道の端へ端へと流し出されている。水捌けの良い上り坂、これならば四足に履いたレインタイヤが威力を成す。 影を落とす巨大な暗闇を更に強烈な激しい雨筋が包み込む。フロントガラスからの見通しは最悪な程に悪かった。余程この上り坂に慣れている熟練ドライバーでなければ車の走行など無理、熟練した者でも制限速度の半分以下で走行する大型高級車を見れば最早そこから方向転換し上り坂を下って引き返す事すら儘ならぬのだと誰にも判る。 ヘッドライトの明かりが巨大な暗闇の中腹辺りに差し掛かった頃、眼下に霞んだ町灯りは一握りに見えた。 「ふぅ~」 と、ドライバーが安堵に似た溜め息を吐く。走り行く先の暗闇に激しい豪雨の中ぼんやりと灯る小さな明かりが一つ見えてきた。更に進むと小さな明かりは数を成し、徐々に巨大な暗闇に浮かぶように大きな建物を映し出す。 豪雨のベールに包まれて建物の全貌は定かではないが、大型高級車は音も無く滑り込むように建物の玄関口に横付けして停まった。嵐の夜、水煙る町の灯りを眼下に強烈な激しい豪雨に阻まれながらも大型高級車が目指した先はこの大きな建物だったようだ。 玄関口には屋根があるようで雨足は無く、大型車が優にすれ違える程の広さを持つ大きな石畳のエントランス、そこだけ昼間のように明るい夜間照明が放たれていた。暴風雨が見境なかった頃に吹き込んだ雨足でエントランスの石畳が濡れていて、そこに敷かれる濡れた敷石の一つ一つが鮮やかな色合いを映し出して見せる光景は宝石箱のように綺麗だった。エントランスの奥、その中央に佇む造り細やかな格子戸も通常の物より遥かに大きい造りのサイズで、一般の建物にある入り口とは違う匂いが漂っている。その前で横列を成す出迎え達は皆それぞれラフなスーツを着込んだ老若男女で、嵐の晩にも未だ職務中と言ったところのようだった。出迎えは十数名、いつもどおりの手順で落ち着いた雰囲気の中年女性が一人、横列の一番端から前に歩み出て大型高級車の大きな後部ドアまで歩み寄り、静かな手際でドアを開け、そこから一歩後退って控え立った。 「若様、おかえりなさいませ」 と、礼儀正しく深々と一礼する中年女性は厳格な顔立ちをしていた。それに併せ入り口前で横列を成す出迎え達が一斉に頭(こうべ)を垂れた。少し間をおいて、濡れた石畳に上品なチャコルグレーのパンプスが両足揃えて静かに着いた。そしてゆっくり、高級感溢れるスーツをシックに着込んだ年齢不詳の美女が、大きめの堅いトートバッグと小ぶりの女性らしい可愛いポーチを二つ片肘に提げ、雨露滴る黒い大型高級車の後部座席から降り立った。 「ただいま、小取さん」 と、『若様』と呼ばれる美女が微笑んだ。柔らかな亜麻色の髪先(けさき)を肩に下ろす若様は均整の取れた体格、女性の平均身長よりやや高めの背丈で優しく物腰柔らかな女性、それを物語る若様の微笑む表情には誰もが心惹かれ癒される事が多かった。美しい顔立ちは桁外れの美女、それ故その年齢は不詳だが若様の美しい顔立ちに我を忘れて見惚れる者も多いと聞く。 「若様、毎年の事とは言え今日も雨風が酷う御座いました。城下町でも嵐の被害が出始めたと聞きましたが、お仕事先や宿泊先の方で何か不都合な事は御座いませんでしたか」 出迎えに立つ小取という中年女性も、嵐の最中こうして帰って来られた若様の無事を安堵した表情で訊いた。まるで母娘のようにも見える二人だった。 「はい、何も。この暴風雨で仕方なく城下町の中方(なかがた)で二晩泊まりましたが、例年どおり今年も嵐の被害は南方(みなみがた)の大川付近が酷いようです。ここ東方(ひがしがた)は大丈夫でしたか、小取さん」 「はい、若様。東方は御山(おんやま)様の神力で守って頂いている土地ですから大丈夫で御座います。城下町の有線で南方の大川が増水し溢れそうだと聞きましたので、若様がお帰りの道中がとても心配でした。今夜が嵐の峠だろうとテレビの天気予報でも申しておりましたので今夜一晩お車はガレージの方に移動させておきます」 「はい、お任せします」 と、若様は応じた。「小取さん、今夜お会いする約束になっていたお客様はもう到着なさっておいでですか。とても大切な方なのです。毎年この時期に来る春の嵐は三日ほどで立ち去ってくれるからと予定を入れてしまいましたが、こんな事なら日を改めるべきだったと反省しています。変更のご連絡があれば応じたのですが、でも…」 「はい、若様。お客様方は、夕方前に到着なされて応接室で五時間程お待ちになっておられます。この暴風雨ではいつ帰って来られるか分からないので日を改めては如何かと私も申しましたが、それならそれで若様が無事に帰って来られた姿を見届けたいからと言われて今もお待ちになっておられます」 「まぁ、五時間も…」 と、若様は申し訳なさそうに驚いたが今も待ってくれている事には安堵の表情を見せた。「そうですか…随分お待たせしてしまいました…でも、どうしても会いたかったのです」 若様は、独り言のようにそう言った。 「応接室で五時間お待ちになっているのですから、会いたいと思う気持ちはお客様の方も同じで御座いましょう。若様、お客様方には私の方から若様がご帰宅なさった事をお伝えしておきますから、若様はまず先にお召し物をお着替えになられてくださいませ。たとえ雨に濡れていなくても湿っていれば同じ、お身体が冷えてしまいます」 「ありがとう、小取さん。お言葉に甘え着替えさせて頂きます。お客様には着替えて直ぐ行くとお伝えください」 「はい。『尚』ならきっと、どれだけでも若様をお待ち致しますでしょう」 と、小取は微笑んだ。小取の言葉に頷いた若様は、くるりと身を翻し嬉しそうに小走りして格子戸の中へと消えて行った。その後ろ姿を優しい眼差しで見送った小取は、「従業員の皆さん、この暴風雨も今夜が峠です。運転手さんは車を内(うち)城門のガレージに移動、皆さんはエントランスに物を置かず中に片付けて、正面入り口の格子戸に雨戸をしてください。フロントは全館内に外出禁止のアナウンスを流して戸締りを徹底してください」 と、無表情に出迎え十数人に指示を下した。運転手付きの大型高級車は再び豪雨の中へ走り去り、それぞれ正面入り口の内外に散らばる十数人の従業員を目で確認した小取も若様の後を追うように格子戸の中へと消えて行った。 轟々と降り続く雨、物が消えたエントランスから一人また一人と従業員達も格子戸の中へと消えて行く。最後には大きな自動雨戸が機械的に正面入り口の格子戸を覆った。そして、誰もいなくなったエントランスの照明が緑色に浮かぶ非常灯仕様に切り替えられた。
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